第100回:コロナ禍に屈せず~進化する辺野古の抵抗~(三上智恵)

 新型コロナウイルスの感染拡大が深刻な状況になっている沖縄では、今年は座り込みも集会も休止や縮小が相次いだ。
 
 特に辺野古のゲート前では、これまでは機動隊に抵抗する際に隣の人と手を組んでいたが、今はそれをせず、間隔をあけて座り、マスクをして大声を出さないなど工夫をしながら抵抗を続けてきた。しかし、それではコンクリート車や土砂の搬入を遅らせることすらできない。かといって座り込みの現場からクラスターを出すわけにもいかない。当初からお年寄りが多いゲート前では、高齢者はなるべく自宅にいていただくよう呼びかけたり、苦渋の選択で活動を休止したり、また再開したり、を繰り返した。しかし、その間も工事作業は止まらない。一日700台という容赦ない数のトラックがキャンプ・シュワブのゲートに飲み込まれていく状況が続いている。
 
 私個人としても、今年は取材も撮影もままならず、講演会やシンポジウムなどは軒並み中止で手も足も出ない閉塞感の中、焦りだけが増した年だった。焦りが無力感に退化する前にやはり現場に出なくちゃ、とは思うものの、少ない時は10人もいないというゲート前の様子を撮影してどうする? などと逡巡し、非常事態宣言後は文子おばあの家に行く以外は辺野古から遠ざかっていた。
 
 でも、どんなに少ない日も、ゲート前のテントはゼロ人にはならない。灯を消すまいと守ってくれている人たちがいる。もし仮に、感染を恐れてすべての人間が家に籠ってしまったら、誰も抵抗をしない世の中になってしまったら、権力者が暴政を強いても、税金を私物化しても、極論、すべて認めるしかないということになってしまう。いくら「こんな時に出歩くな」と家族に止められても、辺野古を留守にしてはいけないと早朝に家を出るお年寄りたちが、やっぱり辺野古の抵抗を支えて下さっているのだ。ならばその姿を撮りに行こうと、思い直してカメラを持って北に向かった。
 
 米軍は7月に沖縄で大クラスターを出し、ひんしゅくを買った。その後、キャンプ・シュワブでも感染者が出て、シュワブの兵士らはジョギングも辺野古の街中を避けているほどの気の使いようだという。ゲートの電光掲示板にはマスクの着用やソーシャルディスタンスを呼びかける文字と共に、「シュワブは辺野古の11班です」と表示される。辺野古区は10班で構成されているが、キャンプ・シュワブは通称11班ということで祭りや地元行事に参加している。その自覚を持ちましょうと呼びかけているのだ。感染者1000万人の米国と行き来しているというだけでも、恐怖の対象とみなされてしまう彼らも気の毒ではある。しかし、日本の検疫のチェックを受けない彼らの特権が招いた沖縄基地のクラスターは、米軍基地が沖縄の市民生活を脅かす構造的な問題の産物でもある。
 
 朝8時過ぎからゲートに集まり始めた人々は、全員マスク姿で、口数は少なめで、握手の代わりにげんこつをぶつけ合う。座る間隔もあけて密にならないようにしていたが、この日は木曜日で、先週から県議会議員団が来る日と決まったそうで、9時の搬入時には120人くらいに膨れ上がっていた。10人そこそこのコロナ渦中の座り込みを撮影するつもりが、当ては外れた。県民は決して基地建設を許していない、来られない人たちの分も頑張ろうという気迫がビンビン伝わってくる現場だった。
 
 徹底して抵抗してしまうと機動隊に担ぎ上げられ密着してしまうので、多くの人が警察に囲まれたら自分で立って歩いていた。機動隊の人たちに感染させるのも、させられるのも、避けなければならない。しかし、ひとり1分でも工事を遅らせて非暴力の抵抗をしようと通ってきているのに、おとなしく立ち去るのでは虚しさもあるだろう。それでも、これが2020年の辺野古の新ルールなのだ。機動隊員たちも、抵抗しきれない参加者を前にいつになく親切な印象だった。しかし文子おばあは、県議会議員の挨拶の間くらいマイクで話すのは止めたらどうね? と怒り心頭、「うるさいよ!」と怒鳴っていた。こんなに埋め立てが進んでいく状況を毎日、目の前で見ながら、心折れることなく意気盛んに抵抗する文子さんの姿に胸が熱くなった。ひるがえって私の心は、コロナに負けかけていたのか。おばあの勇姿を見て、思い知った。
 
 民宿「じゅごんの里」を辺野古の隣の瀬嵩集落に作って、基地建設に抵抗を始めた東恩納琢磨さんは、今は名護市議会議員を12年も務めてすっかり議員さんが板についたが、私が彼に出会った1996年、33歳の琢磨さんは建設作業員だった。キャンプ・シュワブの建設にも携わっていた。しかし、物心ついた時から泳いで遊んだ大浦湾を埋める計画が持ち上がった時から、彼は基地建設反対に転じた。そしてジュゴンの保護区を作ってジュゴンで地域おこしをすると宣言して活動をしてきた。
 
