第92回:74年目の慰霊の日 三つの慰霊碑を歩く(三上智恵)

 今年の沖縄の梅雨はしつこい。どんなに降っても不思議と「慰霊の日」直前に梅雨は明け、結局は、あの夏本番の日差しに焼かれながら薫香に包まれて過ごすことになるのに、今年は今日、6月26日になってもまだ島の上空は梅雨空のまま。どうなってるの? このところ、日本という国に突き放されて、黙殺されて、沖縄県民の心にかかった厚い雲が晴れる日はもう来ませんよ、と言ってやりたい沖縄の天の神々が、きっとこの空模様をつくっているに違いない。

 テレビ報道の仕事をしていた19年間、やはり慰霊の日は摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑の式典を中心に南部の取材・編集が必須だった。激戦地だった南部で過ごすのが当たり前の日だったのだが、慰霊碑は全島にある。5年前からフリーになって、どこで23日を迎えてもいい立場になった。正直、政府の黒塗りの車を追いかけたり、それに対する違和感や抗議の声を拾ったりするのは疲れた。平和の礎にも足は向かない。今年は特に仕事としての撮影も組んでいないし、自分の気持ちが向く場所に行き、そこでゆっくりムヌカンゲー(もの考え)したいと思った。

 結局、訪ねたのは第二護郷隊の碑、南海の塔、第一護郷隊の碑。やはり護郷隊の少年たちに会いたくて、今年も同じ場所に行ってしまう。

 というわけで、今回の動画は、いつもの場所に会いたい人に会いに行った、ついでにカメラを持って行った程度の記録なので、「慰霊の日点描」というスケッチでしかないが、この文章を読んで興味を持ってもらえた方にはぜひ、共有していただければと思う。

第二護郷隊の碑

 この碑のある場所は、恩納村安富祖。第二護郷隊が訓練中に最初の拠点を築いた場所でもあり、恩納岳のアジトに繋がる入り口にあたる。戦後は、このあたりの山野に散らばる遺骨を集めて供養する場所にもなっていたという。第二護郷隊の碑ができてからは毎年慰霊祭が行われていたが、元少年兵らが高齢化して「さともりの会」を解散した時に、積み立てた会費をすべて安富祖の公民館に寄贈し、この後の管理と清掃をお願いした。

 そういう経緯から、毎年6月23日は朝から安富祖の子どもたちや区長さんたちが掃除に励む明るい声が響き渡っているのだが、しかし今年は土砂降り。子どもたちの姿はなく、午前中は訪れる人もなかった。区の代表だけで掃除を済ませ、子どもたちは午前中、公民館で平和学習をすることになった。

安富祖公民館

 動画にあるように、こうやって子どもたちは、地域の大人たちと共に身近な慰霊碑を掃除したり、体験者の話を聞いたりして過ごす。平和の礎や、家族の犠牲者ゆかりの場所に出かけ、何かしら戦争を思う行事に参加する人が沖縄では多い。沖縄県だけがこの日を休日にしているわけだが、その意味を74年経った今も軽く考えている県民は少ないと実感する。

 とはいえ、護郷隊については毎年第二護郷隊の碑を掃除してくれる子どもたちであっても、そのイメージはおぼろげである。公民館長が早速、「護郷隊ってどんな人たちだったか覚えてる?」と投げかけたところ、その答えは心もとない。秘匿部隊だったとはいえ千人規模のゲリラ部隊の生存者たちが、地域の中で語り伝えることに成功しているとはいい難い。

 映画『沖縄スパイ戦史』を見ていただければ、なぜ今まで語ることを躊躇してきたのかがわかっていただけると思うが、それにしてもお膝元の安富祖の人たちにはせめてもう少し護郷隊の闘いを、悲惨さだけではなくその歴史的な位置づけも含めて理解していてほしいと願うのは過度の期待だろうか。

 公民館長の松崎さんは若いのにとても熱心で、ありがたいことに8月17日に『沖縄スパイ戦史』の上映会を区でやってくださるという。安富祖の人たちが山を見上げた時に、この沢に、この山陰に、身を隠して白兵戦の主役になった少年たち、友を看病し埋葬した少年たちの姿を想像してくれるようになったら。恩納村の人たちにはせめて少年兵たちの残像を恩納岳や石川岳に重ねるくらいになってもらえたら、子どもたちにももっと繋いでいけると思うので、ぜひ一人でも多く見に来てほしいと願っている。

