第1回:日本は「美しい豊かな国」ではなかったの⁉(小林美穂子)

今回から月1回ペースでの連載がスタートしました。執筆者の小林美穂子さんには、これまでにも何度か新型コロナウイルスの感染拡大により急増するSOSや支援現場での課題をマガジン9に寄稿していただいています。
しかし、生活に困窮している人、安心できる住まいを持てずにいる人は、コロナ禍の前から私たちの周りに存在していました。小林さんが活動する一般社団法人「つくろい東京ファンド」では、そうした人たちに、まず住まいを確保したうえで、生活を支える活動を続けています。この連載では、小林さんが日々SNSなどに綴ってきた記録などをもとに、相談者のとなりにいながら見えてきた景色、考えてきたことを伝えていただく予定です。

・過去記事はこちら
→緊急事態宣言からの同行支援日記
→コロナ禍で増加する相談者、ウソで追い返す福祉事務所
→百害あって一利なし、生活保護申請に伴うムダ作業「扶養照会」の弊害

日本社会に適応できず、飛び出した海外

 マガジン9にお集まりのみなさん、こんにちは!

 小林美穂子と申します。群馬県に生まれ、アフリカ、インドネシアで幼少期を過ごしました。

 持って生まれた性格か、幼少期の海外暮らしが原因したか、高校生あたりからうすうす「私は社会にうまく適応できていないのではないか」と感じるようになり、周囲のカラーに染まれない自分を異物のように思いはじめ、アホなりに悩み、その悩みを言語化することも、誰かに相談することもできず、そんな相手もおらず、外ではアホ全開に明るく過ごしながらも、常に不安感と孤独感を持て余しながら育ちました。

 クラスに友達もいたのに、夜になると暗い部屋で一人鏡に話しかけてるヤバイ時期もありましたが、よくよく考えれば、同級生たちもそれぞれみんな息苦しさを抱えながら、「クラス」という小さな社会からはみ出ないように細心の注意を払いながら、他者の反応に合わせて脚色したり調整されたりした「自分らしさ」の中を生きていたのではないかと振り返っています。

 学生時代に感じた「生きづらさ」「息苦しさ」は、時代背景は異なるものの、現在出会う行き場を失った若者たちに重なることがあります。

 成人して就職してからの私は、そんな息苦しさにいい加減に嫌気がさし、「この国が窮屈すぎるんじゃあ」と開き直り、お金を貯めて島国を飛び出していきました。日本はバブルのただなかにあり、生き方を選べる時代だったのです。

「なぜ、ミホコは自分が悪くないのに謝るんだい?」

 飛び出して行った先は、これまた小さい島国だったわけですが、海を越えただけでこんだけ違うんかい! と空に向かって叫び出したくなるほどに、全く異なる価値観の中で人々が暮らしていました。

 私はニュージーランドという自然が豊かな美しい国で、自分が自分のままでいることを許され、その後過ごすことになるマレーシアや上海でも、自分を縛っていた日本の価値観や常識に一つひとつ気づかされ、不必要だと思えばバサバサと切り落としていきました。

 それは例えば、インド系マレーシア人の同僚に不思議がられた「ミホコ、君は何で自分が悪くないのに謝るんだい?」であったり、「嬉しくないのになぜ笑う?」であったり、上海時代に語学を学んでいた大学で、20歳も年下のオランダ人やフランス人クラスメートに言われた「『自分は年寄りだから』って言うのやめて! 年齢はコンプレックスじゃない!」とか。

 関わるすべての人達が私の先生となり、私は多様な人々からさまざまな考えや価値観を学び、とりこみ、激しく細胞分裂を重ね、古い角質を落とすようにそれまでの常識を剥いでいきました。

 ところが、こうして海外のあちこちで日本人らしさを捨て去りながらのびのびと暮らしてきた私が、ふたたび「個」より「和」が優先されるジャパンに戻ってくることになってしいました。

 「気を付けろ! あいつに同調圧力は通じねぇ!」と存在を完全無視されるか、行く先々で吊るし上げを食らいまくって干し柿みたいになり、不本意にも渋が抜けて甘くなってしまうとか、ヌカと一緒に茹でられて「やめてぇっ、私の灰汁を抜かないで~!」と叫ぶ声が夜空に響きわたるとか、中途半端なリベラルに珍しがられた挙句にやっぱり嫌われるとか、とにかく日本における「異物」の運命は免れないかと思っていましたが、幸いにもそうはなりませんでした。なぜなら、私は「おばちゃん」になっていたからです。

 この国で権力を持たないのに一番自由でいられる唯一の身分は、「おばちゃん」なのではないでしょうか。もちろん、女性である不自由さは相変わらずながら、不自由を不自由とモノ言える歳に達してからの帰国だったため、私は自分にとって窮屈で、息苦しくて、狭くて、つまんない自分の国に無事にソフトランディングを果たすことができました。おばちゃん、万歳。

「どこの国の話?」と思った、年越し派遣村のニュース

 2008年~2009年の年末年始に行われた年越し派遣村(※)のニュースを、当時住んでいた上海で見たのが、私が日本の貧困に関心を持つようになった最初です。

 恥ずかしながらそれまで日本に貧困があることすら知らなかった私は、冷水を浴びせられる……というよりは、テレビ画面の光景に首を傾げて半信半疑になりました。「どこの国の話?」と。

 日比谷公園に若い人たちが列をなしているシュールな風景、そしてマイクで喋る黒いコート姿の湯浅誠氏(※)。それは、これまでずっと存在していたのに、私には見えていなかった日本の貧困の姿でした。私の無関心のバリアが、視界から弾いてきた人々の生々しい姿でした。

