第393回:炎上、ふたたび(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

ケースはみんな似ている

 またしても炎上しているらしい。今回は、文芸評論家の斎藤美奈子さんが書いた東京新聞の「本音のコラム」が標的だ。
 ぼくには、内容を確かめることなく著者名だけで本を買ってしまうという大好きな作家が何人かいる。最近では、平野啓一郎、柳広司、佐々木譲、桐野夏生、中島京子、カズオ・イシグロ……などのみなさんだが、斎藤さんもその中のおひとりである。それほどぼくは斎藤美奈子ファンなのだ。
 その斎藤さんがコラムで書いた「高市鬱」が、「サナ活」や「サナエ推し」の人々の逆鱗に触れたらしい。
 ぼくもツイッターで、斎藤さんの文章を少しだけ引用して「ぼくも同じだ」と書いたら、同じような罵倒の嵐の洗礼を受けている。
 炎上現象の案件は妙なことに、みんな似ている。
 先週このコラムで取り上げた「太田光さんの高市首相への質問が炎上」というのとそっくりだ。もっと前の立憲民主党(当時)岡田克也氏の質問の際にも「しつこく聞く方が悪い」論もそうだったし、衆院選直前の「#ママ戦争止めてくるわ」の時も同じだった。パターンが同じなのだ。

的外れの言いがかり

 斎藤さんのコラムについては当初、ぼくと同じような感想、「私も同じ」「わたしも高市鬱です」「あの顔が出てくると気分が悪くなるのでテレビを消します」などというのが多かった。けれど、それが突然、罵倒暴風に見舞われる。
 ちょいと有名人(的な人)がきっかけを作るのだ。今回もそうだ。某テレビコメンテーターが、概ね以下のような投稿をした。それがいわゆる“犬笛”になったようだ。
 「鬱病というのはとても辛い病気である。その病名を人の名前にくっつけて批判のために使うというのは人間として最悪だ。この病気で苦しんでいる人をどう思うのか。サヨクは人権意識がない……」
 それまで斎藤コラムなど読んでいないような人たちが、これに一斉に乗っかった。“罵倒祭り”が突然始まったのだ。
 このコラムをきちんと読めば、「鬱病への偏見」などどこにも見当たらないし、だいたい「鬱病という病気」についてなど何の言及もしていない。東京新聞「本音のコラム」(18日付)を少しだけ引用する。

(略)仕事にも家事にも身が入らない。ニュースを見たくない。体調が悪い。ため息が出る。なにをしてても気が滅入る。
 周辺に「いいよね高市さん」とかいう人がいるともう最悪である。
 どこがいいの。「だってなんかやってくれそうじゃん」。なんかって何よ。「それは分かんないけど」。わかんないのに支持するんかーい。(略)

 要するに、自分の気分を書いているに過ぎない。「体調が悪い。ため息が出る。気が滅入る」という気分だ。それを書いたら集中砲火を浴びる。明らかに的外れの“言いがかり”である。
 ぼくもツイッターでかなりの「汚語」を投げつけられている。それがほとんど同じ文面なのだ。曰く「ひとの病気をネタにするな」「鬱病の人に申し訳ないと思わないのか」「鬱病の人の人権をどう考えているのだ」…などなど。

「自分の言葉」を持たない人たち

 つまり、これらの人々は自分の言葉を持っていないのだ。
 斎藤さんの「高市鬱」という言葉は、自分たちの推す「サナエさん」を批判しているらしいから、それに対して反発したいけれどどう反発すればいいのかよく分からない。そこへ「批判の言葉」を誰かが提供してくれた。それだ! と、検証も検討もなしで飛びついた……というわけだ。
 これらの人たちは「気分が鬱だなあ」や「このところちょっと鬱気味でね」などという言葉まで「鬱病の人のことを考えろ」などとたけり狂うのだろうか? 斎藤さんのコラムの文章は、どう読んでも「鬱な気分」を書いているに過ぎない。いや、そんなことを言っても、この人たちには通じないのだろうなあ…。
 自分で考えず、自分の言葉を持たず、単に他人の言葉に飛びついてそれを自分の言葉だと錯覚する。だから同じリクツ(言葉)で染まってしまう。
 これらの批判(罵倒)投稿をよく見ても、他に批判の論理を見かけない。ほとんどすべてが同じ「鬱病の人のことを考えろ」というリクツである。
 あるひとつの言葉で踊らされる群衆という、なんだか恐ろしい事態が見えてくる。
 あの岡田氏の場合もそうだった。
 ある時に「しつこく質問するほうが悪い」論が出てくると、それと同じ趣旨の投稿が殺到した。まるで大量生産の粗悪な人形みたいなものである。

 同じことが、「#ママ戦争止めてくるわ」の時にも起きた。
 この投稿がトレンド入りすると、「私も戦争止めてくるわ」「おじさんだけど戦争止めてくるわ」「ばあばも」「じいじも」「学生だけど」「音楽家ですが」「俳優ですけど」などと賛同する声が溢れて、一種の社会現象になった。
 けれど、それを苦々しく思っている人たちもかなりいたのだ。すると、こんなリクツを投稿したものがいた。
 「母親という特性を利用して戦争反対を訴える政治的な動き」「フェミニズムの観点からも母親を強調するのはおかしい」などというものだ
 「#ママ戦争止めてくるわ」という何でもない一言がブームになるのに苛立った某大学教授が発したらしい「母親という特性の政治的利用は不愉快だ」が、サナ活やサナエ推しの人たちにお墨付きを与えた。だから、ある時期から一斉に「ママという言葉の政治利用」という批判が広がっていったのだ。

ぼくの気分も「鬱」である

 これらから見るように「自分の言葉を持たない人たち」が、ある種の言葉に飛びついて同じ方向へ一斉に走り出す、という流れが見えてくる。
 それがぼくにはなんとも恐ろしい。

 自分の言葉がないから、他人のちょっと気の利いた(と思えるような)言葉にすぐに飛びつく。一時流行った「それってあなたの感想ですよね」(Byひろゆき)がその典型だ。それが相手を“論破”する魔法のフレーズとして、ツイッター上の大流行語になった。さすがにこれをいまだに使っている人はあまり見かけなくなった。
 まあ、恥ずかしいからねえ。いまや「恥語」認定である。

 高市首相の言葉に実質はほとんどない。ただ強く猛々しい言葉が繰り替えされるだけ。
 「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」が流行語大賞になって味をしめたのか、今度はボタンを強く「押して押して押して押して押しまくります」ときたもんだ。
 これはもはや政策とか公約という域から逸脱している。言葉だけが上滑りしている「強硬論」である。内実は何もない。“高市チルドレン”たちの盛大な(しかし無内容な)拍手と歓声に例の作り笑いで応えながら、この人はどこへ突っ走っていくのだろうか?

 ぼくの気分は、鬱である。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。