寺脇研さん×前川喜平さん:教育基本法改正、脱ゆとり教育、道徳教育…今、日本の「教育」はどうなっているのか

「教育の憲法」とも位置づけられ、この国の教育のあり方を定める「教育基本法」が、多くの反対の声を押し切る形で「改正」されてから13年あまり。この間、小中学校での道徳教育「教科化」をはじめ、教育の現場ではさまざまな変化が起こってきました。学校での授業内容や講師の選定に政治家が口を挟むなど、政治による介入の事例も目立ちます。
いま、日本の教育はどうなっているのか。いじめ、貧困、暴力など、さまざまな社会の「闇」に翻弄される子どもたちの姿を描いた映画『子どもたちをよろしく』(隅田靖監督)の公開にあわせ、映画の共同企画者であり、ともに文部省・文科省官僚として長年教育行政に携わった前川喜平さん、寺脇研さんのお二人に対談いただきました。

政治の教育現場への介入を許しやすくなった「教育基本法改正」

──2006年の教育基本法(教基法)改正は、その後の学校教育に大きな影響を与えたといわれています。前川さんは、文科省でまさにその渦中におられたわけですが、今振り返ってあの「改正」をどう思われていますか。後に「やりたくない仕事」だった、とも発言されていましたが……。

前川 あの教基法改正は、非常に政治的な思惑から出てきたものだったと思っています。
 もちろん、その後中央教育審議会などでかなり時間をかけて議論をしたこともあって、その「思惑」がすべて通ったわけではありません。前文にあった「個人の尊厳を重んじ」「憲法の精神にのっとり」、あるいは第2条の「学問の自由を尊重し」といった重要な言葉が改正後もそのまま引き継がれているなど、日本国憲法の精神に基づいてつくられていた旧教基法の、一番の「柱」の部分はかろうじて残ったと言っていいでしょう。また、生涯学習についての規定が盛り込まれたこと、学校と家庭、地域社会の連携の重要性が書き込まれたことなど、いい方向に変わった部分もあったと考えています。
 しかし一方で、もともと改正を言い出した人たちの思惑──道徳心や規律、愛国心といったものを強調しようとする考えも、かなり盛り込まれてしまった。それが、その後の学校教育に大きな影響を与えていることも事実だと思います。

──具体的には、どのあたりでしょうか。

前川 まず、第2条では「教育の目標」という条文がつくられ、その中に「道徳心」「公共の精神」「我が国と郷土を愛する態度」といった言葉が直接的に盛り込まれています。
 それだけではありません。たとえば、改正前第10条の「教育行政」(改正後は第16条)。この冒頭の「教育は、不当な支配に服することなく(行われなくてはならない)」という言葉について、教基法が最初に成立した1947年の帝国議会で「『不当な支配』とはどういうものを指すのか」という質問が出たことがあります。これに対して当時の文部省は「官僚や一部の政党の干渉」である、と明確に答えていました。権力が教育の現場に介入することへの警戒を込めた条文であると明言したわけですね。
 この「不当な支配に服することなく」という言葉自体は、改正後も変わらず残っていて、それは非常によかったと思っています。ところが、その後に続いていた「(教育は)国民全体に対し直接に責任を負って」行われるべきものである、という文章がばっさり削られ「この法律及び他の法律の定めるところにより」行われるべきものである、と変えられてしまった。これでは、法律さえつくれば政治的な介入が可能になる、とも読めてしまう。その意味で、教育への政治の介入を許しやすくなった面があると思います。

改正前
第10条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

改正後
(教育行政)
第16条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適切に行われなければならない。

 また、第6条の「学校生活」のところに、「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を」重んじなくてはならない、という言葉が入ったこと。これは、学校はもっと校則を厳しくして子どもたちを統制すべきだと考える人たちを勢いづけたと思います。実際に、この10年ほどで学校の校則が非常に厳しくなって、子どもたちの行動を画一化させようとする風潮が非常に強まったと感じますね。
 つまり、根本であるもっとも大事な理念は「焼け跡に焼け残って立つ柱」のように残ってはいるものの、そこに「道徳心」「国を愛する態度」「規律」「公共の精神」といった言葉がまぶされていて、それを利用して「だからちゃんと愛国心教育をやれ」とか「道徳教育をやれ」と強要しようとする人たちがいる。それが、教育基本法をめぐる状況だと思います。

