坂田雅子さん×橋本佳子さん:私たちの終わらない映画の旅

30年以上にわたり、テレビや映画のドキュメンタリー制作に携わってこられた女性映像プロデューサーの草分け、橋本佳子さん。ベトナム戦争時の枯れ葉剤問題から核実験による放射能汚染、そして原発を追って、ベトナム、アメリカ、マーシャル諸島、ドイツと世界各国を取材、ドキュメンタリー作品を発表してきた映画監督の坂田雅子さん。坂田さんの新作『モルゲン、明日』が、橋本さんがスーパーバイザーを務める「シネマハウス大塚」で公開されるのを機に、ドキュメンタリーにかける想い、伝えたいこと、女性が働き続けることなどについて語っていただきました。

枯れ葉剤から放射能へ。ひとつのことから次が見えてくる

橋本 坂田さんの作品は第一作から拝見してきましたが、ご本人にお目にかかる機会がなくて……今日がはじめまして、ですね。

坂田 ありがとうございます。見てくださっていたんですね。当時すでに橋本さんは映像プロデューサーの大御所。駆け出しの私にはお目にかかるチャンスなんてないかと思ってました。今日はお会いできてとてもうれしいです。

橋本 こちらこそ。坂田さんが初めて映画を撮られたのは2008年公開の『花はどこへいった』ですね。

坂田 はい、55歳の時に30年連れ添った夫を肝臓ガンで突然なくし、もう目の前が空白になってしまって……。これからどうやって生きていこう、何か新しいことをやらなければ、もう生きていけないという気持ちでした。夫は私と出会う前、1967〜70年までアメリカ軍兵士として南ベトナムに駐留していました。ちょうどベトナム戦争の激戦期で枯れ葉剤も大量に浴びている。夫の急逝はそれと関係あるのではないか、枯れ葉剤のことをもっと知りたい、ベトナムの被害者は今どうしているのかという思いが映画作りの出発点でした。

橋本 お連れ合いのグレッグ・デイビスさんはフォト・ジャーナリストでいらしたし、坂田さんご自身も写真のエージェントをしていらしたとはいえ、映画を撮るのはまったく初めてだったんでしょう?

坂田 そうなんですよ。たまたまアメリカでドキュメンタリー映画のワークショップに参加する機会があって、そこで2週間、撮影から編集まで一通り教えていただいて、なんとか5分くらいの短編ですが、映画らしきものができた。それだけでカメラを持ってベトナムに飛んでいったんです。

橋本 映画には坂田さんのその想いが、そのまま出ていましたね。坂田さんの個人的な出来事を通して、強い意思を感じる作品でした。見る側にすっと伝わって、ベトナムの過酷な現実にも自然に入っていけた。

坂田 あのときは何かを伝えようなんていうことは考えられませんでした。何かにすがりたい、何かしていないと沈んでしまいそう。自分の悲しみをなんとかしたくて夢中で撮った、という感じです。

橋本 枯れ葉剤の被害者の子どもたちの映像はとても辛いものなのですが、見ているうちにその気持ちが薄れて、むしろお母さんのやさしい表情とか、私たちの生活と地続きの、家族の温かさや生きるということが伝わってきました。坂田さんがそこにいることで空気を変えている。監督の力を感じましたね。

坂田 ベトナムに初めて行ったとき、イギリス人の男性カメラマンと一緒に行ったのですが、やはり彼は背の高い白人の男性ということで威圧感がある。一方私はアジア人の女性だからか、親しみを感じてもらえたのかもしれませんね。私も最初は、先天性の障害のある子どもにカメラを向けるのは迷いもあったのですが、しだいに彼らの家族愛にひかれ、緊張感もほぐれて、むしろ温かい気持ちになりました。レンズを通して彼らの強さや優しさに包まれ、私の悲しみが癒されていくのを感じました。

