第385回:人間の命が軽すぎる(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

無差別殺傷事件多発

 このところ、無差別殺人という恐ろしい事件が続く。

 アメリカではもう日常茶飯事のようになってしまった感のある銃乱射事件だが、12月13日にはロードアイランド州の名門ブラウン大で起きた。2名が死亡し9名が重軽傷を負った。この犯人は、11日に発生した超有名大学のマサチューセッツ工科大(MIT)の教授射殺事件にも関与していたという。
 続いてオーストラリアでは、シドニー近郊の有名なボンダイビーチというリゾート地で14日、ユダヤのお祭り「ハヌカ」を祝っていた人たちへの銃乱射事件が発生。15人が死亡、数十人の重軽傷者がでた。容疑者は親子で、どうもイスラム系過激派組織ISの信奉者ではないかといわれている。ユダヤ人嫌悪が背景にあるらしく、ガザ・ジェノサイドへの反発も考えられるという。イスラエルのガザへの無差別爆撃は、世界中で「反ユダヤ」の銃爪を引いてしまったのだ。
 オーストラリアのアルバニージー首相はこの事件に関し「銃の蔓延が事件の背景にある。政府として数十万丁の銃を買い戻す」と言明した。オーストラリアでは約400万丁の銃が個人所有となっているというから「本格的銃規制」には物足りないけれど、それでも規制に一歩踏み出したことは評価されていい。
 だが本家銃社会のアメリカでは「銃規制の動き」はまったく見られない。なにしろ、超右派団体の「全米ライフル協会」がトランプの強固な支持団体なのだから、トランプが規制などと言い出せるわけもない。
 さらに19日、今度は台湾でも無差別殺傷事件が発生した。
 台北市の繁華街で、元軍人で他の犯罪で指名手配を受けていた男が発煙筒をばら撒き、大型の肉切り包丁を振り回して3人を殺害、5人以上が重軽傷を負った。犯人は商業施設の6階から飛び降り死亡した。

戦争は終わらない

 血なまぐさい事件が続く。何かが狂っているとしか思えない。人間の命が、異常に軽く見られているような気がする。
 パレスチナ自治区ガザでは、イスラエルのまさに「絨毯爆撃」によって、すでに7万人以上が殺された。そのうち子どもの死者数は2万人を超えているという。これがイスラエルの言う「正義の戦争」の実態である。正義を語れば、罪のない子どもたちを数万人も殺していいのか。あまりに命に対する認識が軽すぎる。
 タイとカンボジアの国境紛争は、またも両国の砲弾が飛び交うことになった。トランプが鼻高々にぶち上げた「停戦」は、砲煙の中に消えている……。
 ロシアのプーチンは19日、年末恒例となっている長時間の記者会見に臨み、4時間半にわたって自説を滔々と述べた。
 「ロシアは平和的な方法で戦争を終わらせる用意がある」「この戦争はロシアを守るための戦いだ。ウクライナが戦争を仕掛けたのだ」などと、普通にはどうにも理解できないような論理で記者の質問に答えた。さらに、驚くべき発言もあった。「戦争の死者に関しては、我々ロシアに責任はない。戦争を始めたのは我々ではないからだ」
 えっ? ではいったい誰が戦争を始めたのか?
 古い記事だが、時事通信の配信(6月4日)が両軍の死者数を示していた。半年前の記事だから、当然もっと増えているはずだが、参考までに引用する。

ロシア兵死傷者95万人
第2次大戦後で最多──ウクライナ侵攻

 米シンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)は3日、2022年2月に始まったウクライナ侵攻でロシア軍の兵士最大25万人が死亡したとの推計を発表した。軍事作戦に伴うロシア兵の死者としては、旧ソ連時代を含めて第2次世界大戦後最多。負傷者も加えた人的被害は95万人以上とみられる。(略)
 ウクライナ側の死者数は最大10万人。負傷者を含む人的被害は40万人に達している。推計は英国防省が公表するデータなどに基づく。(略)

 これは古い数字だが、両国とも国民感情を考慮して正確な数字を公表していないので、確実な統計はない。だがこれまでは、むりやり攻め込んだロシア側に多くの被害が出ているのは間違いなかった。
 しかし、北朝鮮軍や傭兵部隊などを投入しての最近のロシア側の攻勢で、さすがに兵器や資源に劣るウクライナ側が押され気味になり、ここ数カ月ではウクライナ側の死傷者数が増えているという。
 それにしても、プーチンの言葉には死者に対する敬意がまったく感じられない。彼にとって死者は単なる数であり、まるで羽毛のように軽いものなのだ。
 ガザにしてもウクライナにしても、ほんとうに人間の命が軽すぎる。