──教基法改正を機に、日本国憲法下で否定されたはずの「教育勅語」を復権しようとする動きも強まりました。

前川 第一次安倍政権では「教育再生会議」、第二次安倍政権では「教育再生実行会議」という諮問機関がそれぞれ設置されましたが、「再生」というのは、以前は生きていたけれど今は死んでいるものをもう一度生き返らせるということですよね。では何を生き返らせるのかといったら、やっぱり「教育勅語」的なことなんだと思います。
 2014年に参院文教科学委員会で、当時みんなの党にいた和田政宗議員(現在は自民党)が「教育勅語を学校の教材として使うべきだと思うがどう考えるか」という質問をしたことがあります。当時文科省の初等中等教育局長だった私が答弁することになり、私は「教育勅語は戦後、教育の理念を表すものとしては廃止されたものであり、教材として使うことは適切ではない」という、従来の政府の方針どおりの答弁を作成しました。ところが、それを下村博文文科大臣(当時)に見せたところ、「これはダメだ」と言って書き換えさせられたんです。「教育勅語の中には、今でも通用する普遍的な内容が含まれているので、そこに着目して学校の教材として使うことは差し支えない」という内容でした。
 私はそのとおりには読まず、ちょっとごまかすような言い方で答弁に立ったのですが、最終的には下村大臣自身が手を挙げて「学校の教材として使うことは差し支えない」と発言しました。さらに、そこから3年後の2017年には、「憲法や教育基本法に反しない範囲なら教育勅語を学校で使うことは問題ない」という閣議決定もされましたよね。
 私は、どう考えても教育勅語というのは上から下まで憲法にも、教基法にも反していると思うのですが……やはり、教基法改正をやりたかった人たちの意図は、そのあたりにあったのだと思います。

「いじめ問題」が、道徳教育教科化の口実にされた

寺脇 今、教基法の改正によって「政治の介入を許しやすくなった」という話が出たけれど、その意味で象徴的なのが2011年の大津いじめ自殺事件(※)ですよね。あの事件の後、こんな事件が起こるのはとにかく学校が、教育委員会が悪いんだ、という論調が強まって、「だから教育委員会は自治体の首長の指示に従うべきだ」という話になった。一時は、教育委員会を廃止すべきだという動きにまでなってきていましたよね。

※大津いじめ自殺事件…2011年10月、滋賀県大津市内の中学校に通っていた2年生の男子生徒が自死した事件。生徒が同級生からのいじめを受けていたこと、学校もその相談を受けていながら当初は隠蔽していたことなどが報道され、社会問題化した。

前川 あの事件があった少し後に、第二次安倍政権が成立しました。そして、そこで設置された「教育再生実行会議」が、事件を口実にして「教育委員会制度の解体」という提言を出したんです。最終的には解体にまでは至りませんでしたが、とにかく教育行政を首長の監督の下に置けという内容でした。

寺脇 本来は、ああいう事件があったからといって「全部学校が悪い」なんて簡単には言えないはずなんです。もちろん、学校の責任は厳しく問われるべきですが、同時に家庭や地域社会など、他の要素についても考える必要がある。そこをすべて「学校のせい」にすることで、学校を国家権力が支配しようとする動きにつなげたわけです。
 同時に中央では、やはりこの事件をきっかけに「道徳教育の教科化」という話が出てきました。その意味でも、非常に政治利用された事件だったと思います。

前川 「道徳教育の教科化」は、教育再生実行会議のもう一つの提言ですね。
 道徳教育もやり方によってはいじめ防止に役立つかもしれないとは私も思うのですが、今使われている道徳の教科書に載っているのは「本当にこれでいじめがなくなると思っているのか」というような内容ばかりです。寺脇さんも『危ない「道徳教科書」』という本を書かれていますよね。
 とにかく、自己抑制や自己犠牲が強調され、自分らしさを伸ばしていってはいけないという論調が強いんです。たとえば『かぼちゃのつる』という話。かぼちゃがどんどんつるを伸ばしていくんですが、自分の畑を越えて隣の畑にまで伸びていったので、他の作物や虫に注意される。それでもかぼちゃは「何が悪いんだ」と伸び続け、最後は道路にはみ出したつるが走ってきたトラックに踏まれてちぎれてしまう。それでかぼちゃは「痛い痛い」と泣く……。
 つまり、思うとおりに伸びていったら最後は痛い目に遭うんだぞ、という話なんです。こういうことを教えて、いじめをなくせるとでもいうのでしょうか。むしろいじめ問題が、こうした「自己抑制」の道徳教育を押しつける口実にされてしまっていると感じます。

──先ほどのお話にあった、改正後の教基法で「規律」や「公共の精神」が非常に強調されているという話ともつながりますね。

前川 道徳教育の話だけではなく、学校全体がこの数年でとみに「軍隊化」していると感じます。小中学校における不登校児の数がずっと増加してきているのも、その反映ではないでしょうか。学校が相当、子どもたちにとって居心地のよくない場所になってきているのではないかと思います。