橋本 その続編ともいえるのが2作目の『沈黙の春を生きて』ですね。

坂田 はい。一作目は夫を亡くした個人的な慟哭のようなものだったけれど、それをもっと広い見地から歴史的にも地理的にも広げていきたいと思って、アメリカの被害者(枯れ葉剤を浴びたベトナム帰還兵の子どもたち)にも取材を広げました。2作目のタイトルに込めたのは、化学物質の乱用が人体や地球環境を破滅に導くという、50年以上も前のレイチェル・カーソン(※)の警告です。枯れ葉剤の問題はベトナムとアメリカだけの問題ではない。30年前のベトナム戦争の話ではなく、すべての人々、地球環境に関わる深刻な問題なのだということを伝えたかった。その制作中に起こったのが福島の原発事故。こうしてはいられない、枯れ葉剤の次は放射能だと、次作の構想が浮かんだんです。

※レイチェル・カーソン:アメリカの海洋学者、作家。1962年に化学物質による環境汚染を警告した『沈黙の春』を出版、大きな反響を呼ぶ。

橋本 それが『わたしの、終わらない旅』につながるわけですね。

坂田 兵器と原発という二面性を持つ核エネルギーって何なのだろうという問いから、かつて核実験場になったマーシャル諸島、カザフスタン、フランス、福島を訪ねました。私の場合、伝えたいという以前に自分が知りたいというのが映画作りの原点ですね。なぜ、と思うとカメラを持って動きたくなる。人と出会い社会とつながりたい。人との出会いから、次の作品が生まれる。ふだんは山の中で一人暮らししていますから、家にずっといると閉塞感があって人に出会いたくなるんです。次回作は、マーシャル諸島を再び訪ねて、撮ろうと思っています。

橋本 知りたいと思う好奇心と行動力がやっぱり素晴らしいですね。

坂田 もともと人類学に興味があったんです。机の前に座って勉強するのは苦手で、とにかく外へ出かけたい。カメラを持ってフィールドワークに出かけたい、という思いはありました。

橋本 フィールドワークって、まさにドキュメンタリーの世界ですよね。

最終決定権を持つ上層部に女性が増えないと変わらない

坂田 橋本さんは、どういうきっかけで映像プロデューサーの仕事を始められたのですか。

橋本 10代の頃、芝居や映画をやっていて。当時はテレビが活気があり面白かったので、漠然とテレビ番組を作りたいと。でもちょうどテレビ局が新卒採用しない時期で、たまたまTBSの報道局でアルバイトをするようになりました。仕事といっても、コピーとりとかお茶くみですよ。でもとにかくテレビ番組を作る現場の近くにいてチャンスをうかがっていました。その流れでテレビ制作会社に入ったんです。

坂田 その時代のテレビ業界は全くの男社会で、女性が入り込むのは大変だったでしょう。

橋本 最初は事務仕事でした。現場に女性はほとんどいない時代ですが、とにかく現場に出たい出たいと言い続け、ADになりました。現場に行くと「女が何しにきたんだ」みたいな目で見られました。取材先にも信用されなくて「もっとちゃんとした人、来ないの?」と言われたり。でも私は現場の仕事を知れば知るほどその面白さに惹かれて、なんとしてでも現場に出たいという一心で、無茶なこともいろいろしました。
 たとえばロケに行くときは水を一切飲まない、重いものも率先して持つ、寝ないとか。ほかのスタッフに女子トイレの心配をさせたくないし、女だから使えないと思わせないためブラックな無理をしました。他の女性には決して真似して欲しくないことです。その頃に比べれば、テレビの現場にはずいぶん女性が増えましたし、ディレクター、プロデューサーなどは女性が半分近くになっているかもしれません。無理せず自然体で仕事をできる環境に近づいているとは思います。でも最終決定権を持つテレビ局の上層部には女性は少ない。まだ数パーセントだと思います。世界的にみてとても低いです。そこが変わらないとテレビメディア全体、社会全体が変わっていかないのではないでしょうか。

坂田 今、男性に混じってトップにいらっしゃる女性の中には、女性を代表するというより、男社会におもねっているところがありませんか。男性にすり寄っているというか……。安倍政権の閣僚経験者を見ると特にそんな感じがします。

