第30回:ぼくは護憲論者です。(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 連休前、ぼくは両親の7回忌と17回忌の法事を兼ねて、東北地方を旅してきた。5日間、久しぶりの長いドライブだった。
 福島はなんども訪れたので、今回は宮城と岩手の沿岸部を中心に回り、秋田道でふるさとへ入り、法事のあとは、山形から新潟を抜けて東京へ戻った。連日好天に恵まれ、それなりに充実した旅だった。
 しかし、太平洋側の海岸線はなんだか悲しかった。もうもうたる土煙、ダンプが行き交う。まだ“復興”にはほど遠い現状だということを痛感させられた。

「マガジン9」発足から13年

 5月3日、憲法記念日である。
 この「マガジン9」が産声を上げたのは2005年春だった。それからすでに13年が過ぎた。光陰矢の如し。とくに、ぼくのような年寄りにとっては、月日の流れはもう異常なほど速い。それでも日本国憲法の価値は変わらない、とぼくは思う。
 「マガジン9」は発足当初は「マガジン9条」と名乗った。「日本国憲法9条の持つ価値を大切にしよう」というのが、最初に掲げた目標だったからだ。
 時間が経つうちに「9条だけではなく、ほかにもいっぱい大切なことがある」と、スタッフたちが日々の議論の中で考えて「マガジン9」と改称した。「9」を残したのは、やっぱり「9条の精神」は譲れない、という結論になったからだった。

 最近「護憲的改憲論」とか「立憲主義的改憲論」というような意見を聞くようになった。繰り返すが「マガジン9」は「日本国憲法第9条の精神」、すなわち非戦・不戦・平和という9条の持つ意味を「9」に込めたのだ。
 ぼく自身は、発足からかかわったのであり、9条を守りたい、という気持ちにはいささかの揺らぎもない。しかし、これはあくまで「マガジン9」のスタッフの一員としてのぼくの信条であり、他のスタッフや書き手、協力者のみなさんに、それを押しつけるつもりはないし、押しつけても来なかった。
 だから、「9条の精神を守るためにも、憲法に不戦の意志をきちんと書き込むことが必要だし、そのためにも『自衛のための組織』としての自衛隊の存在を明記しなければならない」とする意見は、それはそれとして尊重する。
 ただし、それはぼくの意見とは違うということを、ここにはっきりと言明しておく。ぼくは、そういう「改憲」であっても認めるつもりはない。
 「護憲的改憲」を主張する人たちによる「改憲項目」の一つひとつには、納得できる内容が多い。その通りだなあ、と思うこともある。しかし、なぜそれを「憲法」に書き入れなくてはならないのかが判然としない。ほとんどが、一般の法律で片付くような条項ではないか、と思うのだ。
 ただ、繰り返すが、こういう意見が「マガジン9」の誌面上でぶつかり合うことに、ぼくは反対しない。「マガジン9」が開かれた場所であるべきだと思うからだ。基本に「憲法9条の精神を守る」という一点さえあればいい。

東北の春……。

自衛隊がもつ二面性

 「憲法9条は時代に合わなくなってきている。世の動きに即して、憲法も変えるのが自然だ」という意見が多い。それなりの理屈である。しかし、よく考えてみるとなんだかヘンだ。「現憲法はあまりに理想主義。現実離れしている。現実を見れば、この憲法は世界に通用しない」などというのが、改憲論者の多数の意見だろう。
 だが、理想と現実が乖離しているから理想を現実に合わせろ、というのは論理の逆転である。どうすれば現実を理想に近づけていくことができるかを、歯を食いしばっても考え続けていく、というのが真の理想主義ではないか。
 それがネット右翼諸兄諸姉の言う「お花畑」ならそれでいい。ただ、そんな美しい「お花畑」を思い描くことができない彼らを、ぼくはむしろ気の毒に思うだけだ。

 「自衛隊は国民の間に定着した。だから、憲法にきちんと書き込むべきだ」という意見。それはある種の説得力を持つ。だがそこからは、自衛隊が世界でも屈指の強力な武力組織であるという認識が、あっさりと抜け落ちている。
 国民がこれまで見てきたのは、国内の大災害で活躍する自衛隊であり、国際的な災害援助に駆けつける自衛隊員たちの凛々しい姿だった。被災地では、救助されたお年寄りが、自衛隊員に手を合わせて拝み感謝する光景が報道される。ほんとうに頼りになる「組織」としての自衛隊の姿だ。
 一方、戦場で殺し合う「軍隊としての自衛隊」を、日本国民はこれまで一度も見たことがない。海外での活動にしても、せいぜいPKO(国連平和維持活動)で、現地住民たちのためのインフラ整備に精を出す自衛隊員の様子くらいだ。それは、殺し合いという「軍隊」の持つ側面とはまったく違う光景だ。
 政府や自衛隊が、海外での活動の報告書である「日報」を、なぜこれまで隠し続けてきたのか。それは、自衛隊の持つ「軍隊」としての側面を、とにかく隠蔽したかったからだ、とぼくは思う。実際に、かなり緊迫した場面が幾度もあったと、隠され続けてきた「日報」には記されていたではないか。“戦闘”の文字もあった。
 その“戦闘”の部分を何としてでも、隠しておきたかった。自衛隊は「戦う組織ではなく、人道的援助をする組織」と言いたいがためだ。つまり、自衛隊がもつ“二面性”のうちの、軍事に関する部分を、なるべくぼかしておきたかったということだ。
 実は、その点こそが問題なのだ。
 安倍晋三氏が目指すのは、究極としては「日本国軍」である。しかし、もし改憲のための国民投票になった場合、国民は、人々を災害から守り海外での救援活動を行う「平和的組織としての自衛隊」であれば賛成するだろうが、「戦争する組織」への改憲を、もろ手を挙げて支持するだろうか?
 安倍首相も、その危惧は感じているはずだ。だから「自衛のための組織」、つまり国民が現在見ているような「軍隊ではない自衛隊」をイメージさせようと必死なのだ。
 安倍首相は「憲法に自衛隊が明記されても、現在と何ら変わりはない」と述べている。メチャクチャだ。変わりがないなら、憲法を変える必要などないではないか。

