第15回:故郷を離れて故郷を想う――あるイラン人の学生のこと・2(小嶋亜維子)

学生が語ってくれた複雑な心境

 前回のコラム公開と入れ替わりのようにして、そのイラン人の学生、バーマン・ラザニさんから返事があった。バーマンは在外イラン人として、イスラム共和国体制への抵抗を支援する活動を続けているため、情勢がさらに緊迫してからは、やはり息をつく間もない忙しさのようだ。まずは彼が無事であったことにほっとした。今回の爆撃をうけて、CBSニュースのインタビューも受けていた。このニュースでも、爆撃によるハメネイの死を喜ぶ者と悲しむ者と、イラン国内の反応が二分していることが紹介されている。バーマンは、アーティストとして黙っていることはできない、何かしなければいけない、それが自分の務め (duty)だとコメントしている。アートを武器としてイランに何が起きているかを世界に知らせる、アートに語らせるのだ、と。

 この短いニュース動画に使われていない部分で彼が何を話したのかはわからない。しかし私とのやりとりでは、もう少し踏み込んだ、複雑な心境を語ってくれた。イスラエルとアメリカによる爆撃の数ヶ月前、2025年12月にイラン各地で大規模な反政府デモが起きた。政府は治安部隊を投下し抗議者を弾圧、何千人もの人々が殺された。バーマンの弟も抗議活動中に銃で撃たれ負傷したそうだ。幸いなことに命は助かり現在は大丈夫とのことだが、この弾圧中にイラン政府はインターネットを遮断してしまったため、ずっと国内と連絡がとれず弟の安否もわからなかったらしい。私に返事をくれたちょうど前日に、はじめて妹と電話がつながり話すことができたそうだ。

 バーマンによれば、イランの人々はこうして何度も何度も抵抗しては弾圧され続けてきており、もう外圧に頼るしかないところまで追い詰められていたのだという。だからイスラエルとアメリカによる爆撃について、イラン国内にいる人々は希望を持って見ているように感じられるそうだ。しかし自分たちのように国外にいるイラン人は、正直なところ、なんと言えばいいのかわからないのだと話してくれた。それは、イスラエルとアメリカが決してイランの人々のことを想って行動しているのではないこと、信用できる存在ではないことを、よく知っているからだと思う。

 バーマンがインスタグラムにシェアしていた、在外イラン人のネットワークによるポストにはこんなことが書かれていた。「国外に暮らすイラン人には、当然自分の意見や考えを述べる権利があります。しかし、ディアスポラとして一番大切な役目とは、国内にいる人々にどうすべきかを指示することではなく、彼らの声を届け、彼らが向き合う現実を世界に知らせることなのです」。そして、在外イラン人は政治的な発言や行動による逮捕や処罰などのリスクが少ないこと、安全な環境にいる分自由な議論や考え方ができるが、同時に複雑な現実に即さない、理論的、道義的な分析に偏りやすいこと、などを説明していた。

 「ディアスポラ」とは、さまざまな理由で元の国や民族的地域を離れ、世界各地に散らばって暮らす人々を指す言葉である。文脈によっては、一般的な移民も含めて用いられることがあるが、狭義には、やむをえない事情で故郷を離れざるを得なかった人たちのコミュニティという意味である。そうしたニュアンスを感じることから、私自身は自分をディアスポラと感じることはあまりない。それでも、このポストの言葉に思うところがあったのは、ちょうど3月11日が近づいていたからだった。

シカゴで見つめた3・11の経験

 15年前、まだ幼い子どもを抱えた私はテレビの前から動くことができなかった。地震と津波の映像、そして原子力緊急事態宣言。地震からほぼ一日たったシカゴ時間の真夜中、テレビの中で福島第一原発1号機が爆発した。それから1機ずつ、原発は次々と爆発した。ただ涙が止まらなかった。横浜の実家は幸い無事だったが、もしかして、もう二度と日本には帰れないのではないかと思った。この子をおじいちゃんおばあちゃんに会わせることはできないのではないか、その頃調査でお世話になっていた東北の有機農家の方たちはこれから一体どうなってしまうのか。そしてそのテレビを見ている私自身は、水も空気も食べ物も、平穏な生活はなにも変わらないということが、余計にたまらなかった。何かしなければという衝動が抑えられなかった。

 その当時、乳児用の液体ミルクはまだ日本では認可されていなかった。アメリカではどのスーパーでも売っているくらい一般的なものなので、避難生活を続ける日本の母親たちへ液体ミルクを送ろうと、在米日本人女性がSNSを通じて集まりだしていた。そんなグループに私も参加した。しかし、在米ということ以外何も共通事項がないバーチャルなグループで何かを実行するというのは実際大変だった。シンプルに思えた目的も、現実にはそんなに単純なことではなく、色々と紆余曲折があった(その過程で知り合った女性たちのうち二人だけとは、いまだに会ったことはないが、現在もSNSでつながっている)。

