5月14日、映画の試写会へ行ってきた。『沖縄スパイ戦史』(三上智恵・大矢英代 共同監督)という映画だ。
ものすごく重い映画だった。だが、どうしても目が離せない。30人を超す証言者が画面に現れる。声高に激するわけではない。怒りをあらわにする場面も少ない。ほとんどが、自分の見聞きしたこと、激しい沖縄戦での経験を淡々と語る。それが、観る者の耳について離れないのだ。
沖縄戦、「護郷隊」と呼ばれる少年兵たちで組織された部隊があった。彼らはほとんどが15、6歳。中にはもっと幼い子どももいたという。彼らは身を賭して、圧倒的な物量を誇る米軍への悲劇的なゲリラ戦に突入した。いや、突入させられたのだ。
ぼくは大田昌秀元沖縄県知事のお話をよく聞いていた。大田さんが徴兵されたのは「鉄血勤皇隊」という。だから「鉄血勤皇隊」に関しては、若干の知識があったのだが、この「護郷隊」については、ほとんど何も知らなかった。
この「護郷隊」を組織したのは、陸軍中野学校でスパイ教育を受けた若い将校たちだったという。正規戦が終結した後、山野に隠れ潜み、米軍を奇襲するというゲリラ戦を展開する。そのための少年ゲリラ兵たちを組織する。それが、中野学校出の若き将校たちに与えられた任務だった。
だが、この「護郷隊」の実態は、これまでほとんど明らかにされてこなかった。それはなぜなのか。三上監督は、研ぎ澄まされたジャーナリストの嗅覚で、「護郷隊」の実態に迫っていく。この過程が凄まじいほどの迫力に満ちているのだ。
大声も激高もない。多くの経験者たちの証言を、まるで網目模様を編むように小刻みにつなげながら、実相に近づいていく。これまでの三上監督の映画がそうだったように、その手つきは穏やかだけれど、まことに見事だ。これほどの重いテーマなのに、観る者の目を逸らさせず、耳を塞がせず、最後まで引きつけていく。
今回は、そこに大矢監督の静かな怒りが加味された。
日本軍の命令による、マラリア地獄への住民強制移住という事実の掘り起こしである。1944年暮れのある日突然、山下虎雄と名乗る若い男が、青年指導員という肩書で波照間国民学校へ赴任してくる。しかし、山下は実は教員などではなく、やはり陸軍中野学校出の工作員だった。島民には慕われていたという山下だが、やがてその正体を現す。彼が行ったことは、波照間島民たちの西表島への「疎開という名の強制移住」だった。
西表島は今でこそ明るい観光地になってはいるが、当時は「マラリア地獄」と呼ばれるような死病の蔓延する島だった。強制された移住先で何が起こったか。大矢監督の前で、この映画で唯一「あの野郎は殺してやりたい」と怒りを露わにする島民の証言が描かれる。ほんとうに、唯一の怒りの表白である。いったい何人の波照間島民が、熱に震えながら死んでいったことか。浜辺が死体でいっぱいになったという。
なぜそんな理不尽な移住が、日本軍によって強制されたのか。その理由も次第に明らかにされていく。
悲惨な映像が重なる。ふつうなら、大きなスクリーンで目のあたりにはしたくない映像だ。けれど、この映画には必然の画像。戦争の実相とは、いったいどんなものか。目を背けてはいけない。それはふたりの監督の決意でもあろう。
やがて、映画は暗いクライマックスへ進んでいく。この映画のタイトルにもなっている「スパイ」についての証言だ。
沖縄戦は「日本軍という組織と、それに虐げられた住民」という構図で語られることが多いけれど、ほんとうにそれだけなのか?
実は、語られたことのない闇が「住民と住民の間」に存在していたというのだ。さまざまな書類や証言から、その語られざる闇を、監督たちは静かに掘り起こしていく。それがこの映画の白眉である。ぼくは試写室の暗がりの中で、椅子の肘掛けを、汗ばむほどに握りしめていた。
「スパイリスト」なるものが存在した。米軍に内通する者がいれば自分たちも殺される。そうであれば、内通者(スパイ)は殺さなければならない、という論理。そう疑われた者たちの名が載せられたリスト。そのリストによって、何かが起きた…。歪んだ論理が生み出す殺人。一度スパイの嫌疑をかけられた者は、疑惑の蜘蛛の巣の、粘つく網にからめとられて逃げ出せない…。
その件にかかわったらしい証言者が力説する。スパイを殺さなければ自分たちみんなが米兵によって殺される。あの時は、ああするしかなかった。それが間違っていたとでも言うのか! あんたはそれを否定できるのか!
戦争は、すべてを敵か味方かに分別する。一度敵だと疑われたら、もはやどんな言い訳も通用しない。それは「過去の戦争の論理」ということではなく、もし「現代の戦争」が起きたなら、多分、同じことが繰り返されるだろう恐ろしさを秘めている。ナレーションはそうは語らないけれど、あの証言者の力説はそれを物語っている。
試写室の空調の効いた暗がりの中でスクリーンを見つめているぼくに、その論理を否定するだけのもうひとつの論理はあるのか。
「戦争の悲惨」とは、単に肉体の破壊だけではない。人間同士の関係性の破壊。住民同士の疑心暗鬼。そこから必然的に生み出される、地獄の光景。
この映画は、事実の積み重ねで、闇の中の事実に光を当てようとする。証言者たちの淡々とした語り口が、よけいに切なく響く。
ただ、最後の救いの場面が美しい。大宜味村の小さな山に、瑞慶覧良光さん(89歳)が、黙々と寒緋桜を植えていく。その数は69本。死んだ彼の戦友たちの数だという。そして、その1本1本に、良光さんは戦友の名前を付けていくのだ。
映画の終わり、美しい桜の1本に、ある人の名前が付けられる。その人が、どんな死を迎えたか。
死んだ少年兵の弟と、良光さんが固く手を握り合う。この映画のもっとも美しい、けれどもっとも切ない場面である。
試写会では珍しく、上映終了時に拍手が起きた。かなりの観客がいたのだが、それぞれはどんな思いで拍手したのだったろうか?
本作は、7月28日より、東京・ポレポレ東中野を皮切りに、順次全国で公開していくという。ぼくはもう一度、劇場で観ようと思う。
なお、この映画をめぐる「トーク・ライブ」が、6月3日(日)12時~16時に、東京・渋谷の「LOFT9 Shibuya」で行われる。三上智恵・大矢英代両監督のほか、井筒高雄さんのお話もある。なぜかぼくも、進行役として参加する。
この模様は、「マガジン9」と「デモクラシータイムス」でも配信する予定になっている。
主催:新宿西口反戦意思表示・有志 http://seiko-jiro.net