3日目 11月2日
宿の主人 塩田恵介さん
宿泊した「滝のや」当主の塩田さんはとても気さくで、話好きの方だった。昨夜も細やかな気遣いを見せながら「これはみなさんに差し上げますので、お持ち帰りください」と言って、ツアー参加者全員に、写真家の星賢孝氏による奥会津・只見線の写真が載った来年のカレンダーと冊子『祝 通算1000回記念「小さな宿の勉強会」~花ホテル講演会~』をくださった。星氏は、私も何度か会って知っている人だ。台湾の人たちに人気があって「先生」と親しまれている。
朝食時に塩田さんは食堂広間の舞台に掲げた横断幕を示しながら、「小さな宿ですが、来客の方々や私ども地域の住民も共に、勉強し合えたら良いなぁと思って、講師の方をお招きしてたびたび講演会を開いています」と言った。昨夜いただいた冊子を見ると2001年2月2日に第1回を開催、「国際経済と日本経済」と題して国際エコノミストの奥崎喜久氏が話している。様々な分野の色々な人を講師にして毎月1回あるいは複数回、開催し今年の6月で868回を数えている。
同じ業種にいて以前から塩田さんの活動を知っている里見さんは、少し年長である塩田さんに大いに刺激されているようだった。
霊巌山円蔵寺
只見川川畔の岩山に建つ赤べこ伝説のお寺は、滝のやから程近い。塩田さんも同行して説明をしてくれた。山号は霊巌山で、臨済宗妙心寺派の寺院だという。本尊は福満虚空蔵菩薩で「柳津の虚空蔵」として知られ、日本三虚空蔵の一つだそうだ(あとの二つは茨城県東海村の村松山日高寺の「大満虚空蔵菩薩」と千葉県鴨川市の千光山清澄寺の「能満虚空蔵菩薩」だそう)。だが、宮城県登米市にも「柳津虚空蔵」を名乗る宝性院があり、ここも日本三虚空蔵を名乗っていて混同するので、円蔵寺を「会津柳津虚空蔵尊」とし宝性院を「奥州虚空蔵尊」として区別している。
虚空蔵菩薩は虚空が広大無辺の功徳を包み無限に智慧と慈悲を備え、いかなる人でも福徳円満が授かる因縁を有していると言われる。生かされている自分に感謝し、一心に陀羅尼(仏教の呪文)を唱え、善行を積むことによって菩薩は我々の世界に現れて悩みや苦しみの願い事に応じて教え導き済度するという。
本堂前には大きな赤べこが立ち、その頭をそっと叩けば首を振る。その赤べこの腹と尻の部分には黒い斑点がある。1713年に天然痘が蔓延した時に、こどもが罹患しないようにと願をかけたら効験があったのだという。ここが赤べこの寺とされるには、こんな謂れがある。
1611年に会津地方を襲った大地震で、虚空蔵堂をはじめ本堂や民家が倒壊して柳津町は大被害を受けた。1617年に虚空蔵堂は再建されたが、本堂再建のためには大きな材木を只見川の向こう岸からこちらに渡し、切り立った岩山の上に運ばねばならない。人々も荷役の黒牛もほとほと疲れ切って困り果てていた時に、どこからともなく力強そうな赤牛の群れが現れて、材木を運び、本堂を建てることが出来た。本堂が完成すると赤牛たちは、スウッと空に消えたのだという。
この「大きな材木」の大きさを説明するのに塩田さんは数字を挙げて説明してくれたのだが、私はそれのメモを取り忘れた。この伝説が境内に赤べこを祀る由来だが、先に挙げた首を振る赤べことは別に、石像の牛、銅像の牛も置かれている。自分の体調の悪い箇所を牛の体になぞらえて、そこを撫でれば良くなると信じられている。元々は石像だけだったのだろうが、観光地化されていったことで、首振りの赤べこが置かれるようになったのではないだろうか。銅像はこの寺に詣でて実際に体の不調が治った人が寄進したものだそうだ。
奥之院は室町中期に建てられたもので、国の指定重要文化財だそうだ。宝形造りで茅葺き屋根の三間堂の佇まいは、静かで好もしかった。その奥に建つ庫裡は凝った造りで随分と広い建物で、イベントスペースも兼ね備えているらしかった。