 沖縄戦の紙芝居を見て、子どもたちが感想を述べる。

 「戦争で15万人亡くなったと聞いて悲しかったので戦争はやりたくないです」

 「戦争で大量の人たちが亡くなってしまったのでその人たちのためにも、戦争を次からは起こさないようにしたいと思います」

 平和教育の中で繰り返される「戦争はよくない」という言葉。しかしそれを何万回繰り返しても、「次から起こさない」力にはたして繋がるのだろうか。私は疑っている。どんなに過去の戦争の残酷さをリアルに追体験させても「戦争は悲惨だ。今は平和でよかった。この平和を守りたい」と子どもに言わせて終わるような平和教育では、現在を知る力も育たないし、次の戦争がどう始まっていくのか、もしくはもうすでにそのレールに乗っかっているのか、一番肝心なところを見極める力がつかない。

 それどころか、「この平和を続けたい」と言った時に満足げに笑う大人の顔を見た時点で、子どもたちは「今は平和」という認識でいいのだと信じ込むだろう。私がその場にいる大人だったら何と言おう。先生だったらどう返せるか?

 「今は、ホントに平和かな? みんなの住む島は、アメリカのやる戦争に繋がっているよ。日本のお金もどんどん使われてるよ。罪もない、みんなと同じ普通の子どもたちが殺されていく場所と、沖縄は繋がってしまってる。それに、アメリカのヘリの部品とか、オスプレイも、私たちの頭の上に落ちてくるよね? 私たちは戦争とサヨナラできてないかもしれないよ。これ以上の基地は嫌だよって、沖縄の大人たちが頑張って声を上げてるけど、日本の総理大臣は無視している。どの県よりも沖縄は戦争に近いけど、我慢しろというのは不公平。不公平や差別に苦しんでいるのは、平和な社会じゃないと私は思うけど、みんなはどう思う?」

 この時期、沖縄戦と言えばどのメディアでも「語り継ぐ」ことばかりがキーワードにされ辟易とする。これだけ視聴覚機器も手伝ってくれる今、体験者の言葉も映像もすでに有り余るほど蓄積されている。それらは消えることはない。生で聞かないと伝わらないなんてことはない。仮に体験者が不老不死になって、声を枯らして同じことを喋り続けられたとしても、今のような平和学習に甘んじていたら戦争の風化は止められやしないだろう。体験者が健在でも風化させてきた我々なんだから。

 問題は、私たちが政治を監視せず、今を読み解く努力を怠り、声を上げるというリスクを回避し、手を抜いて、歴史だけに語らせて子どもたちに「わかったでしょ?」という無責任なポジションから動かなかったから、体験者の辛い話も、次世代への想いも、消費されるだけで終わってきたということではないのか。私たちが荷物を担ぐ覚悟がないから、未来に伝えられないのだ。だから元少年兵たちの苦しみも74年経っても緩むことがない。第一護郷隊の金城さんの話は、まさにそれを表している。

第一護郷隊の碑

 第一護郷隊の慰霊祭は、暴風雨のせいもあって参加者は少なかった。元隊員の参列者は3人。過去最も少ない。10年前には、20人は下らなかったと思う。でも、当時の15、16、17歳が、今89、90、91歳なんだから仕方がない。

 金城重行さん(91)は、いつも80個くらいのお菓子を年金で買って持ってきて下さり、参拝者にふるまう。私も毎年いただいているが、餅が入った最中でとてもおいしい。子どもたちも手を合わせたあとは、すぐに横にいる重行さんからお菓子をもらう。娘さんが言うには、父はいつも「亡くなった戦友の数だけ持って行く」と話しているということだ。ひもじい思いをして、お菓子など数カ月も口にすることもなく死んでいった少年たちが、きっと参拝者と共にお菓子を受け取って天国に持ち帰ってくれるだろう。お菓子をもらう時の子どもたちの笑顔が、重行さんの心を軽くしてくれるのかもしれない。

 重行さんは言う。

 「慰霊祭の時期が来るとよ、夢を見て、眠れない場合がある」

 第一護郷隊の隊員は600人余り。重行さんが顔と名前を憶えているのは数人しかいないというのだが、同じ部隊にいた少年で、顔だけ覚えている人たちが現れるのだという。

 「何か浮かんでくるんだよね。寝ておったら、夢みたいにして。これは山に一緒にいた人だったなーって。6月になったら、こういうのが入ってくるわけ。死んだ人の顔がこんなして浮かんでくる。これが一番怖い」

 91歳になる男性が、今も死んだ少年たちの影に追われて眠れなくなる。74年間背負っている荷物は、重みが増すことはあっても軽くはならない。背中から肩に食い込んだロープは、何年経っても緩まることがない。