寺脇 そう思います。ただ、学校に行かない子どもが増えているのは、前川さんも成立に関与した「教育機会均等法」(※)の影響もあるのではないかと思うけれど。

※教育機会均等法……正式名称は「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」。超党派の議員立法により、民間のフリースクールや公立の教育支援センターなど、学校以外の教育機会の確保を国と自治体の責務とし、必要な財政支援や情報提供に努めるよう求めている。

前川 子どもたちに無理に学校に行けというのではなく、フリースクールなど学校外の学びの場を正面から認めて、国や自治体がそちらを支援するように定めた法律ですね。それはたしかにあるかもしれません。我慢して学校に行くよりも、他の場所で学ぶという……。僕も、講演などの機会があるたびに「死にたくなるような思いをするくらいなら、学校には行かなくていいよ」と言っています。

「脱ゆとり教育」で、読解力が低下した?

──寺脇さんが文科省時代に推進されていた「ゆとり教育」では、土曜は学校を休みにする「学校週5日制」も導入されました。しかしその後、「学力低下」などが問題視されてゆとり教育への批判が強まり、「脱ゆとり教育」の動きが強まるとともに、土曜授業を復活させる学校も増えているようです。

寺脇 週5日制が導入された背景には、子どもの居場所が学校と家庭だけになってしまっている、特に学校のウエイトが非常に大きくなりすぎているという状況がありました。そこで土曜日を休みにすることで、家庭での時間を増やすと同時に、子どもが学校以外の地域社会で活動できる時間をつくっていこうというのが狙いだったんです。
 たとえば学校でいじめなど嫌なことがあったとしても、地域社会に自分の居場所があれば、耐えられる場合もあるかもしれない。学校という同年齢集団の中ではうまくやっていけなくても、たとえば地域では子ども祭りのリーダーとして小学生や幼児の面倒を見るといった場面があれば、自己回復できるかもしれませんよね。
 週末は部活も完全オフにして、学校のことを全部忘れちゃうくらいがいいと思うんです。それなのに最近は「学力が下がるから」とかいって、また土曜日も学校に連れ出そうとしている。それじゃ子どもも、頭を切り換えられませんよ。

前川 あの「学力低下論」というのは、本当に間違った前提に立っていると思います。授業時間を増やせば学力が上がる、減らせば下がる、ということですよね。それで学習指導要領の改訂のたびに授業時数が増やされるようなことが続いてきたわけです。
 ところが実際はどうか。OECD(経済開発協力機構)が3年ごとに実施している「学習到達度調査(PISA)」という調査があります。加盟国の15歳児の持っている知識や技能を「科学的リテラシー」「数学的リテラシー」「読解力」の3分野に分けて調査するものなんですが、2012年のPISAでは日本は、科学的リテラシーが加盟国中1位、数学的リテラシーも2位、さらに読解力も1位という素晴らしくいい成績だったんです。ところが、実はこのPISAを受けた子たちというのは、その前年まで中学生だった、ゆとり教育で一番授業時数が少ない時期に教育を受けた子どもたちだったんですね。
 その後、脱ゆとり教育で授業時数が増やされていくわけですが、それと並行して「読解力」の成績が下がっていくんですよ。科学的・数学的リテラシーはそれほど変化がないのですが、読解力は2015年で加盟国中6位、2018年は11位にまで落ちています。
 文科省はいろいろ理由付けをしようとしていますが、見方によっては「ゆとり教育によって読解力が上がり、脱ゆとり教育で下がった」ともいえます。もちろん、厳密に実証できるわけではありませんが、少なくともPISAを見る限り、ゆとり教育で子どもたちの学力が下がったという事実はないといえるでしょう。

寺脇 ゆとり教育の根本には、ただ知識を詰め込むだけではなくて、子どもたちも自分なりの考えを持っていいんだ、表明していいんだという考え方がありますからね。読解力が上がっても不思議ではないと思います。

前川 授業時間が減ったことによる「ゆとり」の分で、いろんな体験をしたり、自分で調べたりすることによって、自ら学ぶ力を身に付けていくということですよね。そういう機会がないと、自分で考えることのできない人間になっていく。政治や社会に対しても、きちんとおかしいことはおかしいといって批判できる力は、十分なゆとりがないと養えないと思います。

