第513回:新型コロナウイルスと「非国民」バッシング、そして持つ者と持たざる者。の巻(雨宮処凛)

 新型コロナウイルスで世界が大変なことになっている。

 日本でもコンサートが中止になったりイベントが延期になったりスポーツの試合が無観客になったり学校の休校が突然発表されたりしている。

 「不要不急」ではないからとイベントなどの中止を要請される側からは多くの悲鳴が上がっている。観客にとっては「楽しみ」「遊び」であるイベントだが、それが「仕事」である人たちにとってはたまったものではないだろう。出演者はもちろん、スタッフやイベンターやその他もろもろの人が、その仕事で生活している。大規模なものであればあるほど、いろんな職種の人たちがそれを裏で支えている。一度のイベントの中止を受けて「倒産の危機」を迎えたり「今後の活動継続」が危ぶまれたりしている人たちもいる。が、補償などについては今のところ不透明だ。

 私自身も、2月や3月に予定されていた講演やイベントが続々と中止になっている。企画されていたものも軒並み「収束するまで待ちましょう」と日程を決めることもできない。これらの現実は、フリーランスの私には、かなり痛い。なぜなら、それらは貴重な収入源だからだ。出版不況と言われる中、雑誌は次々と廃刊し、ネット媒体で書くことも多くなり、自分自身の実感で言うと原稿料は下がり続けている。そんな中、イベントや講演が収入に占める割合は大きい。それが軒並み中止でなんの補償もないのだから、はっきり言って相当痛い。

 コロナウイルスがまだ今ほど感染拡大していなかった初期の頃は、「こういう事態ですが中止にはしません」というイベントがいくつかあって、内心「助かった」と思っていた。しかし、連日の報道を見ていてどんどん不安になってきた。コロナウイルスそのものへの不安もある。だけどそれより大きかったのは「中止にしないと非国民扱いされるのでは」「めちゃくちゃバッシングされて再起不能なほど叩かれるのでは」という不安だ。

 結局、私の出演予定だったものはすべて中止、延期、もしくは無観客となったが、そんな経験を通して思い出したのは3・11だ。

 東日本大震災のあと、東京に住む私の日常のすぐそばにあったのは、飲みに行ったり楽しんだりというような行動をすると「非国民扱いされる」ような空気だった。脱原発デモが批判されることもままあった。「デモなんかする暇あったら被災地にボランティアに行け」という批判。実際、デモを主催したり参加したりしている人の中には被災地ボランティアに行く人も多かったのだが、そんなバッシングをよく受けた。また、直接的な被害を受けていない東京でも、当時は「震災切り」のような解雇が相次いでいた。震災による業績悪化を理由に派遣切りなどが横行していたのだ。それに対して声を上げた人に「被災もしてない奴が失業くらいでガタガタ言うな」と口を塞がれるような光景を何度も目にした。

 その後の電力不足の時も似たようなことがあった。冬、電力危機で節電が奨励された時期のこと。みんなで節電して乗り切ろう、という空気がこの国を覆っていた。陽当たりのいいタワマン上階なんかに住む人たちは、昼は暖房をつけずに過ごしたことをSNSなどで発信していた。一方、昼間でも電気をつけなきゃ薄暗い、陽当たりゼロのアパート1階なんかに住む人が、昼に電気をつけていることを諫められる、なんて光景もあった。

 それはそのまま、この国の格差を象徴するような光景だった。

 日差しが降り注ぐタワマンと、年中じめじめして薄暗いアパート。そして貧しい後者の方がよりかかる電気代。夏だってそうだ。アスファルトの熱と住宅密集地にこもるエアコンの排気熱。窓を開けても風が通り抜けるどころか熱風に晒される後者の方がエアコンの稼働率は高いだろう。

 非常時には、格差がむき出しになる。持つ者と持たざる者の差が歴然と開く。そして、「国民一丸となって乗り切ろう」みたいな時に、様々な事情からその「一丸」に加われないとたちまち「非国民」扱いされ、糾弾される。