橋本 たしかに。男性以上に過激な価値観をもつことでしか認められないのかもしれません。それでも最初はとにかく女性の数を増やすことが大事。数のバランスが圧倒的に悪いです。

テレビの人間には、チャンネルを替えられるのではという恐怖がある

坂田 お話を聞いていて思ったんですけれど、橋本さんって、テレビがとってもお好きなんですね。

橋本 そう、好きなんです。愛している(笑)。私ね、家に帰ったらすぐテレビをつける。ホテルでも部屋に入るやいなやつける。テレビがついていないと不安なんです。今はどうだかわからないけれど、少なくとも私が物心ついた頃から共に育ってきた時代のテレビは面白かったし、刺激的だった。テレビからいろいろなものを学んできたと思います。

坂田 あるカメラマンから聞いた話ですが、ジョン・レノンも家にいるときにはいつもテレビをつけていたのだとか。曰く「テレビは世界に開かれた窓だから」と。私も今群馬の山の中の一軒家に住んでいますけれど、テレビをつけると確かに世界が広がる。世界中のいろいろな人に会えます。ただ、今のテレビはこれだけチャンネルがあるのに、見たい番組がないということがしばしばあって、何とも残念です。

橋本 それと昔に比べてテレビの社会的地位のようなものが低下してきていると思います。視聴者の間に不信感が積み重なって、社会から信用されなくなっている面は実感としてあります。よく「現場はがんばっているのに、局の上層部が政権に忖度して萎縮しているのでは」とも聞かれますが、一概にそうも言えないと思っています。ただ私も含めテレビの作り手は、ある決まった放送枠の中で作るので、習性として自分から線引きしてしまう事があるかもしれません。

坂田 橋本さんはテレビと映画、両方にかかわっていらっしゃいますが、作品を作る点において、どう違いますか。

橋本 実は、大きくはそんなに違わないのではないかと思っています。映画は映画館に足を運んでもらうのが大変だけど、テレビは気楽にスイッチを入れられる。でも飽きたらすぐチャンネルを替えられる。切られてしまう。テレビ作りはその恐怖心がこの時代でもまだある。切られないように、替えられないようにという気持ちがあるからなのか、どうしてもわかりやすいように、シンプルにという方向にいってしまう。もっと視聴者を信頼して、複雑なものは複雑なままで提示してもいいと思うのだけれど、私自身なかなか出来てないです。なので、説明も過多になりがちです。

坂田 砂糖菓子みたい。なんでも飲み込みやすいようにオブラートに包んでしまうんですね。でも、あんまりわかりやすいと逆に見ている方は眠くなっちゃう。もっとチャレンジングな見せ方があってもいいと思います。

橋本 そうなんです。一つの番組の中で答えを出さなくてもいいし、テレビの新しいチャレンジはまだまだあると思うのです。

3・11が私たちを変えた。答えを求めてドイツへ

橋本 先ほどのお話を聞いて、坂田さんにとっても3・11は大きかったんだなと思いました。私は7、8人の仲間と「ドキュメンタリージャパン」というドキュメンタリーに特化した制作会社を立ち上げて、20年ほど経営にも携わりました。そのほとんどがテレビ番組の制作でした。
 それが大きく変わったのはやはり3・11がきっかけでした。テレビでは表しきれないものをドキュメンタリー映画で世に問わねばという気持ちになりました。あのときはちょうど福島菊次郎さんという90歳の報道写真家を追っかけている最中で、そろそろまとめに入ろうかなという時でした。それを中止して編集を変更して、菊次郎さんが最後の現場として福島に入るその姿も収めて映画という形にまとめました(長谷川三郎監督『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』)。それと同時にこの原発による災害を記録しておかねばという思いから、避難を余儀なくされた方々を取材した映画『フタバから遠く離れて 第1部第2部』(舩橋淳監督)を作りました。
 恥ずかしい話ですけど、私、日本に54基も原発があるなんて、あの事故が起こるまで知らなかったんです。原発が着々とこの日本列島に造られていた頃、私は何をしていたんだろう。20代30代の頃ですけど、なんてぼーっと生きていたんだろうと、愕然としましたね。坂田さんのお母様は脱原発の運動をなさっていたんですね。1970年代ですから、すごく早くから気づいていらした。