だが日本でもキナ臭さが

 命をもっとも軽視した兵器は、むろん核兵器である。究極の大量破壊兵器と言われる。たった1発で、広島では瞬時に約14万人、長崎では約7万人が死んだ。その人たち以外にも後に放射能による被ばくの後遺症などで累計50万人以上の多くの人が亡くなっている。その苦しみは想像するにあまりある。まさに悪魔の兵器である。
 そんな核兵器を保有すべきと主張する人が、なんと高市首相官邸の幹部にいたのだから恐ろしい。オフレコ懇談の場だったというが、さすがに事を重要視したマスメディア各社は、実名を隠してはいるが一斉に「首相官邸の幹部が『核兵器を保有すべきだ』と発言」と報じた。ぼくもさすがに腰を抜かしかけた。
 「非核三原則=核を持たず、作らず、持ち込ませず」は、あの佐藤栄作元首相以来の日本の「国是」であったはず。さすがに、それを否定するような言葉は歴代の首相は口にしていない。何かと“口害”が問題となる高市首相でさえ、かつては「三原則のうち“持ち込ませず”については議論の余地がある」と危ないことを口走っていたが、首相になって封印した。自ら「核を保有」とまでは言っていない。
 それを確実に踏み越える形での「核保有」発言である。これが問題にならないほうがおかしい。マスメディアが問題視して報じたのは当然の成り行きだろう。
 ところが、ここにまたおかしな擁護論が飛び出して、事態は錯綜中である。ほんとうに冗談じゃない! 例えばこんなツイート(“Ⅹ”って使いたくない)が典型例だ。投稿者はF氏という著名な大学教授である。

 官邸筋の人が非公式取材で核保有について問われ首相とは話していないし現実的ではないと思うが「私は核を持つべきだと思っている」と発言したとの報道。批判もある様ですが私的意見を非公式の場で口にする事すらダメというのは議論する事すら許さない過剰な言葉狩りだと思います。

 大学教授ともあろう人が、なんと粗雑な議論を展開するのだろうかと、ぼくはいささか呆れたのだ。そこでぼくはこの投稿に、以下のように反論の投稿をした。

これが典型的な擁護論。間違っています。個人がどんな考えを持とうと自由です。けれど「首相官邸幹部」という立場にある人が政府見解と真逆のことを言ってはいけないでしょう。それなら官邸を離脱してから言うべきですよ。

 ぼくは大したことは言っていない。言論の自由を否定するつもりなどいささかもない。繰り返すが、何を言うのも自由だ。だけど「首相官邸幹部」という立場では、言っていいことと悪い事があるのは当然だろう。
 高市首相は自らの持論を封印しているし、木原官房長官は記者会見で繰り返し「非核三原則堅持は政府の変わりない方針です」と述べている。とすれば、この幹部の発言は明らかに政府の方針から逸脱している。それならなぜ「首相官邸」にいるのか。官邸も、政府方針とまるで異なる意見を言う「幹部」を放置しておいていいのか? すぐさま更迭するのが筋だろう。そして「官邸幹部」ではなく「一般人」となってから意見を開陳すればいい。それはまったく自由なのだ。
 ぼくの考えはおかしいだろうか? 別に言葉狩りをするつもりなどない。自由な立場になってからなんでも勝手に話せばいい。それだけのことだ。
 ところがこれがプチ炎上した。もう慣れっこになっているから驚かないが、それにしても似たような非難が押し寄せる。
 「オフレコを破ったマスゴミが悪いだろ」
 「また切り取りででっち上げたのはオールドメディアだ」
 「お前が行って取材して来い」
 「個人の意見を言うことまで否定するのか、これが左翼だ」
 「北朝鮮か中国とおなじだ。おまえはそんな国に行けばいい」
 「こんなポストでジャーナリストを名乗れるんだから気楽だよな。そんなに仕事が欲しいのか」(注・ぼくは自分をジャーナリストと称したことなどありません)
 などとお馴染みの罵倒がわんさか。しかも、それが後になるほど次第にほとんど同じような文面になってくる。
 繰り返すが、意見を言いたければ「官邸を離脱」してから言え、というのがぼくの意見だ。別に不思議ではないと思う。それに対し、きちんとした批判反論はほとんどない。こうなると、彼らが言う「議論」など成り立つはずもない。
 それにしても、「首相官邸」はなぜこの幹部を放置しておくのだろうか。だから「あれは観測気球ではないか」という憶測まで出て来てしまう。高市氏が踏み込んでいいかどうかを見極めるため、あえて国会閉幕の時期を狙って側近の安全保障担当の官邸幹部にしゃべらせ、世論(それもSNS)の動向を探る、というものだ。
 もしそうだとしたら、こんな姑息なやり方もない。首相官邸の意図に乗せられてはいけない。

 この幹部の実名は、ほぼ確定されている。ぼくももちろん知ってはいるが、ぼくはその場にいたわけではないので書けない。いずれ、直接聞いた人から漏れてくるだろう。
 それに不思議なのは、記者は10人以上もその場にいたということだ。つまり、この幹部はそれだけの記者を集めて話しているのだ。これでは単なる「うっかり発言」とはとても言えない。やはり何らかの意図があったと思うしかない。
 それが官邸の意図だったとすれば、まさにこの国は「危険水域」に入りかけている。そこから脱するには、やはり「高市首相の早期退陣」しか道はない。
 命を軽視する政府は、決して国民のためなど考えてはいないのだ。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。