衆院選が終わって1週間以上経つというのに、いまだその余波が続いている。
「惨敗」となった中道では代表戦が行われ、小川淳也氏が代表に。一方、選挙後の数日間、SNSでは「ママ戦争止めてくるわ」というハッシュタグに対する賛否をよく目にした。素晴らしいハッシュタグだと褒めるものもあれば、相手側が戦争したがってるという決めつけは良くない、あれが中道やリベラルの敗因だと言う人までいて、意見は本当にさまざまなようだ。
私はと言えば、選挙中に話題となったというこのハッシュタグ、ちらっと目にしたくらいでそこまで反響を呼んでいるとは知らなかった。
ちなみに私の周りの非・リベラルな友人知人に聞いたところ、その言葉を知っている人は皆無。「流行ってた」のは、政治クラスタの中の一部と言っていいだろう。
それでは私自身、あの言葉をどう思うかと言われれば、共感するところはもちろんある。
が、あの言葉が何を指しているか正確に読み取れる人は、その時点でこの国の「左翼検定試験」をクリアしているという現実も確実にあると思うのだ。
ちなみに前出の非・リベラルな友人知人にこの言葉の感想を聞いてみると、多くがピンと来ていなかった。ゲームやなんらかの物語の中の台詞? といった感じで、選挙や自民党などと関連があると思った人はやはり皆無。その勢いで「ミサイルより飯」をどう思うか聞いてみると、「は?」「なんでそれ並べる?」といった反応。
そう、このような言葉が「わかる」のは、特殊な界隈で特殊な訓練を長期間受けている人に限られるのだ。そんな特殊界隈にいる一人として、最近、そのことに自覚的でいなければと強く強く、思っている。自分が「身内では通じる言葉」に慣れてしまっていないか、常に問い続けるようにしている。
ちなみに私の非・リベラルの友人の中には、「この前、安倍昭恵さんがこんなこと言ってて共感した」とか「小池百合子さんがあんなこと言ってたよ、知ってる?」などとやたらと言ってくる人がいる。
そのたびに、「私は安倍昭恵氏も小池百合子氏も支持してるわけではないのに(むしろ支持の逆なのに)なぜそんなことを言ってくるのだろう?」とモヤモヤしていたのだが、ある時、気づいた。彼女の中で、私はざっくり「政治が好きな人」という認識。だからこそ、話を合わせてくれているのだと。
これは他のものに例えるとわかりやすい。たとえば私は野球がまったくわからないのだが、ざっくり「野球好き」と認識してる人と話す場合、気を使って、最近テレビで見た巨人軍のナントカさんなどについて言及する気がする。が、その人が大の巨人嫌いの阪神ファンだったら、おそらく「なぜ私によりによって巨人の話などする?」とムッとするだろう。非・リベラルの友人がしていることはそういうことなのだ。ただ気遣いとして、相手が関心のある話題に寄せてくれているだけなのだ。
そして野球に詳しくない私が阪神や巨人の関係もわからなければルールも知らないように、政治に詳しくない友人は保守とかリベラルとかがわからないし興味もないだけなのだ。
ということに気づいてから全然モヤモヤしなくなったのだが、これほどに、同じ日本に住んでいてもそれぞれがまったく違う世界を生きているのである。そうして私はこの20年ほどいわゆる「リベラル界隈」に身を置き、「25条と9条は車の両輪」とか言ってきたわけだが、「25条と9条」と言って憲法の話だとすぐにわかるのは、リベラル村の村人だけである。
そんなことを考えていて、リベラル界隈の人と接し始めた頃、私自身も戸惑いの連続だったことを思い出した。
今から約20年前、『生きさせろ! 難民化する若者たち』を出版した2007年前後のことだ。その頃から突如としてリベラル界隈の人たちから「講演してほしい」とよくお声がかかるようになったのだが、そちらの世界の「常識」っぽいことに、私は当初、面食らった。
それは、貧困問題を知りたい、だから雨宮さんの話を聞きたいと私を呼ぶ人の多くが、唐突に「戦争」の話ばかりすること。
リベラル初心者だったあの頃、私はなぜ、呼んでくれる人が揃いも揃って別に今この国で起きてるわけでもない戦争の話を熱心にするのか、本当に謎だった。
