第10回:絶滅危惧語…(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

可憐な…という言葉から

 近所をカミさんと一緒に散歩していた。
 小さな公園の脇で、赤いランドセルを背負った少女がしゃがみこんでいた。よく見ると、ネコ(野良らしい)を優しくなでているところだった。ネコはよくなついているようで、ノドのあたりをなでられて、ゴロゴロと気持ちよさそうな声を出している。
 「あら、可愛いわねえ」
 カミさんが思わず声をかけた。少女は小学3、4年生ぐらいか。
 「はい、とっても可愛いんです。この公園でよく見かけるんです。今日は餌を持ってこられなくて残念でした」と、申し訳なさそうに、でもハキハキとカミさんに答えた。ネコは頭を少女の手にこすりつけて甘えている…。
 「じゃあね、気をつけて帰ってね」とカミさんが声をかけ、ぼくらはその公園をあとにした。「はい、ありがとうございます」という丁寧な少女の声がぼくらの後ろから追いかけてきた…。
 カミさんの「可愛いわねえ」はネコにではなく、少女にかけた言葉だったのだが、少女は嬉しそうに答えてくれた。歩きながら「カレンな子ねえ」とカミさんが言った。「カレン」? それが「可憐」だと、ちょっと考えてからぼくは気づいた。
 「可憐ねえ、もうほとんど聞くことのない言葉だな、そりゃ」
 「そう、わたしも言ってからどんな漢字だったっけって、ちょっと考えてしまった。もう、死語かな」
 最近は「可憐な」という形容詞がつくような人は、大人も子どもも含めてほとんど見かけなくなった気がする。でも、あの少女は、そんな古めかしい言葉がピッタリ合うような素敵な子だったのだ。なんだかふたりとも、ちょっと温かい気分になって散歩を続けた。

実体と、それを表す言葉の関係

 実体がなくなると、それを表す言葉は廃れていく。そういう意味では「可憐」という言葉が表すような実体(人であれ物であれ)は、もうこの国からは失われつつあるのかもしれない。
 だから、消えていく言葉が多いのだなと、ぼくは妙に納得した。すると「絶滅危惧語」という単語が、ふっと頭に浮かんだ。
 まだ、絶滅してはいないけれど、ほぼ消え去ろうとしている言葉。いわば生物の「レッドデータブック」に匹敵するような言葉。「死語」の一歩手前の言葉。そうしたら「絶滅危惧語」という概念が、妙に脳にチラついて離れなくなってしまった。
 あるテレビ番組で「ニュース井戸端ランキング」というコーナーがあって、そのタイトルを聞いたとき、思わず食べていたご飯を吹き出してしまったことがある。むかし、井戸端に集まったおかみさんたちが、ご近所さんの噂話をしているのが「井戸端会議」なのだけれど、そんなもん知っている人がどのくらいいるのか? それを伝えるアナウンサーは、どう見ても20代。井戸端って知ってるの?
 このコーナー名を命名したディレクターかプロデューサーは、かなりの年配者に違いない。しばらく経ってから、同じ番組を見る機会があったけれど、もうそのコーナー名は別のものに変えられていた。視聴者から「何ですか、あれ?」なんてメールでもあったのかもしれない。
 同じような例ってたくさんあるだろうな、と考えてみると、すぐに浮かんでくる。例えば「お茶の間」ってのも、絶滅危惧語だな。とっくにリビングと言い替えられている。
 「床屋さん」は生き残っているけれど「床屋政談」(床屋さんの待ち時間に、客同士が政治や世の中について、あーだこーだとしゃべっている光景)ってのは、絶滅間近だろうな。「井戸端会議」は女性、「床屋政談」は男性って住み分けだったろうが、どっちも絶滅危惧語だ。

古~い思い出

 ぼくの青春時代(1960年代初めごろ~)は、みんながほんとうにウブ(「初心」と書く)だったと思う。もうウブな人なんてあまり見かけないし、これも絶滅危惧語に近い。
 「ランデヴー」や「逢引き(あいびき)」は、完全に死んだな。今でいう「デート」のことなんだけれど、そんな言葉を聞くだけで、心が浮ついたものだ。だから、やっと声変わりしかけた中学生だったぼくらは、辞書で「接吻」という言葉を見つけてコーフンしちゃったのだった…(笑)。
 なにしろ、情報といえば新聞雑誌ラジオ、それにやっと普及し始めたテレビだったが、ちょっとでも色っぽい言葉をテレビで聞くなんてまったくといっていいほどなかった時代なのだ。
 いまの子たちは「キス」(そういえば、あの頃はなぜか「キス」ではなくて「キッス」と発音してたな)という言葉を耳にしたって、ピクリとも反応しやしないよね。世の流れの速さって恐ろしい。
 実体がなくなって絶滅危惧語になるのではなく、実体がどんどん変化(進化)してしまって、それに伴って言葉も変化していく。そういう例もたくさんあることが分かる。
 「ハンパない」という言葉もスゴイな。当然のことながら「半端ではない」「中途半端なことではない」というのが略されたわけだが、これも実体はあるけれど若者たちの簡略形で新しくなった言葉だ。

政界用語の不思議

 政治の世界はもっと奇妙奇天烈(この言葉もスゴイね)だ。なにしろ、逆に実体はないのに言葉だけが残っているという例がわんさかある。
 いちばんいい例が「愚直に丁寧に説明…」などという安倍語である。いったいいつ、安倍首相が“愚直に丁寧に”我々国民に説明してくれただろうか? あれだけの「モリカケ疑惑」を抱えながら、国会は開かず選挙期間中の演説会場さえ秘密の“ステルス作戦”で逃げ回り、あげくの果てに国会での野党質問時間を大幅に短縮したいと言い出した。追及されるのを怖がっているのは明らかだ。呆れて開いた口が塞がらない。
 実体がないのに言葉だけをしゃべり散らす。
 野党がきちんと憲法の規定に基づいて要求した「臨時国会」を延々と先延ばしし、やっと開いたと思ったら、たったの90秒で解散してしまった。むろん、所信表明も代表質問もなしのデタラメぶり。これでは安倍首相がその座に居座り続ける限り「臨時国会」という言葉も絶滅危惧語になりかねない。

 政治の話は抜きにしても、言葉の変遷は、辿っていくととても面白い。辞書の大定番『広辞苑』も、新しい言葉を懸命に拾おうとしている。一方で、消えていく言葉もあるだろう。
 ぼくは年齢のせいだろうが、消えていく言葉、消えつつある言葉に何となく愛着を感じてしまう。

 いつか『絶滅危惧語辞典』というようなものを作ってみたいなあ。時代がそこから見えてくるだろう。
 もう、未来ではなく過去へ関心を向けている自分が、少し淋しい気もするけれど……。

思い立ってあきる野市五日市の広徳寺へ出かけた。ここの境内のイチョウが、もう黄色くなっているだろうと思ったから。山門が素敵だ


たぶん、この広徳寺のイチョウの木が、ほくがこれまで見たうちで、いちばん見事だと思う

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。