第90回:2018年改憲の動きにどう向き合うか(伊藤真)

伊藤真の「けんぽう手習い塾」
 読者のみなさん、今年最初のコラムとなります。本年もよろしくお願いします。
 さて、昨年は各党で改憲論が具体化した年でした。2018年はその議論がいっそう進行するでしょう。改憲に前のめりなのが安倍自民党です。そこで、年初にあたり、自民党の改憲に向けての動きについて私が思うところを述べてみます。

1 自民党の論点取りまとめ

 自民党は、2017年前半までに、個々の改憲案として、①合区の解消、②任期切れ・解散中に起きた大災害時における国会議員の任期延長の2つをまとめていました。ところが5月になり、安倍首相は突如として、自衛隊の存在、および教育の無償化について、2020年の東京オリンピック開催までに憲法に明記すると宣言しました。それまで積み上げた議論を無視した宣言だったため、党内から異論が噴出します。事態を収拾すべく、一本化されたさしあたりの自民党改憲案として昨年末、12月20日に発表されたのが、「憲法改正に関する論点取りまとめ」です。概ね次の内容です。

(1) 自衛隊については、①「9条1項・2項を維持した上で、自衛隊を憲法に明記するにとどめるべき」とする意見と、②「9条2項を削除し、自衛隊の目的・性格をより明確化する改正を行うべき」とする意見とが併記されました。①は5月に示された安倍案、②は2項(戦力の不保持と交戦権の否認)を削除し、自衛隊を国防軍として明記する改正草案と同趣旨と思われます。

(2) 統治機構のあり方に関する「緊急事態」については、①選挙ができない事態に備え、「国会議員の任期延長や選挙期日の特例等を憲法に規定すべき」とする意見と、②諸外国の憲法に見られるように、「政府への権限集中や私権制限を含めた緊急事態条項を憲法に規定すべき」との意見とが、ここでも併記されました。①は推進本部でまとめられた特例措置、②は改正草案で示された、内閣の判断で憲法を停止できる緊急事態条項そのものです。

(3) 合区解消・地方公共団体について。2017年の参院選は、人口の少ない4県を2合区として行われました。それに対しては、自民党議員を中心に、地方の有権者の声が国政に反映されなくなると批判されていました。今回の取りまとめによれば、47条を改正し、①選挙区と定数配分を、人口を基本としながら、行政区画、地勢等を総合勘案し、②政治的・社会的に重要な意義を持つ都道府県をまたがる合区を解消し、参議院においては都道府県から少なくとも1人を選出できるようにするとともに、③「地方公共団体」を基礎的地方公共団体(市町村)と広域地方公共団体(都道府県)として、92条に明記するとしています。

(4) 教育充実については、教育を受ける権利を定めた26条に、国が教育環境の整備を不断に推進すべきことを、第3項として追加するものです。

2 自衛隊をめぐる論点とりまとめの狙い

 それぞれ論ずべきことは多いのですが、ここでは自衛隊を中心に考えます。
 注意すべきは、まず、戦力の不保持・交戦権の否認を廃止し、正式な軍隊として国防軍を持てるようにする2012年改正草案の立場が、併記というかたちであれ、とりまとめ案に取り上げられたことです。

 正式な軍隊をもち、普通の国として戦争ができるようにする。それが自民党の目指す基本的な方向であり、改正草案発表以来、まったくぶれていません。国防組織としての目的と性格を明記するというのですから、他国並みの交戦規定や軍事機密保護法のような軍事法規が定められ(改正草案9条の4)、軍事法廷が用意される(同9条の5)など、軍隊として組織が強化されることは確実です。現在の自衛隊の姿は変質し、名実ともに、戦争をする普通の国にしたい。自民党内にはそういう議員が数多くいることを裏付けるものです。

 つぎに、両論併記の戦略的効用です。憲法改正の発議には、各院の総議員の3分の2以上の賛成が必要です。自民党は公明党を含めた他党の賛成を求めていくでしょう。その際に、両論併記は、過激な②案は引っ込めるから「穏当」な①案を落としどころとして賛成して欲しいと、説得の材料に用いられることでしょう。

3 自衛隊の憲法明記は穏当か

 一般に、議会の議論には妥協が不可欠です。ですから、穏当な落としどころに収れんすること自体はむしろ健全なことです。しかしそもそも、①案は落としどころとして穏当な案なのでしょうか。結論からいえば全くそうは言えないものです。②案と大差がないといってもよいものです。