 思えば私は、ニュージーランド時代は先住民族であるマオリ文化に傾倒し、一時期をマオリの集落で寝泊まりしていましたし、上海では漢族よりも少数民族に没頭して、独自の文化を守る彼らを訪ね、辺境の村を何度も旅行しました。

 もっとさかのぼれば、ニュージーランド留学の資金を貯めるために新卒で2年弱だけ勤めた地元群馬の中小企業でも、私が慕っていたのは、会社の人気者やエライ人ではなく、高齢の警備員さんや、缶詰工場で働くパートさん達、成績が悪くていつも専務に怒鳴られている営業マンとか、先代社長(当時すでに故人)の愛人だったと噂される秘書でした。私は終始一貫して、誰にも注目されない縁の下の力持ちや煙たがられる人に興味を持っていたし、好きでした。

 私が上海から帰国した時に生活困窮者支援の道に迷いこんだのは、このような傾向を考えれば必然だったのかもしれないし、たんなる成り行きや偶然だったのかもしれません。

※年越し派遣村:リーマンショックをきっかけにした世界同時不況で、日本でも製造業を中心に派遣切りが広がった。多数の人々が仕事と住まいを同時に失う事態を受けて、支援者らによって日比谷公園に「年越し派遣村」を開設。日本の貧困問題が可視化された

※湯浅誠氏:社会活動家。当時、「年越し派遣村」の村長を務めた

「ちょっとの寄り道」が、この道11年に

 さて、帰国後の私は、この国の貧困の実態を自分の目で確かめたくなり、ビッグイシュー基金がスタッフを募集していたのをこれ幸いに、初々しさが皆無のインターンとなりました。ビッグイシュー基金の母体はホームレス状態にある人や生活困窮者に対して「雑誌販売」という仕事を創る社会的企業です。

 これまで長い時間をかけて築いてきたキャリアや人生経験が何一つ活かせない(活かすべきではない)仕事ではありましたが、ここで出会う人々のすべてがまた私の先生となりました。

 ちょっとの寄り道のつもりでした。

 しかし、気づけば11年も生活困窮者支援団体に関わり続け、今は中野に事務所を置く一般社団法人「つくろい東京ファンド」のスタッフをしており、路上生活者が地域生活を始めてからの就労や孤立を防ぐための居場所として運営する「カフェ潮の路」のコーディネーターを担当しています。

さまざまな背景を持つ人々や近隣住民が集う「カフェ潮の路」(撮影:高松英昭)

 出会う人々から厳しいレッスンを受けながら、最初は未練がましく歯を食いしばりながら、自分のキャリアだとか、長年かけて積み上げたり剥いだりしてきた価値観などを更に刷新する作業をしながら歩み続けるうち、11年前におばちゃんの扉を開いた私は、今や立派なおばちゃんになりました。魚に例えると、ワラサからブリになった感じでしょうか。脂がのってます。

 カフェ潮の路で、常連さんや地域の人々の空腹を満たし、よく笑い、よく喋り、超「三密」環境がウリの「カフェ潮の路」で平和な日々を過ごしていたところに、2020年春、日本にも新型コロナウイルスがやってきて、カフェは休業することに。代わりに、呑気だったカフェの女将はエプロンを脱ぎ捨てて、コロナ禍で生活困窮する人や、ネットカフェから路上に押し出されてしまう人たちの救援活動という激動の渦に放り込まれることになりました。青天の霹靂です。

変化する困窮者の背景と、福祉事務所の非情

 そこから今日に至るまでの8ヶ月間、それまでの平和な日々とは真逆の、見えないウイルスを避けながら至る所に出向き、福祉事務所相手に交渉(なんて生やさしいものではなくガチバトル)に明け暮れるという日々が続いているわけです。しかし、そもそも未曾有のウイルス災害でディストピアと化した春の東京で、もともと家がない困窮したネットカフェ生活者たちが行き場を失い途方に暮れているという状況なのに、この期に及んでも福祉事務所が相談者を門前払いしたり、集団生活を強いられる無料低額宿泊所に送ろうとしたりする事実に愕然としています。

 そこには一朝一夕には解決しようがない構造的な問題もたくさんあります。福祉事務所の都合も理解しています。しかし、それは行政側の問題であって、そのしわ寄せが「死ぬしかない」とまで思い詰めている困窮者に行くのはおかしい。絶対に間違っている。

 生活保護は最後のセーフティネットです。市民の命を守る砦です。

 私はあまりにおかしい福祉行政の実態を、広く公表することによって、福祉事務所の労働環境を改善し、旧態依然とした運用をアップデートし、福祉事務所のスタッフ達が誇りを持って仕事ができるようにしたい。そして多くの命や生活が守られるようにしたい。そのためには、多くの人に興味を持ってもらい、知ってもらうことが必要だと思っています。市民が関心を持たない限り、行政というものは変わらないからです。

 このたび、ありがたいことにマガジン9に連載させていただくことになりましたので、私が相談者のとなりで体験したこと、感じたことを紹介させていただきます。

 貧困はただ単にお金が無くなるということには留まりません。そこには先に書いたような生きづらさに始まり、差別、ジェンダー、労働、家庭、暴力、教育……ありとあらゆる社会問題が関係していて、深いところでつながっています。

 生きている間に、日本の福祉や社会を少しでも豊かなものにするために、溢れる思いを発信させていただく予定です。どうぞ、これからよろしくお付き合いくださいませ。

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。