寺脇 だから、権力側からしたらゆとり教育というのはあまり面白くないでしょうね(笑)。

数字では計れない大切なものがある

寺脇 あともう一つ、学校5日制には、子どもが「これだったら自分は負けない」という承認を得られる機会をつくるという狙いもあったんです。学校では成績など、学校的価値観の中でしか承認を得られない。学校以外で過ごす時間を増やして、「あなたは勉強は苦手だけど、小さい子の面倒を見るのは得意だよね」とか「お年寄りに優しくできるのがいいよね」とか、違う面を認めてもらえる場があるべきだと思うんです。

前川 そうですよね。ところが実際には、2007年から始まった「全国学力テスト」などによって、ペーパーテストの点数ばかりが重視されるようになっている。人間がもつ様々な価値の中の「学力」という部分の、さらにその中のペーパーテストで測れる部分だけが評価されて、トータルな「人間」は置き去りにされているわけです。
 さらには、その学力テストの結果によって、学校や教師までもが評価されてしまう。大阪市では、学力テストの成績をその学校の校長や教員のボーナス額に反映するという方針まで示されました。そうなれば、必死でペーパーテストの点数ばかりを上げようとする教員も当然出てきますよ。そこにばかり精力が注ぎ込まれて、全体がいびつになっていくのは目に見えています。

寺脇 かつて、日本の学校現場はとにかく「偏差値主義」で、中学校の業者テストの偏差値ですべてが無理矢理決められてしまうようなやり方が跋扈していました。それが1994年ごろから少し変わってきて、あまり数字にとらわれなくなった。……と思っていたら、今度は学力テストという「数字」が出てきて、中学校だけではなく小学校まで巻き込んでしまったという図式ですね。
 そうして数字ですべてを決めようとする「数字主義」というのは、結局は経済主義なんですよね。本質を見ずに、株価の上下だけに一喜一憂するような姿勢がそこにあるんだと思います。

前川 数字で示せるものだけを頼りにしてしまうんですね。でも本来は、数字にならない大切なものだってあるはずなんです。
 そうした状況の陰で、さまざまな理由で生きづらい境遇にいる子どもたちが、放置されたままになっている。子どもだけではなく、大人だって高齢者や障害者、あるいは貧困に苦しんでいる人など、つらい思いをしている人がたくさんいるのに、そこには見向きもされないのが、今の日本だと思います。教育の場のみならずあらゆる場面で、人よりも国が大事にされる「ネオ富国強兵」政策が進められているといえるのではないでしょうか。

(構成/仲藤里美、写真/マガジン9編集部)

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対談では、主に教育行政の問題点について語っていただきました。一方、お二人が共同企画された映画『子どもたちをよろしく』では、家庭や地域社会など、学校以外の場所でのさまざまなひずみが子どもたちを追いつめていく様子が描かれています。「映画館での上映だけでなく、さまざまな場で自主上映会などを開いてもらえたらうれしい」とのことです。

『子どもたちをよろしく』(隅田靖監督)全国公開中

北関東のとある街。デリヘルで働く優樹菜(鎌滝えり)は、実の母親・妙子(有森也実)と義父・辰郎(村上淳)、そして辰郎の連れ子・稔(杉田雷麟)との四人家族。辰郎は酔って暴力を繰り返し、妙子はそれに見て見ぬふりを続ける。
一方、優樹菜が働くデリヘルの運転手・貞夫(川瀬陽太)はギャンブル依存症。妻が家出した後、一人息子の洋一(椿三期)のこともほったらかし。同じ中学に通う稔と洋一は以前は仲の良い友人だったが、今は稔のグループが洋一をいじめの標的にしている。ある日、ふとしたことから姉の仕事を知った稔は、自分もいじめられる側になるのではないかと怯えるようになり……。

公式サイト:http://kodomoyoroshiku.com/

てらわき・けん 1952年生まれ。元文部官僚。京都造形芸術大学客員教授。映画評論家。映画プロデューサー。官僚時代は「ゆとり教育」の旗ふり役として「ミスター文部省」と呼ばれた。退官後もNPO法人カタリバが設置する学びの場「カタリバ大学」の学長を務め、民間の教育者の立場から発言や著作を続けている。映画プロデューサーとしても『戦争と一人の女』(井上淳一監督)を皮切りに『バット・オンリー・ラヴ』(佐野和宏監督)を制作。

まえかわ・きへい 1955年、奈良県生まれ。東京大学法学部卒業後、79年、文部省(現・文部科学省)入省。文部大臣秘書官、初等中等教育局財務課長、官房長、初等中等教育局長、文部科学審議官を経て2016年、文部科学事務次官。翌年、同省の天下り問題の責任をとって退官。現在は自主夜間中学のスタッフとして活動する傍ら、執筆活動などを行う。

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