 昨年、自民党憲法改正推進本部による条文案として報道された具体的な案は、次のようなものです。

〈9条の2〉
1項 前条の規定は、我が国を防衛するための必要最小限の実力組織として自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2項 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 まず、これではPKOなどの国際協力活動について疑義が生じますから、実際には、これよりも自衛隊の活動範囲を広げた案が提示される可能性が高いと思います。
 次に、この案では、現状の9条に第3項を新たに書き加えるのではなく、9条の2という新条文を追加する形をとっています。それは、「9条にはいっさい手を付けていません。安心してください。何も変わりませんから」と国民を説得しやすいようにするためと思われます。
 しかし、自衛隊を憲法に明記することによって、現状追認どころか、次に述べるように、この国の形を変えてしまうほどの大きな変化が生じることになります。

 第1に、この案では、自衛隊違憲論の立憲的意味を捨て去ることになります。
 現行憲法には、自衛隊の定めがありません。そのため、自衛隊は違憲かもしれないと憲法学者から指摘を受けてきました。これにより、自衛隊の活動は、自衛のためか、必要最小限かが常に問われ続けました。その結果、戦前のような武力侵略や軍事優先の政策、ひいてはそういう社会的ムードの醸成や反戦思想の取締りに対する歯止めとなり、自由な社会の下支えをしてきたのです。これが「自衛隊違憲論の立憲的意味」です。もし自衛隊を憲法に明記し、そうした緊張関係をなくしてしまえば、そのような立憲的意味を捨て、国が自衛隊を利用する自由度が一気に広がるでしょう。

 このような立場に対しては、自衛隊を憲法に明記したうえで、それを国会などが民主的に統制してはどうかという意見もあります。新条文の2項もそれを意図したのかもしれません。しかし、文民である政治家が軍隊をコントロールすることなどできるものでしょうか。軍事に関する専門知識、情報量に各段の差がある中での文民統制はそもそも原理的に可能なことなのかどうかも冷静に考えてみる必要がありそうです。

 その点を置くとしても、現状の国会審議をみれば、秘密保護法によって情報が統制され、また文書の隠蔽、廃棄、改ざんのおそれが日常化しつつあります。さらに、官邸が選挙における党の公認権をたてに、与党議員による異論を封じることが常態化しています。国会による統制は幻想と言わざるを得ないように思われます。

 自衛隊に実力組織として武力行使をする権限を憲法で付与するのであれば、これをコントロールする実効的な手段を合わせて規定しなければ、権力を制限する憲法としての意義が失われてしまいます。王権と軍事力の統制が立憲主義の課題であったことを思い起こせば、真剣に武装集団をコントロールする方法を議論しないままの自衛隊明記は非立憲的と言わざるを得ません。

 第2に、この案では、戦力拡大への歯止めがなくなります。まず、法の世界には「後法は前法を破る」というローマ法以来の原則があります。9条1項、2項をそのまま置いておいたとしても、9条の2という新しい条文が優先することになります。あたかも9条の2によって9条が書き換えられたのと同じ効果を持つわけです。すなわち、新条文は、ここで明記された自衛隊に対しては、9条2項の適用除外規定として働くことになり、戦力の不保持・交戦権の否認は自衛隊に及ばなくなります。

 たしかに、そこには「我が国を防衛するための必要最小限」という歯止めも書かれています。しかし、「必要最小限」という量的概念はいかにも曖昧です。どこの国でも、軍隊は防衛のため必要最小限なのであり、いったん憲法に定められれば、普通の軍隊を持つのと法的効果の点においては変わりありません。国防のために「必要」だからという声に「最小限」の主張が隅に追いやられる姿が容易に想像できます。最小限という憲法による歯止めを強調すると、おそらく国際関係や安全保障の現実を無視した書生論のように揶揄されることでしょう。

 第3に、この案が憲法に明記されれば、国防国家化が進行します。憲法改正には、国民投票で過半数の賛成が必要です。ですから、自衛隊の憲法明記は、日本国民が自衛隊という武装集団に、国民投票という直接的な意思表示によって民主的正統性を与えたという意味が生まれます。

 これを受けて政府は、国民から直接、正統性を与えられたということで自衛隊の活動範囲を広げ、防衛費を増やし、軍需産業を育成し、武器輸出を推進し、自衛官の募集を強化し、国防意識を教育現場で強制し、大学等の研究機関に対して学問技術の協力を要請するなどしていくことでしょう。高度国防国家へと進む可能性が極めて高くなるといえます。