坂田 でもその頃私は、母の運動には全く理解がなくて。お母さんはうちでごはん作ってくれてればいいのにと、すごく冷淡だった。原発が盛んに造られていた頃のプロモーションって、すごかったでしょう。今でもよく覚えているのですが、新聞の1面広告でトースターからおいしそうなトーストが飛び出している絵。そこに「原発のおかげでこういう美味しいトーストが食べられるんです」というコピーが添えられている。それと大きな鯛の絵があって、「若狭湾の鯛は原発の温排水のおかげで、こんなに立派に育つ」。

橋本 えーっ、それ、かなりシュールですね。そんな話、たぶんみんな、心底信じていたわけではないのに、気にとめることなく、高度成長の波に流されてしまった……。

坂田 何かおかしいとは思いつつ、原発って豊かな生活のために大事なんだなあと、なんとなく受け入れてしまったんでしょうね。

橋本 そしてあの事故が起こって、坂田さんはドイツへ行って『モルゲン、明日』を撮った。それはなぜ?

(C)2018 Masako Sakata

坂田 あれだけの事故が起きたのに、なぜ日本は原発をやめられないのだろう、なぜドイツでは脱原発へ舵を切ることができたのだろうという素朴な疑問からです。ドイツはすごいなあ、やっぱりメルケルさんはえらいなあ、彼女にインタビューしようか、と思ってドイツに行きました。そこでわかったのは、メルケルさん一人が偉いのでなく、50年来の市民の草の根運動があったからこそという歴史ですね。

橋本 私もなぜドイツではできたんだろうと、すごく知りたい。日本とドイツ、よく比べられますよね。

坂田 最初は過去の戦争との向き合いかたの違いが根本にあるのではないかと思っていました。ドイツはナチスの歴史をきちんと総括したけれど、日本は戦争責任をうやむやにしたままここまで来てしまったことが原因ではないかと。でも、ドイツでも戦後しばらくは誰もナチス時代のことを語りたがらなかったし、過去の過ちに向き合おうとしてこなかった。それが変わったのは、60年代後半の学生運動がきっかけでした。世界的な変革のうねりの中で、若者たちが自分の親たちがかつて何をしたのか問い詰めることから始まって、負の歴史が語られ始めた。そして歴史をあるがまま客観的に伝えることが民主主義の基本だと広く認識されるようになったのです。
 またドイツではあの時代の運動が学生だけでなく市民を巻き込んで広がり、やがて緑の党のように環境保護の旗を掲げる政治政党が現れ、各地で反原発、環境保護、自然エネルギー推進など、幅広い市民運動が育ったのだと、取材を通して教えられました。

橋本 確かに日本でも学生運動はあったけれど、今となってはあれは何だったんだろうかと。私は当時高校生でしたけど、学校はバリケード封鎖されて授業がないから、演劇に熱中していました。新宿で街頭パフォーマンスをやったり、映画ではヌーベル・バーグにはまったり……。その当時の仲間とここシネマハウス大塚を作ったわけですけど。

坂田 私はまさにその世代でしたが、傍観者でした。学生の革命ごっこみたいに感じて、私には理解できませんでした。当時は盛り上がったけれど70年代に入って、連合赤軍事件など凄惨な内ゲバなどがあって、急速に支持を失っていったという見方をする人もいます。

橋本 日本ではそうですね。でも世界では、アメリカのベトナム反戦運動に端を発したこの運動は、欧州、南米と世界的な波が生まれ、アフリカ大陸では独立を勝ち取る国が現れ、人種差別撤廃、ウーマン・リブ等の性差撤廃へのうねりが同時多発的に起こったのが、あの時代でした。「激動の時代とは何だったのか」というテーマで、国際共同制作でドキュメンタリー番組「1968 激動の時代」(BS1スペシャル10月7日放映)が制作されたのですが、私は日本編の制作で参加しました。