 そうして今回の「休校」では、またひとつ、格差が剥き出しとなった。子どもの世話をしてくれる親が近くにいる人や、お金を払ってプロに頼める人がいる一方で、自分が働かなければたちまち生活が破綻する母子家庭がある。

 そうしてコロナウイルスで仕事が流れても、貯金があって大して痛くない人もいれば、蓄えなどまったくない人もいる。また、完全歩合制の私のようなフリーランスもいれば、出勤しなければ1円にもならない非正規もいる。このような、貯蓄や「助けてくれる人間関係」などを総合して湯浅誠氏は「溜め」と言ったが、まさに「溜め」のあるなしが今、残酷なほどに分かれている。

 そして今の悲劇は、日本で一番くらいに「溜め」がある人が政策を決めているということだ。

 彼らはおそらく、子どもがいる世帯には専業主婦、もしくは家政婦やシッターがいると思っているのだろう。彼らの生きてきた世界ではそれが当たり前なのだから。そんな彼らは果たして、満員電車に乗ったことなどあるのだろうか? ライブやイベントは続々と中止され、学校は休校になりながらも満員電車が走り続けていることに疑問の声を上げる人は多い。が、満員電車と一生縁のない人が、現在の危機的状況の中、あらゆる決定権を握っている。

 それだけではない。麻生財務大臣は2月28日、休校中の学童保育の費用負担について記者に問われ、「つまんないこと聞くねぇ」と発言。そう、つまらないことなんだろう、彼らにとっては。「そんなはした金」なのだろう。人々の死活問題が何かもわからない人が、この国の政策を決めている悲劇。新型コロナウイルスは、日々、それを残酷なほどに露呈させている。そんな中、今まで決して政権批判などしなかったような人々までもが政府への怒りを口にし、SNSに投稿するようになっている。毎日「え、この人が?」と驚かされている。それほどに、無策さが際立っているのだろう。

 さて、2月25日、加藤厚労大臣は「みなさまが一丸となってこの新型コロナウイルスに立ち向かっていく」などと発言、「戦時中かよ」と批判されたが、みんなが一丸となるどころか、この騒動に便乗して分断や排除を煽るような動きが一部にあることが非常に気になる。例えば2月20日には、中国人の来日を拒むビラを電柱に貼ったとして旭化成の課長が逮捕された。また2月29日には、新型コロナウイルス流行を口実に、銀座で中国人を排斥するデモが開催されている。コロナに便乗するようにして顔を出す排外主義。

 一方、数日前からスーパーに行ってもトイレットペーパーなどを見かけなくなった。なくなることはないと言われながらもあちこちで「自分だけは」と買い占めが起きている。それだけではない。電車の中で咳でもしようものなら突き刺さるような視線に晒される。コロナが問題となってから、私は電車に乗るのが怖くなった。コロナウイルスが怖いのではない。自分ではなくとも誰かが咳をするたびに凍りつくような空気や苛立ったような舌打ちが怖いのだ。実際、北九州では乗客が咳をしていたという理由で電車の緊急停止ボタンが押された。誰かが「ウイルス」扱いされ、非難の目を向けられる。誰かを「バイキン」扱いする子どものいじめの構図にそっくりだ。もちろん、自分の身を守ることは大切だ。しかし、それを理由に行き過ぎた防衛、排除が大手を振っている気がしてならないのだ。誰かを吊るし上げる口実を常に探しているようなこの国の空気が、怖い。

 この騒動の中、大切なものを決して見失わないようにしようと自分に言い聞かせている。一方、心配なのは、あと一ヶ月もしたら、生活困窮者支援団体の相談窓口はコロナによる失業者や仕事が流れた自営業者たちでパンクするのでは、ということだ。

 ほんの少し前までの日常が、異様に恋しい。

       

雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。格差・貧困問題、脱原発運動にも取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『ロスジェネのすべて』(あけび書房)、『相模原事件裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)。「反貧困ネットワーク」世話人、「週刊金曜日」編集委員、フリーター全般労働組合組合員。