 小中高の教室で制服を着た自衛官が国防や安全保障の授業をしたり、Jアラートがなったときの避難訓練を自衛官が指導したりするようにもなるでしょう。制服を着た自衛官が町中を闊歩する社会になります。このような自衛隊の強化は、まさに国民の期待に応えたものだとされ、こうした事態を誰も批判することができなくなるでしょう。批判する人を非国民呼ばわりして糾弾する風潮も出てくるかもしれません。

 政府ではなく市民相互の罵り合いによって、異論、反論を許さない社会が出来上がっていくのは想像するだけでも恐ろしいことです。こうして軍国主義社会に傾斜していくのです。国難においては非国民的言動を封じることこそ正義と吹聴され、誰もが良かれと思って石を投げるのです。

 国内だけでなく、国外からも、日本が「軍隊」を持ったと認識され、中国や韓国などの近隣アジア諸国、イスラム諸国から、軍隊を持つ普通の国防国家だとみられるでしょう(負の宣言的効果)。
 しかし私には、「平和国家」というブランドをそんなに簡単に放棄してよいとも、国民の多数がそんな国を望んでいるとも思えないのです。

 第4に、自衛隊の憲法明記により、国防目的の人権制約が容易になります。新条文には、「わが国を防衛するため」、すなわち国防という言葉が使われます。憲法自体に初めて、「国防」という概念が明記されることになるのです。明記した以上は、憲法自身が「国防」を価値あるものと認めたことになります。その結果、「国防」の名のもとに、思想が統制され、言いたいことが言えず、学問研究や宗教も国防の犠牲になり、国防のために逮捕・勾留される等々、軍のために人権が抑圧される国へと向かうでしょう。象徴的には徴兵制が可能になります。運輸、土木建築、軍事技術、ロボット・サイバー技術、医療など多くの分野で徴用も可能になります。

 これまでは「意に反する苦役」を禁じる憲法18条違反として徴兵制は違憲と解釈されていましたが、国防が憲法上の要請となると、国防のためにこの18条の制限が許されることになります。徴兵制に軍事的合理性があるかどうかとは別に、憲法的には可能になるということです。サマーキャンプ、サバイバルゲームなどの形をとって若者の参加を募るようになるかもしれません。

 このようにみてくると、自衛隊を憲法に明記すること自体、現状追認どころか、国の形を軍事国家へと変える大きな危険を持つものであり、「落としどころ」となりうる穏当なものではありません。自民党の議論は、自衛隊を憲法に「明記するかしないか」というものではなく、明記する組織を「自衛隊とするか国防軍とするか」というものであり、軍事国家の方向へ進むことについては、大きな異論はないようです。

4 自衛隊明記の改憲論議で注意すべき点

 注意するべきことが2つあります。
 1つは、ここで憲法に明記され、国民に承認されたとされる自衛隊は、現在の自衛隊法が規定する任務を遂行する自衛隊です。つまり、災害救助ではなく、「我が国の平和と独立を守り」「我が国を防衛することを主たる任務」とする自衛隊です(自衛隊法3条1項)。そしてそのために「必要な武力の行使」をすることができる組織です(自衛隊法88条1項)。武力の行使には人を殺害することも含まれます。

 しかも、それは新安保法制の制定・施行前までの、個別的自衛権行使だけが許された専守防衛の自衛隊ではありません。集団的自衛権の行使として海外で武力を行使し、他国軍隊と一体化して海外で兵站活動をする自衛隊です。災害救助で活躍する自衛隊を違憲というのは自衛官がかわいそう、という感情で判断してよい問題ではありません。

 そしてその自衛隊の本来任務は、国土防衛であり、国民保護ではないことも知っておかなければなりません。誤解を恐れずに言えば、自衛隊の任務は国民を守ることではありません。あくまでも国の独立を守ることです。これは世界の軍事の常識といってよいものです。

 国民の生命、身体、財産を守るのは警察の使命であって、武装集団たる自衛隊の任務ではない。自衛隊は国の独立と平和を守るのである。

(栗栖弘臣「国防軍を創設せよ」小学館文庫78頁)。

 自衛隊は何を守るのか、…軍隊は何を守るのかと言い換えるなら、その答えは国民の生命、財産ではありません。それらを守るのは警察や消防の仕事であって、軍隊の「本来任務」ではないのです。

(潮匡人「常識としての軍事学」中公新書ラクレ188頁)