駐車場に戻る途中で、ザックを背負った外国人が眼下の風景を写真に撮っているのに気づいた塩田さんは、「こうしてインバウンドで外国の人も来てくれる。彼が写真を撮っているところを、写真に撮らせてもらおう」と言って、カメラを向けた。
私たちは塩田さんにお礼を言ってバスに乗り込んだが、塩田さんも丁寧に頭を下げて「また来てください」と言いながら私たちを見遣り、バスが出発しても道を曲がって見えなくなるまでずっと、両手を振って見送ってくれた。
柳津西山地熱発電所
柳津町には柳津温泉と西山温泉があるが、その西山地区にあるのがこの地熱発電所だ。そこへの道を辿る間、時々向こうの山間に白く蒸気が噴き出しているのが見えた。見えるたびに私たちは「あっ蒸気だ」「見えた」などと声を上げながら、紅葉の山々を眺めて行った。
発電所前に着いた。大きなドラム缶を並べたような冷却塔が8基、塀に囲われた建物の屋上に設置されている。その向かい側にPR館があり、冷却塔とPR館に挟まれるようにして、こじんまりと建つのが発電施設だ。発電施設は無人だという。あらかじめ申し込んでおけば見学ができるそうだ。まず目につくのがPR館の手前に置かれてある水色やオレンジ色に塗り分けられた大きなタービンだった。
私たちはPR館に入った。ここは子どもたちの見学も多いのだろうか、発電所の仕組みなどが「スチーム君と博士」のやり取りで学んでいける仕掛けの、ミュージアムのようだった。火山地帯の地下数キロメートルのところにあるマグマ溜まりの熱で作られた蒸気をボーリングによって地上に取り出し、その蒸気の圧力でタービンを回して発電する。そうしたことがミニシアターや、ボタンを押すと状態が変化していく仕掛けなどで、文字や言葉ではなく視聴覚から学べるようになっていた。
ここは東北電力グループ傘下の東北自然エネルギー株式会社の事業所だが、この会社は柳津西山の他に岩手県八幡平市の松川、岩手県雫石町の葛根田2号、秋田県湯沢市の上の岱、秋田県鹿角市の澄川と5ヶ所5基の地熱発電所を持ち、最大出力の合計は15万3,790kWになるそうだ。
来る途中で山間に真っ白な蒸気が噴き上げているのが見えていたのだが、この日は定期検査日で発電機を止めていたために蒸気が輸送されずに地下1500〜2600mから地熱流体を取り出す「生産井」のあるあたりから外に排出されていたのだそうだ。発電機が稼働していれば、冷却塔からの排気があるはずだし、発電所ももっと賑やかな音がしていたはずだった。
パンフレットによれば「機械類をできるだけ屋内に設置するとともに、低騒音型の機械を採用し、その配置に考慮するなど、騒音対策を図っています。振動の発生する機械類については、建物ならびに機械類の基礎を強固にするなどの対策で、万全を期しています」とある。今度は発電機が稼働している時に見学したいと思った。
日本で初めて地熱発電所が運転開始したのは1966年10月8日だそうだ。発電について全く関心がなく過ごしていた若き日の私を、苦く思い起こしていた。
会津の暮らし
バスでの移動中に、「会津のような豪雪地帯の家屋の建築様式は他の地域とは違う」と、会津で生まれ育ったマロさんが言う。そう聞いてすぐに思い浮かべるのは屋根の勾配だが、マロさんが言うのは勾配のことではなくて玄関の位置のことらしい。雪下ろしをする時に玄関口の方へ雪を落とさないようになっているのかと思いながら聞いた。
