第99回:またこういう文章を書かなければならないことが、とても悲しい。 中村哲さんの思い出。(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 つい最近、木内みどりさんへのお別れをこのコラムで書いたばかりなのに、今度は、中村哲さんにさよならを言わなければならない。こころの底から、淋しいなあ…。
 ぼくは、中村さんとは知り合いというほどではなかったが、2度、インタビューでお目にかかっている。古い手帳を探してみた。

 2008年2月13日、東京ドームホテルで、初めて中村哲さんにお会いした。そのインタビューが「マガジン9・この人に聞きたい・中村哲さんに聞いた」(同年4月30日掲載)である。
 そして2度目は、同じ年の5月31日に、雑誌「通販生活」(カタログハウス)の依頼でのインタビューだった。カタログハウスの社屋のそばのレストランで、遅めの昼食をとりながらのインタビューだったと思う。

 ぼくがお会いしたのはこの2回だけだけれど、中村さんの印象は、深くぼくのこころに刻み込まれている。言葉をひとつひとつ選びながら、とても丁寧にお話しなさる方だった。そしてときおり、美しいと言っていいような笑顔を見せた。
 井戸掘りや灌漑用堰造りで真っ黒に日焼けした顔に、その笑顔はとてもよく似合った。
 2回とも、2時間ほどのインタビューだったけれど、あの笑顔は、ぼくにとっては忘れられるものではない。その笑顔にもう会えないと思うと、やっぱり胸がしめつけられるのだ。

 中村さんのことを調べようと、ぼくの新聞や雑誌の切り抜きファイルをめくってみた。すると最近の朝日新聞(今年10月10日付)に「中村哲医師、アフガン名誉市民」というタイトルの小さな記事を見つけた。

 アフガニスタンで医療や灌漑(かんがい)、農業支援に取り組むNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で、医師の中村哲さん(73)が30年以上の活動を認められ、同国の名誉市民権を授与された。同会が9日に明らかにした。
 中村さんから同会に入った連絡によると、現地での活動を一緒に担う「ピース・ジャパン・メディカル・サービス」のジア・ウルラフマン医師とともに大統領官邸に招かれ、ガニ大統領から市民証を手渡されたという。
 中村さんは同会を通じて「わたし一人ではなく、長年にわたる日本側の支援、現地のアフガン職員、地域の指導者による協力の成果だ。私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う」などとするコメントを発表した。

 以上が記事の全文である。
 この報道のたった数週間後の悲報。なぜこんなことになってしまったのだろう。記事にあるように、中村さんはアフガニスタンにとっても宝物のような存在だった。
 現地での葬儀には、アフガンのガニ大統領も参列し、中村さんの棺を直接担いだという。それほど中村さんの死は、アフガンの人たちにとっても、切なく悲しい出来事だったのだ。
 ぼくはもう淋しくて、書く気力もあまり湧いてこない。ただ、上記にリンクを貼ったインタビューを読んでほしいだけだ。

 でも、「結局、憲法9条は中村さんを守ってくれなかったじゃないか」などという、それこそ“人でなし”のツイートを見ると、ぼくは殴りつけてやりたい感情を抑えきれなくなる………。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。