 こうした軍事の専門家からの指摘は自衛隊明記の議論の前提として国民で共有しておかなければなりません。沖縄戦からの教訓を語るまでもなく、そもそも軍隊はときに国民を犠牲にしてでも国家を守るために武力を行使する組織なのです。

 注意しておくべき2つめは、自衛隊明記によっても「何も変わりません」と言われることがありますが、それは違うということです。何も変わらないのであれば、800億円も使って国民投票をする意味がありません。先に述べたような様々な変化を伴います。この国の形、国柄が変わってしまうといっても過言ではありません。いや、変えるために大変な労力をかけて改憲を推し進めようとしているのです。

 「何も変わりません」といってできた法律によって、その後大きく変わってしまった例として1999年の国旗国歌法の制定があります。それまで法的な根拠がなかった日の丸、君が代を国旗、国歌として明記するというだけのたった2条からなる法律です。国民になんらの義務を課すものではありません。法の成立にあたって出された総理大臣談話もそう明言しているし、文部大臣談話では「学習指導要領に基づくこれまでの指導に関する取り扱いを変えるものではありません。」と述べています。

 しかし、何も変わらないはずの日本社会は大きく変わっていきました。法制化後、わずか数ヶ月で、ロック歌手・忌野清志郎のロック調「君が代」を収録したアルバムをレコード会社が自主的判断によって発売中止にしたり、大相撲で優勝した力士に対してNHKアナウンサーが君が代を歌ってほしいと言ってみたり、岐阜県知事は国旗国歌を尊敬しない人は日本国籍を返上するべきだと言ってのけたり、どんどん君が代・日の丸の押しつけが姿を現しました。

 もちろん法がそんなことを求めているわけではないのですが、国民の中に君が代を茶化すようなことは不適切だし、日本国民たるものは尊重するべきだという風潮が広まっていきます。そして、教育現場での先生方への強制も職務命令という形で浸透していきました。これこそが法による明記の効果なのです。法律で国民に何かを義務づけるよりもはるかに効果的で賢いやり方です。

 自衛隊明記に際しても、「愛国心があるのか」、「自衛官が可哀想」、「自衛官に失礼だ」、「非国民! 売国奴!」等様々な感情的な言葉が言論の自由という名の下で飛び交い、言葉狩り、ネットでの炎上も仕掛けられていくかもしれません。力によって人をねじ伏せ、寛容性に欠ける社会、異論・反論を許さない社会は、軍隊や戦争と親近性があります。

5 改憲論議の在り方

 私たちは何が変わり、何が変わらないのかをしっかりと冷静に判断していかなければなりません。たとえば個別的自衛権に限定するような立憲的改憲論といわれるような議論であっても、それがたとえ善意の動機によるものであったとしても、その改憲が持つ影響、たとえば、自衛隊や国防という概念を憲法に明記すること自体から生じる前述の変化の可能性にもしっかりと思いを致さなければなりません。

 あたかも改憲ありきで、問題はどのような改憲を提案するかだというような安易な論調には乗るべきではありません。野党は反対ばかりしないで対案を出すべきだという主張は一見、正論のように見えますが、前提で間違っています。

 憲法改正権は、国会議員ではなく国民にあります。各党の議員が、世論から離れて上から目線で改憲案を発議するのは、憲法の建前と相容れません。憲法改正権が国民にある以上は、まず、世論が改憲の必要性を議論し、それを受けて国会議員が発議し、最後に国民投票で確定させる。それが、改憲のあるべき姿です。

 現行憲法から離れて、権力者が望む理想の憲法を語るのではなく、国民が感じる現実の必要に基づいてなされる議論が出発点なのです。単に、現行憲法が古くなった、時代に合わなくなったということではなく、もっと具体的に、どこがどうダメで、どう変えるべきかを、国民一人ひとりが、憲法制定権力の担い手としての自覚を持ち、情緒に流されず、その必要性を冷静に考えなければなりません。

 最後に、国民投票の手続に関する法律にも様々な問題点があることは、このマガジン9でも指摘され続けてきたことです。年内発議などと性急な改憲論議を無理に進めるのではなく、むしろ、国会議員が正当な代表者として発議できるように1人1票の人口比例選挙を実現し、国民が納得できる手続法の整備に力をいれるべきと考えます。

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

伊藤真
伊藤真(いとう まこと): 伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)、『日本国憲法ってなに?』シリーズ(新日本出版社)、『9条の挑戦: 非軍事中立戦略のリアリズム』(共著、大月書店)など著書多数。