第12回:「暮らしていけない」―― アフォーダビリティ・クライシス(小嶋亜維子)

地下駐車場で毛布にくるまった家族

 先週末のシカゴは大寒波に襲われ、明け方の最低気温はマイナス17度(風によって体感温度はさらに下がりマイナス25度)、日中の最高気温もマイナス11度までしか上がらなかった。ここまで寒いと、外に出て一瞬で鼻の中の湿気が凍ってしまう。私自身は試したことはないが、よくカップに入れたお湯を空中に投げると雲のようになる動画をSNSで見かける。シカゴに住み始めた頃は、こういう大寒波の日は絶対に外に出なかったものだが、今では「なるべく」出ないようにしている。今回も結局近所のスーパーには行った。車移動のため駐車場を数分歩くだけなので、それくらいはなんでもない体になってしまった。

 スーパーの地下駐車場に車を停めて出ると、若い夫婦と小さな女の子が毛布にくるまって、エレベーターの横のところに座っていた。街にはあちこちにそうした人たちがいるけれども、この場所で見たのは初めてだった。きっとあまりに外が寒すぎて、この日ばかりは少しでも寒さが和らぐ地下にいたのだろう。中南米からの移民らしく英語はわからないようだった。こんな日に外にいるしかない状況の上に、もしICE(移民関税執行局、Immigration and Customs Enforcement)が来たら※1ひとたまりもないだろうと想像してやりきれない気持ちになった。心ばかりだがお金を渡そうとして思い直し、初めに出した倍を渡した。それなりの金額ではあったけれど、それで一体どれだけのものが買えるだろうかと考えるとむなしかった。現在のアメリカの物価高はそれほど深刻である。

※1 前回、ICEの移民取り締まり支援として投入された国境警備隊が暴挙を重ねた結果、市民からの反発と裁判所による活動制限命令を受け、シカゴを去ったことを報告した。「脅しに屈しない」シカゴの小さな勝利をみな喜んでいたのだが、この原稿を書いている数日前、12月16日に突然ボビーノ司令官率いる部隊が戻り、郊外でまた取り締まり活動を始めた。誰も予想しなかったことでショックを受けている

物価高が人々の暮らしを直撃している

 牛乳、卵、バナナ、レタス、歯磨き粉、洗剤など、35の食料品・日用品の値段調査を続けているシカゴ・サンタイムズ紙によると、35品目の総計は昨年12月の$262.45から、今年11月には$20.50上がり、$282.95になったという。特に値上がり幅が大きかったのは紙おむつ、生理用ナプキン、コーヒーなどで、店によるばらつきはあるものの、この1年で約$2~3高くなったとのことだ。現在の為替レートだと約300~450円(ちなみに5年前の1ドル=105円前後の為替水準でさえ約210~315円)の値上がりということになる。いかに急激に物価が上がったかがお分かりいただけるだろうか。一方で賃金は変わらないので、人々の毎日の暮らしが直撃されている。NPOなどによって運営される無料食料配布所(フード・パントリー)の今年10月の利用者は3,544人で、昨年同月の2,928人から21%増加したそうだ。

 最近になってよく聞く言葉に、アフォーダビリティ(affordability)がある。直訳すると、購入可能性、支払い可能性ということになるが、物やサービスの値段が現実的に買える範囲であること、手頃であることを意味する。現在の状況はアフォーダビリティ・クライシス(affordability crisis、アフォーダビリティの危機)と言われ、つまり、物は売っているけれども一般市民には手が出ない・出しにくい価格である状態を指している。前回のコラムで少し触れたニューヨーク市長選で新人ゾーラン・マムダニが当選したのも、家賃や生活費などのアフォーダビリティ・クライシスを解消するという公約が多くの有権者の支持を得たからだった。マムダニだけでなく他の地方選挙でも民主党候補が軒並み勝利した背景には、こうした物価高、生活苦に対する有効な政策を打ち出せないトランプ政権と共和党への不満がある。

「デマ」だと言えなくなったトランプ

 これに対し、トランプ大統領は12月9日、アフォーダビリティ・クライシスは「デマ・でっち上げ (hoax)」だと演説した。このhoaxというレッテル貼りは共和党、特にMAGA勢力の十八番である。彼らはこれまで、気候変動、2016年大統領選へのロシアの介入疑惑、2020年バイデンが勝利した大統領選、コロナ禍でのマスクやワクチンの有効性、ジェンダー・マイノリティやトランスジェンダーなど、ありとあらゆるものに対して、民主党やリベラル層による「デマ・でっち上げ」として退けてきた。そこに新たにアフォーダビリティ・クライシスが付け加わったように見えた。

