「耕さん、大田先生の体調がよくないようです。そんなに長くはないのではと、聞きました…」
ぼくが親しくしている沖縄の新聞記者・宮城栄作さんからこんなメールをもらったのは、5月29日だった。ぼくが大田さんをとても尊敬しているのを、宮城さんも知っていたからだ。ドキリとした。胸が騒いだ。
すぐに大田さんの娘さん(ご長男のお連れ合い)にメールした。彼女から返信があったのは数日後。
「お義父さんは膀胱がんで入院、手術には成功しました。ただ、まだ痛みがあるというので、もうしばらく入院を続ける予定です」という趣旨の返信。ぼくは、少しホッとしたのだった…。
6月12日。
ぼくは依頼されていた書評原稿を書いていた。途中で一休み。しばらくしてほぼ書き終えた。ふーっと息を吐き出したとき、そばの携帯が点滅しているのに気づいた。ショートメールだな、開けてみた。
沖縄の宮城さんと、友人のTVジャーナリスト川村晃司さん(こちらは東京)から、ほとんど同時にメール着信。どちらも「大田さんが亡くなられました…」との知らせだった。ウソだ!
書きかけの原稿を放り出して、ネットで検索した。「沖縄タイムス」の号外がアップされていた。大きな見出しで「大田昌秀元知事死去」……。
1999年、21世紀を目前にして、ぼくは集英社新書の創刊準備に大忙しだった。その中で、ぼくがどうしても作りたかった本の1冊が『沖縄、基地なき島への道標』だった。沖縄の新書、それは絶対に大田昌秀著でなければならないと、ぼくは思い定めていた。だから、ぼくは沖縄へ通い続けた。スタッフと一緒に大田さんのもとへ…。
打ち合わせが済むと、独得の口調で「時間、あるでしょ。ごはん、行きましょうね」
よく食事をご一緒させてもらった。でも、食事とは言いながら、大田さんはあまり召し上がらずに、ウイスキー(シーバスリーガル)のストレートをくいくいと飲むのが通例だった。
「県議会でね『大田知事は、県産品振興と言いながら、泡盛ではなくいつもウイスキーとはどういうことですか』と批判されたこともあったねぇ。でも、酒は好き好きだからねぇ」と、苦笑いしていたのも懐かしい。
少し酔うと、戦争の話になった。
大田さんは沖縄師範学校の生徒だったが「鉄血勤皇隊」の学徒兵として招集され、主に各部隊間の連絡係をやらされていたという。
1945年3月、米軍は圧倒的な兵力で沖縄へ侵攻、凄惨な沖縄戦が繰り広げられた。大田さんはもはや、連絡すべき部隊の存在すらつかめなくなり、鉄血勤皇隊もバラバラ。
「ぼくは足を怪我して、浜辺で動けなくなったんだけど、そこに親しくしていた同じ鉄血勤皇隊の学友が通りかかった。彼は「オレはこれから斬り込みに行く。これをおまえにやるから、生き延びてくれ」と言って、鰹節一本と靴下に詰めてあった玄米をぼくにくれて、去って行った。少し歩けるようになってから、ぼくはそれを持って浜辺を後にした。その友人の顔を、いまでも思い出すさあ」
一緒にその話を聞いていた我がスタッフのNくん(故人)は、ぐちゃぐちゃに泣いていた。その時はさすがに何を食べたか、何を飲んだのか、ぼくは憶えていない…。
大田さんの「反戦」には、底知れぬ深い決意がある。若くして死んでいった友人たちへの鎮魂の想いが、知事時代に総力を注いだ、あの摩文仁の「平和の礎(いしじ)」建設の原動力になったのだ、といつかぽろりとおっしゃっていたのが、ぼくの記憶に残っている。
大田さんの本の執筆は、徹底的な事実検証だった。何度、原稿の手直しをしたか記憶にない。送った2校も3校も著者校も、ほとんど訂正付箋の山になって戻って来た。当初の予定より、発行日はだいぶ遅れた。他のスタッフには原稿の遅れを厳しく言うくせに、ぼくはこの本だけは例外にしていた。「編集長特権」と陰口叩かれたって構やしなかった。