 私はずっとそんな琢磨さんを追いかけて、いくつものドキュメンタリーを作って来たので、琢磨さんに会うとこの25年の日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。ある時は一緒にジュゴンを探して、また新しいサンゴを見つけるために、どれだけ一緒に船に乗っただろう。やぐらの闘争の時は24時間船の上で監視に付き合い、一緒にカメラマン共々屋根のない船で眠った。今諦めたらこれまでの努力は何なの? ここはもっと豊かな地域になるんですよ、と口癖のように彼は言っていた。いつも、今が正念場だ、と言った。そして今回も、今ひらめいたように新鮮に同じことを言った。
 
 「勝てるんですよ。今諦めたらそれこそ終わりじゃないですか!」
 
 「追い詰められているのは政府のほうですよ。もう軟弱地盤に基地はできないってはっきりしたんですから!」
 
 「焦ってるのは政府のほうです」。この言葉は、1997年に辺野古のお年寄りの皆さんで結成した「命を守る会」のおばあたちの、決まり文句だった。泰然として、先祖が遺した土地と海を守るのは当然の務めだと座り込んだおじいおばあのいるこの地域で育った琢磨さん、58歳は、今ごく自然に同じセリフを口にしている。抵抗のDNAは着実に受け継がれていく。すでに鬼籍に入っている、名護市東海岸の「二見以北」と呼ばれる彼の生まれ育った地域のおじいおばあたちの顔が、琢磨さんに重なって見えた。
 
 「大事なのは勝つことではなくて、闘ったか、闘ってないか。子や孫のために闘ったという事実が、未来に残せる唯一の財産なんです」
 
 私はずっと、現場でよく耳にするこの言葉を反芻してこの20年生きてきたが、こうやって愛に満ちた遺産を受け取った人たちを、実際に目の当たりにするときに、この言葉の意味の深さを実感する。これは、私が沖縄に長く暮らさなければきっとわからなかった大事なことの、最たるもの。抑圧されて立ち上がらなければいけないという状況は不幸だが、不幸でしかない、わけではない。立ち上がる人々を目の当たりにしなければ学べない人間の尊厳がある。その守りかたを知る。それは誰にも奪われない、自分の財産になってゆくのだから。
 
 ところで、辺野古の埋め立てに使う土砂の7割は、当初県外から運び込む予定だった。しかし外来生物の問題、各地の抵抗、そして費用面の問題もあって、県内から調達する方向に変わった。奄美、宮古、石垣など離島と、うるま市の宮城島、糸満市の鉱山などが新たな採取地になる。ただでさえ過度な開発で環境破壊が進んでいく島々で、さらにガリガリと山を削って透き通る海を埋めるなんて、考えただけで胸が潰れる。しかも遺骨収集にあたって来た人々から強い反対の声が上がっている。
 
 沖縄本島南部の土はどこを掘っても沖縄戦の犠牲者の骨が出てくると言われるほど、ご遺骨を探して遺族に帰す作業はまだ途上にある。そんな死者の骨を溶かし切ってもいない、血を吸った土をダンプに載せて大浦湾に投下し、その上に米軍の基地を建てるなど、こんな不条理があってよいものなのか。そんなことを許していいのか。これは歴史的に罪深い、耐え難い凌辱だと私は思う。
 
 今現在も、辺野古に運び込む土砂を積んだ船が出る港で抵抗が続けられている。名護市の安和桟橋と本部町塩川の港、2カ所で「本部町島ぐるみ会議」の人々を中心に、日々小人数ながら抗議行動が行われているが、やがて糸満で、うるま市で、そして離島で、土砂搬出をゆるさない闘いが始まるだろう。すでにうるま市では、ここから土砂を辺野古に送らない、と与勝の交差点で街頭アピールに立っているという。各地の抵抗が本格化すると、直接辺野古に集まって止める人数は減ってしまうかもしれないが、各地の「島ぐるみ会議」の人々が中心になって地元の土砂を米軍基地建設に使わせない闘いが、同時進行で取り組まれるとしたら、これはこれで面白くなってきたなと私は思う。
 
 国頭の漁港が使われる時も、高江に向かう車が大宜味村を毎日通っていた時も、国頭や大宜味のお年寄りたちがまなじりを決して立ち上がり現場にやって来た。それを私はこの目で見ているので、宮城島で、糸満で、地域の人々が「辺野古までは行けないけれど、ここでなら頑張れる!」と立ち上がってくれるに違いない。例えば、自衛隊の弾薬庫の建設が進む宮古島の保良でも、石垣島のミサイル基地予定地でも、少人数の抵抗が続いている。毎日数百人が集まって全国の機動隊が押し寄せる抵抗を辺野古や高江で経験してきたが、人数が少ないなら少ないで、それなりのメリットもある。屈強な機動隊員に腕力を振るわれる機会も少ない。地域のお年寄りも参加しやすい。何より、遠い辺野古で起きていると思っていたことが自分の問題になる人々が増えていく。あちこちに「辺野古」ができる。本気で立ち上がる大人たちの姿を見る子どもが、今まで米軍基地がなかった地域にも増えていく。こうやって抵抗のDNAがONになった県民が増殖していくことに、政府は気づいているだろうか。
 
 沖縄の島々のあちらこちらに軍事要塞を築き上げてしまってから、「戦争反対」なんて唱えても遅すぎる。これから沖縄各地で、少人数で、コロナの中でも持続可能な形で同時多発的に抵抗が始まっていくのだろう。そしてコロナ終息を待って沖縄に駆け付けようという仲間は全国に、相当数いるのだ。だとすれば、「辺野古」の熱量は、下降線どころか相対的に膨らんで、進化しつつあるのかもしれない。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)