また会津は蔵が多いという話にもなった。その「会津では」が話の切り口になって、今野さん、里見さんと3人で、ひとしきり会津の特徴的なことを話題にしていた。会津で刺身と言えば馬刺しのことだとか、馬刺しを初めて食べた力道山はすっかり好物になってしまって以後よく食べにきていたとか。参加者の私たちはただただ「へぇ~っ」とばかりに聞くだけだが、自分が知らずにいた地方の文化などを知って興味深かった。力道山の話をしていた彼ら3人は、キラキラ目を輝かせて12歳の少年に戻っていたようだった。それもまた、面白いことだった。
普通、バス旅行といえば車内で自己紹介とか隣の人とのおしゃべりや、時には歌が飛び出したりなど余興時間になるのだろうが、このツアーでは見学場所に関してガイドの3人からの説明に耳傾けるのがほとんどなので、このようないわば本筋から外れた話題は、殊に印象深かった。
古河鉱山 大煙突
古河鉱山の銀鉱採掘跡に行った。
住む人のない家や廃業した郵便局、寂れた集落の人家が途絶えた先の雑草の茂る中に、煉瓦造りの大きな煙突が孤高に立っていた。根元は崩れかかっており上の方はもういくらか欠け落ち、間には木が生えていながら、すっくと立つ姿はやがて果てる前の寂しい美しさを備えて見えた。煉瓦という材が、なぜか懐かしさを呼ぶためかもしれない。マロさんが熱を込めた口調で煉瓦のサイズが通常のもの(14×28cm)よりも小さく7×14cmというサイズなのだと説明してくれた。この煙突の設計者は釜石製鉄所を設計した人と同一人物だという。
煙突の足元には野菊が揺れていた。斜面には上に向かう道があり、今は辿る人も無い道路の縁には低い石垣が立てられ、その外には水が流れていた。外れて細く踏み跡があるのはどうやら獣道のようだった。今あちこちでクマ出没のニュースが相次いでいるから、今野さんがピィピィと笛を鳴らしながら道路跡を辿って登ると、ズリ山に当たった。抗口はもっと上の方にあるらしいが、私たちはここから引き返した。
周辺には鉱山跡地の石碑があり、その横に建つ木造の一軒家の前には「郵便局跡」の立て札があって、かつては集落があったことが窺えた。
共同経営者の一人だった大島高任(タカトウ)は1874(安政4)年に釜石に洋式高炉を建設し翌年鉄鉱石精錬、銑鉄創業に成功した人物で、「近代製鉄の父」と呼ばれている。私たちが見た「古河鉱業の煙突」は、大島高任が建設した洋式高炉なのだった。
マロさんが「釜石製鉄所と同じ設計者が」と言ったのは、このようなわけだった。
ツアーの終わり
山を越えて会津への道を辿った。道路脇の蕎麦畑には、白い花が群れ咲いていた。新蕎麦のシーズンなのに、今どき花盛りなのは晩生(おくて)なのかしらと思った。磐越西線の2両編成列車が会津若松方面へ向かって過ぎていくのを見た。
ちょうどお昼時にかかっていたので「道の駅ばんだい」で昼食休憩にした。連休の中日での昼食時なので混乱していたから、滞在時間50分と決めて各自自由に何か食べて買い物もしてバスに戻ることにした。でも、さすがここにはインバウンド観光客を見ることはなかった。
郡山までのバスに揺られながら、3日間を振り返り噛み締める。今野さんに「一枝さんの妄想から始まった」と言われたが、しみじみ良い旅だったと思いが溢れる。
誰も怪我もなく体調不良にもならず、楽しく有意義に過ごせた時間だった。里見さん、マロさん、今野さん、そしてマイクロバスを運転してくれた末永さんに、本当にお世話になって、感謝しかない。
郡山駅で解散した。
里見さん、マロさんは末永さんの運転するマイクロバスで湯元に戻る。今野さんはオプションツアー参加のMさんを自分の車に乗せて、大熊町、双葉町、浪江町を経て「おれ伝」を案内して今夜は小高の双葉屋さんに泊まる。明日はMさんを伝承館やイノベーションコースト構想の各施設を案内して巡った後で福島駅に送ってくれる。それをもって、「紅葉を見に行こうよう! 福島歴史とエネルギースタディツアー」は全て終了。
みなさま、ありがとうございました。



