第112回:みんなで渡れば怖くない?(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

この時期に大集合の場所が

 えっ? テレビのニュースを見ていて目を疑った。
 新型コロナウイルスでどこもガラガラのこの時期に、ものすごい数の人たちが詰めかけている場所があったのだ。
 3月14日、東京の山手線に49年ぶりの新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業ということで、なんと数千人もの人たちが押し寄せた。
 すごいなあ……。
 最終的に何万人が集まったのかは知らないけれど、開業記念の当日印が入った切符を買うのに長蛇の列。「こちらが最後尾」というプラカードをもった係員は、いささかうんざり顔。
 夜10時を過ぎるころには「もうここから後は、日付が14日分の切符はありません。この先は15日になってしまいます」と言われて、残念そうに帰っていく人たちもいたほどだった。
 ビートたけしに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という秀逸なギャグがあったけれど、さすがにこれは新型コロナウイルスには通じないギャグだろう。ウイルスは逆に、“みんな”が多ければ多いほど、喜んで感染させまくるわけだから。
 それにしてもこの時期、わざわざ大勢の人たちが集まるようなシチュエーションを作るJR東日本にも呆れてしまう。
 鉄道ファンが多いのは分かっているわけだから、イベントを開けば大人数が殺到するのは当たり前だ。開業セレモニーをいま開かなければならない理由がどこにあるというのだろう。

 ぼくは「〇〇人論」というヤツには懐疑的だ。韓国人とはこうだとか、中国人はああだとか、最後に差別に行き着くような論は、だいたいがヘリクツの塊なのだ。まあ、ギャグとして受け取れば面白いものもあるけれど。
 だけど、この「新駅開業騒ぎ」のニュースを見ていて、なんだかなあ…と、ぼくも含めた日本人について考えざるを得なかった。
 記念の証拠(切符)を入手したいという気持ちは分かる。しかし、不特定多数の集合には疑問符がつく時期に、これほどの人間が無防備に集まったという事実に、いささかたじろいだのだ。
 世界各国のニュースを見ていると、多数の人間が集まらざるを得ないときには、前後左右の幅を1メートル以上は空けておくとか、それぞれに工夫をしているようだ。だが、このイベントでは、ほぼ密集状態。すし詰めになって乗車券を求め、電車の発着の撮影に懸命だった。
 いかに「密室」ではなかったとはいえ、もしこの人混みの中に新型コロナウイルス感染者がいたとしたら、どうなっただろうか?

国家イベントと民間イベントの違い

 安倍政権は、「不要不急の外出を控えるように」「学校は休校に」「ライブハウス等のイベントは自粛を」「スポーツ大会などには一考を要請」などと言っている。それは、不特定多数の密集を避けるためだろう。ならばなぜ、JR東日本の盛大なイベントに再考を要請しなかったのだろう? ぼくには、それが疑問だった。
 テレビに映し出される群衆を見て「あ、あんなに人が集まっている。ちょっと怖いけれど、大丈夫みたい。私も行ってみようかな。記念切符も欲しいし、歴史的イベントみたいだから…」と背中を押されて高輪ゲートウェイという新駅に赴いた人たちも多かったのではないか。
 それが「日本人論」に結びつくとは思わないけれど、ほんとうに「みんなで渡れば怖くない…」のだろうか。長いものには巻かれてばかりのこの国に、どんな「国民性」があるのだろう?

 すさまじい数の人たちが押し寄せる事態になることは分かっていたのだ。それに対し、JR側はどんな対策を立てていたのか。また、政府の感染症対策本部は、そういう状況になることに、何の危惧ももっていなかったのか。JRに対して中止要請などはしなかったのか。
 JRは、公共交通機関である。最近は台風などに対しては、計画運休などという事前の対策を立てることも多い。それなのに、今回は分かっていたはずの事態にきちんとした対策を立てていたとは到底思えない。
 政府もまたしかり、であった。これらの対応や様子をみていると、やはり政府の対応は、「後手後手に回っている」と批判されても仕方がないような気がする。
 JRは、元は「国鉄」であった。つまり国家の管轄下にあったのだ。JRとして民営化された後も、国土交通省とは深いかかわりがある。すなわち、国家と密接な関係を持つ特殊な会社なのだ。とすれば、政府が「イベント自粛」をJRに要請することになんの不思議もない。ところがそれをしなかった。なぜだろう?
 国家事業(に準じるイベント)は推し進めるが、民間にはイベント等の開催延期や中止の要請をする。どうもやることがおかしい。

オリンピック開催を再考せよ

 そんな政府だから「東京オリンピックは開催する」と繰り返すのも、当然なのだ。むろん、聖火リレーも強行するだろう。世界中が首をかしげても「国家の意地」にかけてランナーたちを走らせる。
 「国家」って、いったい何なんだ!?
 オリンピックについてはもう、「延期や中止も含めてきちんと検討する」と、責任ある機関が表明するべき時期に来ていると思う。そうしないと、ズルズルと経費は積み重なり、結局は損失が増えていくばかりだろう。撤退は早く決めれば、それだけ損失額を食い止められる。当たり前のこと、東京都もJOCも、ましてや安倍政権も、そんなことは先刻承知のはずだ。
 だが一度決めたことは、とにかく訂正も変更もしないのが安倍政権のやり方だ。今回は、そのやり方が完全に裏目に出ている。

 トランプ大統領までが「延期」を言い出したし、イタリアやスペインなどヨーロッパ各国での猛威はこれからが正念場だ。とてもオリンピックどころじゃない、というのが本音だろう。
 安倍政権はギリギリまで追いつめられてから、結局、五輪中止か延期を決めるしかなくなるだろう。
 「アンダーコントロール」という巨大な虚偽招致演説でむりやり持ってきた五輪のツケが回ってきたというべきか。それに対し、批判するどころか共犯者となってしまったマスメディアの自己批判など、さびしいけれど期待すべくもないのだろうな。

 困った国である。
 ほんとうに、なんだかなあ…である。
 ぼくは、「日本という国」について、考え込んでしまっている。

       

鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。