最初の原稿を入手してから、ほとんど1年を費やしてやっと本が店頭に並んだのは2000年7月。集英社新書の41冊目だった。
ぼくは沖縄へは、ほぼ30年間、毎年のように通っていた。年に2度3度のこともあった。最初はただの観光客。本島だけでなくたくさんの離島にも出かけた。子どもが小さかったころは家族旅行。カミさんと娘ふたりと浜辺ではしゃぐだけの旅だった。
けれど沖縄行を重ねるうちに、さすがにノー天気のぼくも、沖縄の現状に少しずつ目覚めていった、と思う。ことに大田さんにお会いしてからは、自分の考えの浅さを反省せざるを得なくなっていった。大田さんのお話の細部を、自分なりに吸収しようとした。ぼくの本棚には、いつの間にか「沖縄コーナー」ができていた。
沖縄には、知り合いもたくさんできた。「マガジン9」の連載がすごい反響を呼んでいる映画監督の三上智恵さんとも、もう十数年の友人だ。
ぼくの沖縄との関わりは、こうして少しずつ濃くなっていった。そんな思いを込めて『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)という本まで出してしまった。
3年前、例によってぼくは夏の沖縄を旅していた。むろん大田さんが設立した沖縄平和総合研究所も訪ねた。大田さんはことのほか喜んでくださった。ぼくはカミさんと一緒だったから、お顔を見るだけですぐにお暇しようと思っていたのだが、大田さんは顔をクシャッと笑顔で包んで、
「ダメですよ、帰っちゃ。奥さんも一緒にご飯食べましょうね」
そんなわけで、ぼくら夫婦と大田さんの3人は、大田さん行きつけの居酒屋で落ち合った。かなり広い店だったが、店主は大田さんからの予約電話を受けていたらしく、なんとほかの客はシャットアウト状態だった。店主の大田さんへの尊敬の念が伝わって来た。
すぐに大きな皿の刺身が出てきた。実は、ぼくは生魚が苦手。刺身はほとんど食べない。大田さんは例によってウイスキーをストレート、刺身にはまるで手を付けない。困ったのはぼくのカミさん。彼女は大の刺身好きだとはいえ、大皿に大サービスとばかりに盛り付けられた3人前(以上)を、たった一人で食べる羽目に陥った。
後でこっそり「私、もう何年分かのお刺身を食べたみたい。もうしばらく、刺身は食べたくないわ」
3時間ほどいただろうか。さすがに大田さんの酔いが心配になり、帰りを促したけれど、よほど楽しかったのか、なかなか帰ろうと言い出さない。ぼくは店主に耳打ちしてタクシーを呼んでもらった。
酔って靴を履くのに難渋している大田さんが、なんだかとても可愛く(ごめんなさい)思えた那覇の夜だった。
何度、大田さんにお会いしたことだろう。そういえば「通販生活」の取材で沖縄を訪れたときも、「通販生活」の編集者・釜池さんとカメラマン細谷さんとぼくの3人でお話を伺った。そのとき、細谷さんが撮ってくれた写真が、多分、ぼくの持っている大田さんの最後の写真。
例によって大田さんの前には、シーバスリーガルのボトルが置いてある。そして、ほろ酔いの大田さんが、珍しく三線を手に、ぼくの知らない沖縄の歌を歌ってくれた。普段のお声とは違う、ちょっと高音の、とてもきれいな節回しに驚いた…。
ああ、懐かしいなあ。
写真を見ていたら、なんだか泣けてきた。だから、思い出はこの辺りでやめとこう。
沖縄は、大田さんの思い描くような進み行きとは、まったくほど遠い現状だ。「基地なき島への道標」をあれほどしっかりと示してくれたのに、それを無視して基地を押しつける日本政府。
でも、沖縄の闘いは決して挫けてはいない。大田さんの遺志を継ぐ人たちは、後から後から湧き出てくる。
ぼくも、また沖縄へ行く。
大田さんのお墓に花を捧げて来よう。
さようなら、大田昌秀さん。…ぼくの好きな先生…。
(撮影/細谷忠彦)