 その困難さの経験もあって、次はもともとの友人たちとできることをしようと思い、ヤードセール(自宅の庭やガレージでのフリーマーケットのこと)を開いて数千ドルの寄付金を集めた。気持ちが通じている人たち同士で問題なくできたけれど、その寄付金先を巡って、実はいろいろな意見や批判を受けた。政府の窓口や赤十字などに寄付するのが一番いいという人がいる一方で、私たちは、そうした大きな組織の支援が行き届かない現場で活動している、寄付が集まりにくいNPOにこそお金を送りたかったからだった。また、日本のニュースで得る情報と、英語で得られる情報や分析の違いも気がかりだった。身を守るために有用だと思えることを日本にいる人たちに知らせたかったけれど、不安を煽るような気もして、どのように伝えるべきか、あるいは伝えない方がいいのか、悩んだ。

 イラン人ディアスポラのポストを見て、そんなことを思い出した。

遠く離れた故郷への複雑な愛

 私は愛国心とか民族意識とかいったものにずっと懐疑的だった。通っていた中学・高校で、特に強い愛国心教育を受けたことへの反発もあると思う。アメリカに来てからも、「日本人」の集まりというものからは、意識的に距離をおいてきた。もちろん日本人の友人はたくさんいるし、言葉、食べ物、習慣や文化などを人と共有できることはうれしい。でもそれは「日本人だから」ということよりも、共有できる話題や価値観があることが先にある。むしろ「日本人」というだけで集まるという行為がストレスで、それは、国民とか民族といったくくりが、他の属性に比べても圧倒的な強制力を感じさせるからだと思う。だから、3・11のとき、日本のために何かしたいと思っている自分の感情と行動が自分自身でも少し意外だった。

 私の先生でもあるシカゴ大学名誉教授のノーマ・フィールドさんは、著書『天皇の逝く国で』のあとがきである「ジャパン・バッシングについて」という文章で、次のように書いている。

 場所、人びと、もっと微妙で捉え難いが、言語、こういうものにたいする愛着は、愛国心と混同されやすい。世界のあちこちで国旗を振りまわす連中が私たちに信じさせたがっていることとは相違して、それらは重なりあっているかもしれないが、おなじではない。(p.338)

 愛着は、生れや文字どおりの血縁からも、共通の経験からも、知的な共鳴からも、ただの空想からも生じうる。それは批判の質やその正しさを保証しはしないものの、そもそもなぜ、ある構造なり一連の慣行なりをわざわざ批判する気になったのかの説明にはなるだろう。(p.343)

 愛着(attachment)を、ノーマさんはさらに、「つまり気がかりだ(bothers)ということ」「複雑な愛(complicated love)」とも言いかえている。日本批判をすべて日本叩きに還元してしまうことは「複雑な愛をあえて表明する可能性を殺してしまう」ことなのだと。(p.343)

 3・11の時の私は、今振り返れば、故郷への愛着、複雑な愛につきうごかされていたのだと思える。もちろん、それはバーマンや彼の仲間の在外イラン人たちとの経験とは比べようもない。それでも彼と話していて、そんなことを考えた。遠く離れた故郷が困難の中にあるとき、何よりも一番に尊重されるべきは、故郷にいる人たちの声だ。同時に、当事者とされる人々の間にも、違いや格差がある。また当事者であるために見えないことやできないことも、やはり、あるのだと思う。ディアスポラだからこそ見えてくるものもあるだろう。ネタニヤフやトランプという人物の本質も、そうした距離の中でこそ見えると言えるかもしれない。

2つの政府を監視する義務がある

 バーマンは、私がずっと連絡をしていたことにとても感激していた。友人でも教員でも、イラン人以外の知り合いで、彼に連絡をしてきた人は私以外いなかったのだと。とても複雑な気持ちになった。私は、アメリカという国に暮らし税金を納める者として、さらにその戦争を非難せず、首相がトランプをノーベル平和賞に推薦しようとまでした日本という国の出身者として、この二つの政府を監視する義務があると思っている、と返事をした。そして、他のアメリカ人や日本人の学生や教員はどうなのだろうと、考えていた。

 そんなことを思っていたとき、たまたまSNSのポストが流れてきた。それは爆撃によりイランの歴史的建造物が破壊されたことを嘆くもので、何万というlikeが付けられていた。同様のポストは日本語でも見かけた。こんなにも美しく、豊かな歴史と文化を誇る場所だったのだということを改めて知り、それが取り返しのつかない損失であることに悲しさを覚えた。しかし同時に、人が死んでいるのに、という思いがどうしても拭えなかった。

 朝「いってきます」と学校に出かけた小さな子どもが180人も、もう二度と戻ってこないということを考えると、その子どもたちの痛みや親たちの悲しみを想い、今はステンドグラスではないだろうという気持ちになってしまう。歴史的な建造物が多く残る文化的な場所であるという理由で、当初の投下候補地であった京都は原爆投下を免れたという説がある。この話を美談として受け止められる人はあまりいないだろう。人の命や痛みに、私たちはなぜ、ときにこれほど寄り添えなくなってしまうのだろうか。

 バーマンは今回の事態を受けて、今アート作品の制作に取り組んでいる。来月のシカゴ芸大の卒業制作展にも展示するからと招待してくれた。故郷を遠く離れた彼の、故郷への複雑な愛の表明を見に行きたいと思っている。

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

小嶋亜維子
こじま・あいこ シカゴ美術館附属美術大学 (School of the Art Institute of Chicago) 社会学教員。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。イリノイ州における公平な公教育の実現を目指す団体「レイズ・ユア・ハンド・フォー・イリノイ・パブリック・エデュケーション(Raise Your Hand for Illinois Public Education)」理事。