坂田 「過去に学び、未来を創る」という今回の映画のチラシにも入れたキャッチフレーズの通り、それは今、ぜひ知りたいことですね。ドイツの話にもどりますと、ドイツは地方分権が徹底していて、自分たちの暮らしのことは自分たちで決めるという自治の思想が根づいているんですね。たとえば1975年、ライン川沿いのヴィールという小さな村で、原発建設反対の運動が起こりました。小さな村の住民たちが、原発推進を国策とする中央に真っ向から反対したのです。よそからある偉い人が「豊かになりたかったら原発は必要だ」と説得に来たのですが、村人たちは「そういう豊かさはいらない」ときっぱり跳ね返したそうです。ヴィールの市民の勝利は、その後の市民運動の原点になりました。

橋本 3・11があって、さすがにこれで日本も変わるだろう。変わらなきゃとみんな思ったはずです。節電も広がったしデモも盛んになった。でもあれから7年半、再稼働だ原発輸出だと、何も変わらない。負け続けている。何をやっても変わらないという閉塞感が漂う今だからこそ、この映画を多くの人に見てもらいたいと思います。『モルゲン、明日』には、今一番必要なこと、希望の種があります。

坂田 簡単には比べられないけれど、ドイツから学べることはきっとあるはず。小さな市民の力でも集まれば、社会を変える力になれると信じています。

橋本 希望をもち、しつこく続けることが大切ですね。

『モルゲン、明日』公開のお知らせ
シネマハウス大塚にて10月14日(日)まで、連日トークイベント付きで上映中。ほか横浜、福島、高崎など全国順次公開。詳細は公式サイトをご確認ください。
http://www.masakosakata.com/

橋本佳子(はしもと よしこ)テレビ、映画とも数多くの受賞作をプロデュースし、放送文化基金個人賞、ATP個人特別賞、日本女性放送者懇談会放送ウーマン賞を受賞。近年手がけた作品は、『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎 90歳』(12/長谷川三郎監督/キネマ旬報ベスト・テン文化映画第1位)、『フタバから遠く離れて 第1部・第2部』(12・14/舩橋淳監督/共にベルリン国際映画祭正式招待作品)、『FAKE』(16/森達也監督)、『いしぶみ』(16/是枝裕和監督)、『Ryuichi Sakamoto: CODA』(17/スティーブン・ノムラ・シブル監督/ヴェネチア国際映画祭正式招待作品)、『沖縄スパイ戦史』(17/三上智恵・大矢英代監督))など多数。座・高円寺ドキュメンタリー映画祭実行委員。フォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」で映画コラムを連載のほか、2018年4月に自由な表現のための多目的スペース「シネマハウス大塚」を東京都豊島区にオープンし、同館のスーパーバイザーを務める。

坂田雅子(さかた まさこ)長野県に生まれる。1965年から66年まで、AFS交換留学生として米国メイン州の高校に学ぶ。帰国後、京都大学文学部哲学科で社会学を専攻。1976年から2008年まで写真通信社に勤務および経営。2003年、夫のグレッグ・デイビスの死をきっかけに、枯葉剤についての映画制作を決意。2007年、『花はどこへいった』を完成させ、毎日ドキュメンタリー賞、パリ国際環境映画祭特別賞、アースビジョン審査員賞などを受賞。2011年、NHKのETV特集「枯葉剤の傷痕を見つめて〜アメリカ・ベトナム 次世代からの問いかけ」を制作し、ギャラクシー賞、他を受賞。同年2作目となる『沈黙の春を生きて』を発表。仏・ヴァレンシエンヌ映画祭にて批評家賞、観客賞をダブル受賞したほか、文化庁映画賞・文化記録映画部門優秀賞にも選出された。2014年、「核」と人類の歩みを描いた『わたしの、終わらない旅』を公開。現在、脱原発を宣言したドイツの歴史的背景を、市民運動の観点から描く『モルゲン、明日』が公開中。