思い当たるのは、当時「31歳フリーター。希望は、戦争」が話題だったこと。それで話を振られているのかと最初は思った。また、私が元右翼だから、「もうそっちに戻るなよ」という意味での牽制としての「戦争話」なのかな、と思ったりもした。
しかし、そうでもないらしく、リベラル勢は通常運転として「戦争話」をしていた。ある時期まではそこに違和感を抱いていたものの、ひとつの言葉を知ったことにより、私の中で「貧困」と「戦争」は朧げながらひとつの線で繋がった。それは「経済的徴兵制」。2008年には堤未果氏の『ルポ 貧困大国アメリカ』も出版され、大学の奨学金目当てにイラク戦争に駆り出されるアメリカの若者たちの実態を知り、戦争とは究極の貧困ビジネスではないかと思い始めた。
それだけではない。そんな問題に注目が集まっていた頃、ネットカフェ生活者など困窮者を支援する団体やフリーターなどを対象とした労働組合に、「自衛隊の勧誘」が来るようになったのだ。
自衛隊に来ればこういう資格が取れて歯の治療もできてこれだけ稼げてこれだけ貯金ができる――というようなセールストークをしていったという話をあちこちから聞いて、対岸の火事だった「経済的徴兵制」という言葉が、私の中で俄然、リアルなものになった。
このような経験を経たからこそ、私の中で「貧困と戦争」という問題は、ひとつながりのアンハッピーセットとして立ち上がった。
しかし、ある意味でこれは稀有なケースだろう。
だからこそ私は、貧困と戦争などについて話す時、今書いたような自分の体験や実感を丁寧に話すようにしている。そうではなく急に戦争の話をした場合、唐突すぎること、また「戦争」という言葉がラスボスすぎることにより、「リアリティのない話をする変な人」という扱いになることを知っているからだ。
しかも私は元右翼。思えば右翼団体にいた90年代、「軍隊の靴音が聞こえる」などの左派系の人の言葉を取り上げては、「出た! 左翼にしか聞こえない音!」とバカにし、嘲笑・冷笑するということは身内の結束を高める重要な儀式のひとつでもあった。
と、いろいろ書いてきたが、この辺りのことについて考えを深めたいという人に勧めたい一冊がある。それは『新しいリベラル 大規模調査から見えてきた「隠れた多数派」』(ちくま新書 橋本努/金澤悠介)。書評を書くことになって読んだのだが、本書がまず提示するのは、リベラルの衰退が著しいという事実。
が、世論調査を見れば、選択的夫婦別姓や同性婚に賛成する人はどのデータを見ても多数派。ジェンダー平等や多様性重視に前向きな人も確実に増えている上、原発の再稼働や軍事費の増大に疑問を持つ人も多い。
それなのになぜ、リベラルは「伸びない」のか。
本書はその理由と新しいリベラルという「隠れた多数派」を、7000人を対象とする大規模調査によって明らかにしているのだが、まずは「従来型のリベラル」を「日米安保反対、憲法9条改正反対、天皇制反対、従軍慰安婦問題への謝罪を根幹としつつ、福祉国家政策の支持や、伝統的社会からの解放を枝葉とするイデオロギーである」と定義する。
それに対して「新しいリベラル」はどう違うのか。本書は三つの仮説を立てる。
「1 従来型のリベラルは『弱者支援』型の福祉政策を支持するのに対して、新しいリベラルは『成長支援』型の福祉政策を支持する」
「2 従来型のリベラルは高齢世代への支援を重視するのに対して、新しいリベラルは子育て世代や次世代への支援を重視する」
「3 新しいリベラルは、〈戦後民主主義〉的な論点には強くコミットしていない」
ここでいう戦後民主主義とは、「反戦平和主義を掲げ、政府の戦争責任を追及する立場」。
仮説への答え合わせはぜひ読んでしてほしいが、確かに「リベラルな現役世代」などは多様性などに関心が高くとも、「反戦平和」へのコミットが薄いと常々感じている人も多いのではないか。
例えば全国の「9条の会」などが主催する私の講演に来た人の中には、「自身の境遇から貧困問題に関心があって雨宮さんの話を聞きたくて来たのに、主催者挨拶では全然関係ない『反戦平和』とかが語られてて思想を押し付けられるようで嫌だった」なんて感想は昔からあるものだった。
