ほんの一カ月前、10月23日のこと。
ぼくは、午後2時から燐光群の舞台『なにもおきない』(坂手洋二・作)を、梅ケ丘の小さな小屋で観た。その後、6時半から映画『i-新聞記者ドキュメント-』(森達也監督)の特別試写会に行く予定だった。
飯田橋の試写会場は初めてだった。芝居が終わってすぐに向かったら、ずいぶん早く会場に到着してしまった。さすがにまだ人影がない。小腹がすいていたので、サンドイッチでも食べようかと、近所をブラブラしていたら、「あら、こんにちは」と声がした。木内みどりさんだった。
「なんだか時間を読み違えて、こんなに早く着いちゃったあ、ふふ」と笑っていた。「じゃあ、その辺でお茶でもしますか」とぼく。
近所にスターバックスがあったので、ふたりでサンドイッチとコーヒー。ぼくにはあまりに合わないメニューだけれど、木内さんが選んだのだ。ぼくがおごってあげた(笑)。
「うわあ、嬉しい。やったあ!」と、木内さんは天真爛漫。
1時間ばかり、ふたりでいろんな話をした。これからの仕事の予定、公開中の出演映画の話、最近力を入れている「小さなラジオ」の楽しさ。
「その髪型、なんだか落合恵子さんに似てきてません?」
「うんうん、これがいちばん楽なのよね。落合2号でいいわ」
「やまんばルック。落合さんも、手間がかからず気持ちいい、とおっしゃっていましたけどね」
「落合さんって偉いわよねえ。あれだけ一生懸命市民活動に力を入れ、一方でクレヨンハウスの経営も立派にやってらっしゃる。マネできないわ」
「いやいや、木内さんだって、演技も市民活動も両立させてらっしゃるじゃないですか」……。
そして、市民運動の面倒くささへの、ちょっとの不満まで。
話は尽きなかったが、時間はすぐに経ってしまう。試写会が始まる時刻になって、席を立った。
みどりさんとの、それが最後の会話となった。
ぼくが木内みどりさんと知り合ったのはいつだったのだろう?
記憶を探っても、このとき、という明確な時期は浮かんでこない。なんとなく、いつの間にか……というのがほんとうのところだ。
もちろん、芸能活動での接点はない。だから、木内さんが反原発や憲法擁護などの活動に力を入れ始めてからのことであるのは間違いない。たびたび、デモや集会の現場で顔を合わせるようになったからだろう。
多分、鎌田慧さんか佐高信さんあたりの紹介ではなかっただろうか。それとも、落合さんだったろうか。ともかく、出会うたびに挨拶を交わすようになったのだった。
あるときぼくは、木内さんに「実は、ぼくは『マガジン9』っていうウェブマガジンに協力しているんです。そこでインタビューを受けてくれませんか」とお願いした。木内さんは「えっ、ほんと? 私なんかでいいの?」と、たいそう喜んでくれた。
それが、2014年6月11日の「マガ9」に載った。「『脱原発』のため、私がやれることは何でもやる」とのタイトルで、淡々と、でもとても真剣に「脱原発」についての想いを語ってくれたのだった。
その際、「お話はとても素晴らしかったです。その想いを、今度は文章で書いてもらえませんか」と、厚かましくもお願いしてみた。お忙しいのだから、とてもムリだろうとは思っていたが、ダメモトで頼んでみたのだ。
「うわっ、嬉しい。文章をかくのって苦手だけれど、いいのかしら、私なんかで?」と、快諾してくださったのだ。
それで「マガ9」に、『木内みどりの「発熱中!」』というコラムが始まった。その第1回は、2014年9月3日掲載の『9月1日はわたしにとって特別な日。』である。
ほんとうに、芸能界という色(そんなものがあるとしたら)には、まったく染まっていない方だった。
実はぼくは、数十年前の話だが、月刊「明星」という、これぞ芸能界!というような雑誌の編集者をしていた。だから、当時の芸能界の雰囲気というものを、かなり知っている。ある意味で、常識の通じない(常識外れの)ことが罷り通る世界であることも知悉していた。
テレビと芸能事務所がすべてを支配する世界。その中で、政治的意見をはっきり言うことなど(ときの権力者にすり寄る意見は別として)、自分の芸能人としての生命を縮めてしまうことでしかない。多分、それは当時より強まりこそすれ、弱くなっているとは到底思えない。
そんな中で、政府の重点的な施策である「原発推進」に真っ向から抵抗して反原発集会で司会をこなし、自ら立ち上げた「小さなラジオ」でも、小出裕章さんを呼んで、反原発の旗を掲げ続ける。ぼくは、そんなみどりさんが大好きだった。
我が「マガジン9」の事務局長だった塚田ひさこが、ある日突然「豊島区議選に立候補する」と宣言して、マガ9編集部をパニックに陥れたときも、みどりさんは塚田応援の先頭に立ち、数日間、塚田と一緒に選挙区内を練り歩いてくれたのだ。
そんなみどりさんだから、「マガ9」も、みんながみどりさんファンだったのだ。それが……。
ぼくがみどりさんの急逝を知ったのは、ツイッター上でだった。何気なく開いたツイッター上に「水野木内みどり」といういつもの名前で、思いもかけぬ文章が載っていたのだ。
〈木内みどりが、2019年11月18日、急性心臓死により永眠いたしました。生前の本人の希望通り通常の通夜・告別式は行わず、家族のみでお別れをいたしましたことをご報告いたします。これまで応援してくださいました皆様、またお世話になりました皆様へ謹んで御礼を申し上げます。〉
最初は悪い冗談かと思った。だって、あんなにもお元気だったみどりさんが、それも「ヒロシマの反戦・反核を訴える表現者の企画展」の準備のための広島滞在中に亡くなったというのだ。
そのツイートを見たとき、ぼくは思わず「ウソだっ」と声をあげていた。それほど、信じられなかった。
でも、事実だった。
「水野木内みどり」のツイートには、薄青いゆったりした服を着て、楽しそうに両手を伸ばした写真が添付されていた。
そして「またね。」と。
みどりさん、「またね。」はないよ。淋しすぎるじゃないか……。
またね。✨ pic.twitter.com/NyZ4g6gaGp
— 水野木内みどり (@kiuchi_midori) November 21, 2019