 映画のキャッチコピーになった「もう、忘れていいよ。私がここで覚えてるから」という言葉は、大矢英代監督と私の偽らざる気持ちだった。私たちがちゃんと背負うから、緩やかにでいいから、記憶を解き放って荷物を少しでも軽くしてくれないかな? 私たちが本当にその荷を担いで走ってくれると信じてもらえない限り、そう簡単におろせる荷物ではないのだろうけれども。大口を叩くようだけれども。私たちが覚えてるから、ちゃんと伝えるから、楽になってほしいと。

 今年は、30年の節目を迎えた「ひめゆり平和祈念資料館」の記事が多く出ていた。館長も館内で証言を伝える仕事も若い職員たちに譲った今、元学徒たちの言葉が印象的だった。

 「彼らは10年余り一緒に活動し、平和や命を守ることの意味をしっかり分かっている。私たちの思いを伝えてくれるだろうと安心しています」

 元ひめゆりの方々が90歳になっても通い続け、語り続けた資料館という現場。その横で戦後生まれの職員たちはきっと、彼女たちの荷物を受け取って走る準備に、日々真剣に取り組んでこられたのだなと胸が熱くなった。「体験者がいなくなったら怖い」なんてわかり切った甘っちょろいことを口にしてはならないと肝に銘じて積み重ねた日々が、彼女たちを押しつぶす重みをいくらかでも取り去ってくれたのだと思う。安心だ、と言わせることができた職員の皆さんには頭が下がる思いだ。そうやって先輩たちの戦争体験を無駄にせず未来を救うために生かしていくという仕事は可能なんだということを、ひめゆり平和祈念資料館が示してくれた。これは本当にすごいことだと思う。私も頑張らなくてはならない、と気合が入る。

 ところで、今年の慰霊祭には、去年に続いて護郷隊の村上治夫隊長の息子さんがお見えになっていた。映像で見る分にはお元気そうではあるが、実はこの間大病を患い入院もされていたので、当分沖縄往復は難しいかと思っていただけにうれしい再会だった。村上治夫隊長も、昭和35年に慰霊碑を建立してから亡くなる直前までの実に45年間、たったの一度も欠かさずに本土から慰霊祭に通ってきたのだった。護郷隊の部下たちを思うその熱量は並大抵のものではない。

 一方で、映画にも登場するように、戦死した少年兵の家族にとっての村上隊長や慰霊祭の見え方というのは、元部下たちとはズレがある。生き残った元少年兵と隊長たちの世界は、どうしても戦争の空気を引きずっていて、いわゆる「戦友会」の世界と犠牲になった住民の世界くらいの隔たりがある。

 兄を亡くした久高栄一さんは毎年、自作の「ヤッチー、ヤーカイ(兄さん家に帰ろう)」という反戦歌を慰霊碑の前で歌っているのだが、その遺族の気持ちは痛いほど伝わってくる。そしてこの歌は、生き残った隊員にとってもある種の罪悪感のような痛みを喚起するものだし、過酷な任務を命じた側の隊長のご家族にとっても、聞いている時間はつらいものがあると思う。

 慰霊祭では毎年この場面で参加者が複雑な気持ちになるわけだが、私はすごく大事な場だと思っている。全員が被害者だという形で花を手向け、肩を抱き合う慰霊祭も多い中で、9割以上の兵士が沖縄県民という部隊はほかにはないうえに、戦後も同じ地域で生き続けたという護郷隊ならではの、加害と被害が入り混じった苦さを目の当たりにして悶絶するような時空がここにはある。

 大本営が悪い。中野学校の存在が秘密戦の闇を作った。その通りだが、彼らの意図通りに動いた若き隊長ら幹部は無罪なのか。少年兵たちはもちろん被害者だが、日本軍の一員として、ほかの多くの成人兵士が持っている罪悪感と同じ辛さを持っている人もいる。闘った側の痛みと、沖縄県民の痛みの両方が混在する場所なのである。

 久高さんが「遺族の恨み」をこの場に持ち込めるようになったのも、隊長たちが来なくなって10年経ってようやくだ。そのうえで私は思う。村上さんの息子さんはよくぞいて下さったと。やや顔をそむけながらも聞いていてくれる。私は、この方は明らかに村上さんを背負ってここにいらっしゃるのだと思う。

