第24回:OAR(ロシア出身の選手)こそが五輪憲章の精神の具現化だった…(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

個人参加の選手たち

 ドーピング問題で、国家代表としては参加できなかったロシアの選手たち。オリンピックについて考えると、OAR(Olympic Athletes from Russia)という形こそが、「オリンピック憲章」のもっとも重要な部分を象徴していたのではないかと思う。つまり「ロシア国代表」ではなく「ロシアから参加したオリンピック選手たち」という位置づけ。
 薬物という暗い問題が陰にあるために、これらロシア選手たちの参加形態について、あまり詳しく触れた報道はなかったが、実は、とても大事なことが内包されていたのだ。彼らは国家の代表としては認められず、あくまでロシア出身選手の個人参加という形をとらざるを得なかった…。

 やっと平昌オリンピックが終わった。正直、ぼくはホッとしている。なんだかんだと心配されていたことが何も起こらず、無事に閉幕。それも安堵だが、狂騒的マスメディアの大騒ぎがやっと終わることに、実はホッとしているのだ。
 日本選手の活躍ぶりは嬉しかった。でも、日本以外の素晴らしい戦いも、たくさんあったはずだ。日本のテレビは、ほとんど日本戦しかオンエアしなかったけれど、25日にNHKが中継したアイスホッケー決勝など、ほんとうに手に汗を握る大興奮、まさに氷上の格闘技。ドイツとOARが延長戦にもつれ込み、結局はOARが勝ったのだが、まったく目が離せない熱戦だった。
 ああ、面白かった。

国旗も国歌もなく…

 そのOARとはいったい何だったのかを考えれば、必然的に「オリンピックとは何か」とう巨大な問いにぶち当たる。
 このOARという形こそオリンピック精神の体現なのではなかったか。
 オリンピックの意義を表す「オリンピック憲章」の中の「オリンピズムの根本原則」には、7つの項目があるが、その中から抜粋する。

 2.オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てることにあり、その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することである。
 4.スポーツを行うことは人権の一つである。すべての個人はいかなる種類の差別もなく、オリンピック精神によりスポーツを行う機会を与えられなければならず、そこには、友情、連帯、そしてフェアプレーの精神に基づく相互理解が求められる。
 6.人種、宗教、政治、性別、その他の理由に基づく国や個人に対する差別はいかなる形であれオリンピック・ムーブメントに属する事とは相容れない。

 これで分かるように、オリンピックとは、あくまで「個人」の人権や尊厳に重きを置くものであって、国家間の競争とは一線を画しているのだ。とすれば、ドーピングという違反行為からやむを得ずとられた措置とはいえ、ロシアという国家が表に出ることなく、ロシア国旗を使用することもなく、ロシア国歌の演奏もなかった「OAR」という呼称が、瓢箪(ひょうたん)から駒とはいえ、オリンピック憲章にもっともふさわしい形になっていたのではないか。
 アメリカがOAA、日本はOAJ、韓国はOAK…などと名乗って競技に臨み、国旗も国歌も関係なく勝者を讃え、敗者を気遣う。近代五輪の父クーベルタン男爵の目指したオリンピックとは、そういうものではなかったか。
 もし、東京オリンピックがそういうものになるのだったら、ぼくだって開催に賛成したいと思う。

オリンピック、平和のための政治利用なら…

 「オリンピックを政治利用してはならない」とよく言われる。だがぼくは、平和のための政治利用はあっていいと思うのだ。前掲の憲章にも「平和な社会を推進することにある」と謳っているではないか。
 だとすれば、オリンピックの場を利用する形で繰り広げられた「南北融和」をめぐる駆け引きが、最終的にどういう形に落ち着くのかは分からないが、その努力は否定すべきではないだろう。
 しかし、日本のマスメディアのほとんどは「北朝鮮の『ほほえみ外交』にしてやられた韓国」という文脈での報道を繰り広げた。「ほほえみ外交」であれ何であれ、戦争直前のような厳しい対峙を和らげるという側面を、もっと冷静に分析、評価してもよかったはずだ。むろん、キーワードは「平和」である。

個人的願望でのオリンピック政治利用という悪例

 安倍晋三首相はついに「2020年、オリンピックの年に改憲を目指したい」と広言するようになってしまった。もし、その年に安倍晋三氏がまだ首相の座にあるとしたら、どんなことが起きるか?
 東京オリンピックでは、多分「ニッポンガンバレ!」「ニッポン強いぞ!」「ニッポンバンザイ!」の大絶叫がマスメディアで増幅されるだろう。「もっと冷静な報道を」などと言おうものなら、即座に「反日」の罵声が飛んでくるに違いない。そして、それが愛国心煽動の燃料となり、安倍改憲の強力な後押しになるだろう。
 オリンピックと憲法改定をリンクさせる。これこそオリンピック憲章がもっとも嫌う「最悪の政治利用」である。
 スポーツ評論家で作家の玉木正之さんが、朝日新聞コラム「耕論」(2月23日付)で、次のように書いていた。

 (略)「南北統一の平和運動」という目標は、国際オリンピック委員会(IOC)の掲げるオリンピック精神に合うものでした。北朝鮮もそれをうまく利用したといえます。(略)
 一方、2016年のリオ五輪の閉会式で、安倍首相がゲームキャラクターのマリオに扮したのは、自分の人気取りに五輪を利用したものでした。国の外交目的のために五輪を使う従来の政治利用であれば、まだ理解できます。しかし、安倍首相による個人的な政治利用はこれまで例がないことで、恥ずべき行為でした。ただ、日本ではあまり批判されませんでした。
 五輪と政治が切り離せない以上、20年の東京五輪では、ポジティブな政治利用を目指すしかない。しかし、問題なのは、今回どんな五輪にするのか、ビジョンがないことです。(略)
 国民が共有できるビジョンがないまま、リオでのパフォーマンスのような政治利用を繰り返せば、日本の未来に負の遺産を残すだけです。

 まさに、玉木さんの指摘する通りだろう。
 ただし、2020年東京五輪には、世界にアピールするようなビジョンはないけれど、安倍首相の「熱狂の機会を利用して悲願の改憲を」という、きわめて個人的な野望はある。それが問題なのだ。個人的な野望でオリンピックが政治利用されるなら、もはやオリンピックの精神などなきに等しい。
 それこそ玉木さんが危惧する「日本の未来への負の遺産」である。いや、悪しき政治利用の前例を作るという意味では、「世界の未来、オリンピックの未来への負の遺産」となってしまうだろう。

 オリンピックは平和の祭典である。個人の尊厳と平和な社会を推進するための、世界的なスポーツの祭典である。
 繰り返すけれど、OARは、災い転じてオリンピック憲章の精神を具現化した。国家と国家の戦いなどではなく、個人が自らの尊厳をかけてフェアな戦いを繰り広げるという、クーベルタン男爵が夢見た形を、一カ所だけが見せてくれたのだ。
 そういうことが、できないはずがない。OARで何の不都合もなかったではないか。ならば、すべての参加者たちが国旗や国歌から離れて競い合う、本来のオリンピックの姿は可能なはずだ。

 むろん、ぼくの夢想だが、いつかそんな時が来ることを…。

       

鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。