第503回:木内みどりさんの訃報。の巻(雨宮処凛)

 木内みどりさんが亡くなった。

 11月21日、唐突に報じられた。亡くなったのは18日。出張先の広島で、突然の死だったようだ。と書きながらも、まったく実感がない。悪い冗談のようにしか思えない。

 だって、私の知る木内さんはいつも元気でパワフルで明るくてオシャレで、エネルギーに満ちた人だから。

 今年の夏の参院選では、れいわ新選組の街宣の司会をいつもやっていて、連日のようにご一緒した。街宣は、毎度のように直前にタイムテーブルが突然変わって、木内さんも私も目を白黒させる日々だった。だけど木内さんはそんなドタバタも楽しんでいる様子で、余裕で現場を回していた。かたや舩後靖彦さんサポートチームの一員だった私は、応援演説に来てくれる車椅子や人工呼吸器の方々の登壇時間が直前に変わることに、いつも舞台裏で一人パニックになっていて、時々そのパニックに木内さんを巻き込んだ。

 そんな木内さんと初めて会ったのは、3・11以降のことだ。確か2012年の春、原発再稼働に反対して、毎週のように官邸前に数万人が集まっていた頃だったと思う。もちろん私は、小さな頃からテレビなどで女優として活躍する木内さんを知っていた。そうして出会ってから数ヶ月もする頃には、「デモ見知り」(デモでよく会う顔見知り)になっていた。

 初めてちゃんと言葉を交わしたのは、震災から数年後の脱原発集会だったと思う。どちらも登壇する集会で、楽屋に行くと木内さんがいた。その時、木内さんはすごく素敵なスカートを履いていて、それがすらりとした木内さんにとても似合っていて、思わず「綺麗!!」と口にすると、木内さんはニカッと笑って「ババアが頑張ってスカート履いてんのよ!」と豪快に言った。

 それまで私はどこかで木内さんに対して「近づきがたい女優さん像」を勝手に持っていた。しかし、その一言でそれは完全に崩れ、それからぐっと距離が縮まった気がする。

 だけどいつも会うのはデモや集会の場で、お互い司会やスピーチや誰かのアテンドなんかの役割があって、いつも挨拶もそこそこに「〇〇さん遅れるって!」「〇分押しだからスピーチ時間1人3分で!」とかの業務連絡を大声で伝え合っていた。

 それにしても、本当にいろんな現場に木内さんはいた。脱原発デモはもちろん、15年、安保法制反対運動が盛り上がった時もいつも国会近くでお見かけした。安保法制がもう通りそう、という頃には、深夜、国会前で夜を明かす人々も出た。ある日の深夜3時、木内さんは国会前で頑張るSEALDsの若者たちに差し入れを届けに行った。この人、ほんとにほんとに本気なんだ。改めて思った瞬間だった。

 12年、宇都宮健児氏が初めて東京都知事選に出た時も応援演説で一緒になった。

 何人かでひと組となり、いろんな場所で応援スピーチをする日にご一緒したのだが、やはり現場はあまりにもバタバタで、木内さんは途中で自分のバッグがないことに気がついた。スピーチ中、いろんな人に預かってもらっているうちになくなってしまったようだった。バッグを無くすなんて一大事である。しかし、手ぶらになった木内さんはケロッとした顔で、「いいのいいの、命があれば大丈夫!」と究極のことを言って笑った。

 もし自分だったら、と思ってほしい。携帯とか財布とか家の鍵とかが全部入ったバッグを無くしてこんなことを言える自信、私にはまったくない。というかあの時、木内さんのバッグは見つかったのだろうか? あれだけの大物女優なら、「なんとかしなさいよ」って空気出したっていいはずなのに木内さんはそんなそぶりはみじんも見せず、「そんなことより宇都宮さんの応援の方が大事だから気にしないで」と言い放った。今思い出しても、スケールのデカさと優しさに、シビれる。

 そして今思い出すのは、「れいわ祭」での木内さんの涙だ。

 7月12日、品川駅で開催された参院選さなかの「れいわ祭」。投票の日を翌週に控えた金曜夜、れいわ新選組のメンバーが一堂に介して開催された大集会だ。

 この日、会場となった品川駅の広場には、見たことのない光景が広がった。ステージの最前列を、ずらりと車椅子が埋めていたのだ。舩後靖彦さん、木村英子さんが候補者となり、初めて開催された大集会に、東京中から障害がある人たちが大勢駆けつけてくれたのだ。

 人工呼吸器をつけた人、電動車椅子の人、手動の車椅子の人、ベッド型の車椅子の人、杖を持った人なんかが最前列を埋め尽くし、ステージの上から見たその光景は「圧巻」としかいいようのないものだった。

 司会の木内さんはその光景について言及し、途中で声を詰まらせた。

 「こんなにたくさん、車椅子の人たちが」

 そう言ったきり言葉に詰まる木内さんは「ごめんなさいね」と涙をぬぐった。舞台袖で、私も泣いた。周りの人も涙をぬぐっていた。あの時、あの場にいた人たちは、みんな同じ気持ちだったと思う。あれだけ多くの障害者の人たちが集まってくれた事実に、私たちは震えるくらい、感動していた。

 今、19年の新語・流行語大賞に「れいわ新選組/れいわ旋風」という言葉がノミネートされているが、そんなれいわ新選組の今年の夏の選挙を、木内さんは思い切り盛り上げた。

 そんな木内さんについて、私はずっと謎だったことがある。それはなぜ、山本太郎氏は「脱原発」活動を始めたことで芸能界の仕事を干されたのに、木内さんは大丈夫なのか? という謎だ。

 どんなに選挙の応援をしようと、どんなに政治的な発言をしようと、どれほどデモに行こうと集会の司会をしようと、木内さんはコンスタントにテレビや映画に出続けていた。飄々とした木内さんが、飄々としたまま活躍し続けられている事実が、この国のマスコミや芸能をめぐる「最後の良心」のような気がしていた。木内さんが女優として活躍してるからまだ大丈夫。テレビにも、映画にも出てるから、この国は終わってるわけじゃない。いつもそんなふうに思ってほっとしていた。

 だけど、その木内さんがもういない。いつも私たちを励まし、応援してくれた木内さんがもういない。

 本当に本当に、カッコいい人だった。一人の大人として、「おかしいと思ったことには立場も何もかも超えてちゃんと声を上げる」という姿に、いつも勇気をもらっていた。突然の訃報に触れた時、こうなることがわかっていたから後悔のないように生きていたのかな、なんてふと思ったりもした。

 でも、もっともっといろんなデモや集会や選挙運動でご一緒したかった。これからの、れいわ新選組をはじめとする野党の闘いを、もっともっと一緒に支えたかった。

 木内さん、本当にありがとうございました。木内さん以上に「声を上げる大人」でい続けようと、今、改めて思っている。

夏の参院選。選挙最終日、新宿の街宣で司会をした木内みどりさんと

雨宮処凛
あまみや・かりん:1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)、『自己責任社会の歩き方 生きるに値する世界のために』(七つ森書館)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。