つい最近、木内みどりさんへのお別れをこのコラムで書いたばかりなのに、今度は、中村哲さんにさよならを言わなければならない。こころの底から、淋しいなあ…。
ぼくは、中村さんとは知り合いというほどではなかったが、2度、インタビューでお目にかかっている。古い手帳を探してみた。
2008年2月13日、東京ドームホテルで、初めて中村哲さんにお会いした。そのインタビューが「マガジン9・この人に聞きたい・中村哲さんに聞いた」(同年4月30日掲載)である。
そして2度目は、同じ年の5月31日に、雑誌「通販生活」(カタログハウス)の依頼でのインタビューだった。カタログハウスの社屋のそばのレストランで、遅めの昼食をとりながらのインタビューだったと思う。
ぼくがお会いしたのはこの2回だけだけれど、中村さんの印象は、深くぼくのこころに刻み込まれている。言葉をひとつひとつ選びながら、とても丁寧にお話しなさる方だった。そしてときおり、美しいと言っていいような笑顔を見せた。
井戸掘りや灌漑用堰造りで真っ黒に日焼けした顔に、その笑顔はとてもよく似合った。
2回とも、2時間ほどのインタビューだったけれど、あの笑顔は、ぼくにとっては忘れられるものではない。その笑顔にもう会えないと思うと、やっぱり胸がしめつけられるのだ。
中村さんのことを調べようと、ぼくの新聞や雑誌の切り抜きファイルをめくってみた。すると最近の朝日新聞(今年10月10日付)に「中村哲医師、アフガン名誉市民」というタイトルの小さな記事を見つけた。
アフガニスタンで医療や灌漑(かんがい)、農業支援に取り組むNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で、医師の中村哲さん(73)が30年以上の活動を認められ、同国の名誉市民権を授与された。同会が9日に明らかにした。
中村さんから同会に入った連絡によると、現地での活動を一緒に担う「ピース・ジャパン・メディカル・サービス」のジア・ウルラフマン医師とともに大統領官邸に招かれ、ガニ大統領から市民証を手渡されたという。
中村さんは同会を通じて「わたし一人ではなく、長年にわたる日本側の支援、現地のアフガン職員、地域の指導者による協力の成果だ。私たちの試みが多くの人々に希望を与え、少しでも悲劇を緩和し、より大きな規模で国土の回復が行われることを願う」などとするコメントを発表した。
以上が記事の全文である。
この報道のたった数週間後の悲報。なぜこんなことになってしまったのだろう。記事にあるように、中村さんはアフガニスタンにとっても宝物のような存在だった。
現地での葬儀には、アフガンのガニ大統領も参列し、中村さんの棺を直接担いだという。それほど中村さんの死は、アフガンの人たちにとっても、切なく悲しい出来事だったのだ。
ぼくはもう淋しくて、書く気力もあまり湧いてこない。ただ、上記にリンクを貼ったインタビューを読んでほしいだけだ。
でも、「結局、憲法9条は中村さんを守ってくれなかったじゃないか」などという、それこそ“人でなし”のツイートを見ると、ぼくは殴りつけてやりたい感情を抑えきれなくなる………。