 ところが、その約1週間後に行った経済状況についての演説では、トランプはhoaxという言葉を一切使わなかったのである。代わりに、アフォーダビリティが問題になったのはバイデン政権下のことであって、自身が大統領に就任してからはあらゆる経済的指標が上向いているということを述べた。この主張には多くの不正確な情報や誇張が含まれているのだが、それはともかく、「アフォーダビリティ・クライシスはデマだ」と言わなかったことに注目したい。つまり、affordability crisis hoaxというメッセージが、支持層にも響かず、かえって反発を抱かせる逆効果を生んだことがうかがわれる。

 ニューヨーク・タイムズ記者のトニー・ロムによれば、トランプ政権は、人々が現在直面している生活苦を単なるデマとして退けるのではなく、今は苦しいかもしれないが、経済政策の効果が現れるまでのあと少しの辛抱だ、というようにメッセージを変えたのだという。ところがその戦略もあまりうまくいっておらず、人々は辛抱を強いられる苦しい現状に痺れをきらしており、それが実際、トランプの経済政策に対する不満という世論調査にも現れているとのことだ。

真面目に働いていても生活できない

 2025年、第一四半期のGDP成長率は-0.6%だったものの、第二四半期はプラスに転じ+3.8%、さまざまな経済指標を見ると、先行きに不確実性はあるものの、現在が「不況」とは言えない。しかし真面目に働いていても(場合によっては複数の仕事を掛け持ちしていてさえ)生活していけないという現実の前には、定義通りに「不況ではない」と言い張ったところで意味がない。一般の人々の実感と経済指標の齟齬は、この社会における格差の開きをそのまま映しているように思われる。

 カリフォルニア州パームスプリングでは非営利の医療機関CEOの年間約73万ドル(約1億1千万円)という報酬を制限し、その分を患者のケアやスタッフの拡充に充てるべきだとして議論が起きている。その一方では、今年12月31日をもって、医療費負担適正化法(Affordable Care Act, ACA, 通称「オバマ・ケア」)の補助金が切れ、多くの人は健康保険が高すぎて加入できなくなることが予測されているのだ。

 わたしの勤務するシカゴ芸術大学(School of the Art Institute of Chicago, SAIC)でも、資金難を理由に、先月突如20人の職員が解雇された。その中で特に物議を醸しているのが、メディアアートのアーカイブであり、国際的にも貴重な文化機関として認知されているビデオ・データ・バンク(Video Data Bank, VDB)の縮小である。VDBでは5人の職員のうち、高度な専門知識を持つ所長を含む3人が解雇されてしまった。大学側はあらゆる方策を講じた上で可能性を検討した結果、資金難を乗り越えるためにはやむを得ない判断だったとしている。しかし、アーティストでバーモント大学教授のアンジェロ・マドセンは、公開質問状の中でこの判断を厳しく批判した。マドセンは解雇決定の責任者であるマーティン・バーガー学務担当副学長の前年の報酬が40万ドル(約6,200万円)を超えている点を指摘し、その5%を減らすだけでVDB再編成を検討するために必要な3ヶ月の運営費をまかなえると主張している。さらに大学のトップ20人の報酬を3%削減すれば、VDBは5人のスタッフ体制のまま、将来にわたって完全な形で運営し続けられるだろうとも述べている

 いたるところで、持つ者はますます持つようになり、持たざる者はますます失っていく。

 今学期教えていた食の社会学の授業では、食に関する事象をなんでも選びフィールドワークを通した自主研究を行わせるのだが、ある学生が選んだテーマはカフェでのコーヒーの値段だった。必需品といってもいいコーヒーの値段は上がり続け、ドリップコーヒー1杯が5ドル前後となった今、学生たちは限られた予算の中で、卵や果物、あるいはお昼のサンドイッチといった他の必需品とコーヒー1杯を比べて、どれかを選び、どれかをあきらめなければならなくなっている。ラテなら7ドル、季節限定フレーバーなら8ドル――。たった1杯のささやかな楽しみのために、あっという間に1000円以上を使ってしまうことになる現状での若い人たちのジレンマを、質問紙調査を用いた研究で詳しく分析報告してくれた。

 決してデマなどではない、アフォーダビリティ・クライシスの中、2025年が終わろうとしている。

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小嶋亜維子
こじま・あいこ シカゴ美術館附属美術大学 (School of the Art Institute of Chicago) 社会学教員。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。イリノイ州における公平な公教育の実現を目指す団体「レイズ・ユア・ハンド・フォー・イリノイ・パブリック・エデュケーション(Raise Your Hand for Illinois Public Education)」理事。