 1月、大宜味村で少年兵の桜を見るイベントのときも、ここに書いたように村上隊長の娘さんとお孫さんが飛んできて下さった。元少年兵のリョーコーさんは「ああ、あの世の村上治夫さんが一緒にいらっしゃったんですねえ」と事も無げにおっしゃっていた。そしてお孫さんは今年、平和行進にも参加されたと聞いた。

 2004年を最後に沖縄に来られなくなった村上治夫さんは2006年に亡くなっているので、2004年から始まった辺野古の海の闘争以降、政府から冷徹な仕打ちを受け続ける沖縄の姿を見ていない。久志岳も大浦湾も、護郷隊が守っていた場所である。もし知っていたら、もし元隊員の部下たちが「辺野古は絶対だめだ」というのを聞いていたら、どう思っただろうか。これは私のつまらない妄想に過ぎないが、私は息子さんやお孫さんを通じて村上さんは沖縄と繋がり続けているように思えてならない。魂とか御霊のような表現が胡散臭いとしたら、世代や時空を超えて残る「意思のようなもの」が、あるように思えるのだ。

 さて、沖縄戦を語るときに、一般的に日本軍は悪者にされることが多い。わたしはここが戦場になったときに兵隊として残酷な行為をした大勢の兵士たちの罪についてずっと考えているのだが、彼らを憎み軽蔑する前に、沖縄に配置された日本軍の兵士がどんなに見捨てられた軍隊であったか、どんな不条理の中で煮え湯を飲まされたのか、残虐行為に走らなければいけなかったか、その背景を私たちは十分に知るべきだと思う。そうでなければ同じ状況を作り出してしまうだろうし、同じ鬼を生み出してしまうだろう。

 そして、あえて言うが、その背景が十分すぎるほど同情に値するとしても、軍人として犯した罪は、たとえ軍が解体されても消えるものではない。人として負うべき罪は残ると思う。例えば、兵士個人が相当な被害者であっても、たとえこの国がその罪を問わなくとも、加害者になってしまった罪がチャラにはならないと私は思っている。しかし、その罪というのは不動不変で、あがなえないものなのか? 後世、そのこととどう向き合って生きたかによって何かが変わるのではないのか? 私はこの数年、なぜかそんなことばかり考えているのだ。

 私は軍隊を憎むし、戦死者を顕彰して英霊だ、軍神だ、と持ち上げることも許さない。でも戦争に参加した結果、被害者にも加害者にもなってしまった元軍人がその痛みを抱えて生きていくことについてずいぶん想像できるようになり、自分の痛みのようになり、そこからの救いについて考えるようになった。三上は軍隊寄りになった、村上隊長よりになったなどと言う人がいるが、それは全く違うと思っている。そう見えているとしたら、私の思考がまだ整理されていないのだと思う。未熟なのだと思う。まだクリアに表現できないのだが、こんな風に思っている。

 「一つの汚点もない100パーセントの被害者が正しくて、少しでも加害性を帯びた被害者は小さくなっていないといけないのか?」

 「なぜか加害者になってしまった当人たちの苦しみを軽視し、彼らを恨むだけで状況を分析しないならば、問題の本質に到達できないのではないか?」

 答えも救いも簡単には得られないであろうけれども、戦争が悪かった、という一億総懺悔的な思考に逃げ込まずに、あえてそこに向き合い続ける人間の営みにこそ、希望があるような気がしている。それは例えば村上隊長と、そのご本人亡き後も家族たちが沖縄に向き合い続けているように。そして、さらに次の慰霊の碑にこの話は続いて行くのだが……。

南海の塔

 ここまで縷々書いてきた、映画が終わってからも私がこだわり続けていることの正体は、この塔に包含されている気がしている。私は『沖縄スパイ戦史』のなかに3人の虐殺者を実名で登場させたのだが、少なくとも一人の住民をスパイだとして手にかけた武下一という海軍少尉がここに眠っているのだ。なぜ、ここにお骨があるのか。なぜ立派な観音様が建てられているのか。その顛末は日を改めてここに書こうと思う。が、一言でいうと、今帰仁村湧川の人たちはずっとこの慰霊碑を守り、手厚く供養してきた。それは武下少尉の人となりもあるが、戦後ずっと通ってきた大分県のご両親と湧川の人たちの、もう一つのストーリーがあるからである。

 世代を超えて、罪が昇華すること。負の歴史が騙されない未来を引き寄せてくるということ。「戦争」という人類最大の不幸が本当の光を見せてくれるという可能性について、私はどうしてもまだ、考え続けたいようだ。だから映画が終わっても、慰霊の日が終わっても、まだまだ私は沖縄戦の現場を歩き続けることになりそうである。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)