「貧困と戦争」というアンハッピーセットは、リベラル村を一歩出ると、まったくセットにはなっていないという事実。
だからこそ、セットになっていることを前提とした「身内語での語り」をしてしまうと言葉は届かずスルーされる。これがずーっと起きてきたことではないのか。
ということで、これからそのあたりについての理解を広めたいという人は、まず自分がなぜ日常の問題と戦争が繋がったのか、自身の経験から話すといいかもしれない。私は貧困問題だったが、人によってはジェンダーかもしれないし、差別の問題かもしれない。あるいはなんらかの書物かもしれないし映画かもしれない。誰しも「ナチュラルボーンリベラル」ではない。そうなったきっかけが絶対にあるはずで、そんな初心者話は唯一くらい、関心がない層の共感を呼ぶものだと思う。
もうひとつ書いておきたいのは、現在51歳の私にとって、「反戦平和」という言葉は思春期の頃から「敵認定」していた存在が掲げていたものである、ということだ。
例えばそれは「正論でなんでも取り締まるPTA」であり、「偽善的な学校の先生」であったりした。
そんな人々は「平和」を掲げるわりには非常に高圧的で暴力的。特に中学時代はほぼ全員が暴力教師で、毎日のように生徒を血祭りにあげ、髪を掴んで引き摺り回す、クラス全員の前で一人をボコボコにする、冷水を浴びせるなどの「なぜ逮捕者が出ていない?」という無法地帯だった。そんな教師たちが大好きだった「反戦平和」。しかも彼ら彼女らは「軍隊」を厳しい口調で非難しながらも、生徒には軍隊的な規律を徹底し、少しでも行進や列を乱したり私語などしようものなら容赦なく暴力を振るうのだ。
そういう様子を見ているうちに、「反戦平和」という言葉は「大人の偽善」と同義になっていた。そう、それがやっと解除されたのが20年前なのだ。
さて、いろいろ書いてきたが、最後に加えておきたいのは、私が常に意識している言葉。
「フラットに見たとき、あなたのジャンルが特殊であることを理解しておく」というもの。
これは楽器を弾かないエアーバンド「ゴールデンボンバー」鬼龍院翔氏の著書『超!簡単なステージ論』にある言葉だ。売れるため、音楽を続けるための秘策をあますところなく綴った本書の「念頭に置くべき六箇条」のひとつにあるもので、以下のように続く。
「あなたが活動しているジャンルが、世間一般的に見ればもしかしたら特殊な文化であるかもしれないことを理解しておくべきです。当たり前だと思っていたパフォーマンスが、初めてのお客さんを怖がらせたり、リピートしにくい原因を作っていませんか? 自分の演っていることに対して、フラットな視点を持つことも忘れずにいられると良いと思います」
楽器を弾かずに爆売れし、紅白まで上り詰めた人が日々「受け手」を思い、気をつけていることには恐ろしいほどの説得力があり、私がこれまで読んだ政治の本を全部合わせても足りないくらいに役に立つ一冊だ。
ということで、リベラルが伸びないと嘆く前に、できることはある。
私はそのために、数年前から非・リベラルの人としかプライベートでは会わないようにし(身内の言葉に慣れたり、誰かとつるんで安心することを防ぐため)、今までの「お得意様」以外の読者を増やすことを大きなテーマとしている(『死なないノウハウ』や『25年、フリーランスで食べてます』は多くの新しい読者との出会いをもたらしてくれた)。
別に物書きなどでなくとも、「一日一人のファン、賛同者を増やす」とかは、意識すれば誰でもできることではないだろうか。
そして自分がそうだったように、人は「心が動く」「魂が震える」ようなことがあれば勝手に動き出す。「正しさ」では動かないけれど。
村を一歩出ると、敵ばかりに思える。だけどそこからどうやって言葉を届けていくか。これをサボらずにやっていくことに、私は今、賭けている。
第751回:「ママ戦争止めてくるわ」と『新しいリベラル』と、特殊な界隈で特殊な訓練を長期間受けてきたという自覚について。の巻(雨宮処凛)
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