「自衛戦争」とは何か?

 安倍首相や彼の支持者たちが最終的に目指す改憲とは、「軍隊としての自衛隊を憲法に明記すること」にほかならない。国民がいま見ている「災害救助隊としての自衛隊」とは、まったく質の違った組織なのだ。それを国民の目から逸らすために「自衛のための組織」という言葉で誤魔化す。そして、それを担保するのが「自衛戦争」という言葉だ。

「自衛のための戦争までも否定するのか」
「敵が攻めてきたら、黙って殺されろというのか」

 改憲派のお決まりのセリフだ。しかし、そういう人たちは、果たしてきちんと歴史を学んできたのか? 古今東西、「自衛のための戦争」という言葉が、どれほど侵略の意図を糊塗してきたか。日本の歴史を振り返ってみても、中国への侵出は「自衛」の名の下に行われたのではなかったか。「自衛戦争」という言葉が独り歩きしたときに起きる熱狂。それが侵略戦争につながった歴史。言葉に騙されてはならない。
 憲法に「自衛のための組織としての自衛隊」と明記されたとしても、自衛権そのものが拡大解釈されれば、それで戦争は始まるのだ。つい先日の「安保法制強行採決」が示したように、いったん書き込まれてしまったら、その条文を拡大解釈するのは安倍政権の常套手段だ。安倍政権以外で、それが行われないという保証もない。
 だから、ぼくは9条への「自衛隊の明記」には、それが護憲的であろうがなかろうが反対する。

関東の春……。

現実に合わせるための改憲?

 なぜか護憲的改憲論者は、とても攻撃的だ。いや、攻撃的な人が多い、と言い直しておこうか。「護憲派は欺瞞的だ」「大人の知恵というごまかし」「だから護憲派は支持されない」「実際に存在する自衛隊を無視するのか」「護憲論者はウソつきだ」云々と、ほとんど罵倒に近い物言いをする人もいる。
 確かに、あるものをないとは言えない。自衛隊がそうだ。
 だが、あるからと言って、それを憲法に書き込まなければならないということにはならない。そんなことを言ったら、他にも書きこまなければならない“今あるもの”の大洪水になってしまう。
 憲法が凄まじい項目や事象で溢れかえり、数千ページを超えるような、誰もまともには読むことの不可能な巨大な、広辞苑どころではない分厚い書物にする必要があるだろう。それに、現実に合わないというのであれば、現行憲法の、例えば以下のような条項はどうするのか。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 最近のセクハラ問題など、性差別の象徴である。だとすれば、この14条も「現実と合わない」という理由で書き換えなければならないし、これほどの格差社会で社会保障制度から落ちこぼれて餓死したり、自殺する人たちの現実をどうするのか。
 第14条は「すべての国民が平等であるというのはお花畑であるから、ある程度の差別は許容する」
 第25条は「健康で最低限度の生活は、国家はこれを保証しない」と書き改めるとでもいうのか。
 現実と理想の乖離が完全になくなる日が来るとは、ぼくだって思わない。しかし、少しでも現実を理想に近づけようとする、それが政治ではないのか。

 自衛隊に関しては、ぼくは何度も書いてきたが、改組論者である。護憲だというと「では自衛隊はなくせというのか」と必ず批判される。だが、ぼくは「自衛隊はなくすべきだ」などと主張したことはない。
 いずれ、稿を改めなければならないと思うけれど、ぼくの「自衛隊改組論」は次のようなものだ。その主たる任務は「災害救助」「国際緊急援助」「国土防衛」「沿岸警備」などに限定し、あくまで日本国内の安全と世界への災害援助を目的とする組織に改編する。

 南北朝鮮首脳による会談と、それに続く米朝首脳会談の設定。対話による平和への道筋が見えてきた。朝鮮半島に真の意味での和平(戦争終結と平和条約締結)が訪れれば、軍事的脅威は飛躍的に改善されるだろう。
 そんな時期に、日本は「憲法記念日」を迎える。いまこそ、平和のための憲法論をみんなで語り合う、絶好の機会ではないだろうか。
 カントの『永遠平和のために』でも読みながら…。

半島の春……。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。