第153回:「妄執五輪」の行き着く先は(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

支持率8%

 このコラム、もう153回目だ。3年間も書き続けていることになる。でも、こんなに書く気を失っている時期は初めてだろうな。
 この「言葉の海へ」は、ニュース・コラムとして執筆しているのだけれど、最近、ちょっとニュースの質がひどすぎる。ひどすぎて書く気が起きないのだ。いま、そのひどさを象徴しているのが、森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長だろう。
 なんでこんな人が、いまでも隠然たる政治力を保持しているのか、まずそこがぼくには不思議でならない。これほど評判の悪かった首相はいなかったんだよ。なにしろ、支持率8%という歴史に残る不人気ぶりだったのだから。一桁の支持率なんて聞いたことがない。森氏は、そんな首相だった……。

密室謀議首相

 だいたい、森氏が首相になった経緯からして非常に怪しげだった。2000年4月2日、当時の小渕恵三首相が突然、脳梗塞で倒れ緊急入院。その後継を巡って自民党内で密議が交わされた。青木幹雄、野中広務、亀井静香、村上正邦、森喜朗の自民党の重鎮たち5人が4月5日に談合して、森を後継首班に決めてしまったのだ。まさに「密室謀議首相」であり、「でっち上げ首相」と呼んでもいい。
 突然、降って湧いたような首相就任だったが、このあたり、今回の菅義偉氏の首相就任に似ている。今回は、二階俊博幹事長の根回しで派閥領袖たちが談合の上、菅氏を首相にまつりあげた。国民のまったく与り知らぬところで、国家の最高責任者が生まれてしまう。森首相誕生劇とそっくりだ。
 密室のうさん臭さが国民の大不興を買って、見る間に支持率大暴落、あっという間に首相の座から滑り落ちた……という森氏の例を菅氏も辿るかもしれないな。

 こんな経緯で首相になってしまった森氏だが、この人には危なっかしさが最初からつきまとっていた。暴言失言妄言の連発だ。ぼくが記憶しているだけでも、ものすごい数だ。あまりにたくさんあるから、順序もよく憶えちゃいないけれど、あの顔を見るたびにウンザリしつつ妄言がよみがえる。
 以下、森喜朗妄言録(順不同)のほんの一部を……と、ここまで書いたところでちょっと中休み。
 で、たまたまフェイスブックを覗いたら、戯作者の松崎菊也さんがご自身のページで、とても詳しく「森妄言録」をお書きになっていた。ついでに、麻生太郎氏、石原慎太郎氏という、暴言3羽ガラスをまとめて一刀両断。まことに痛快、快傑黒頭巾。あれ、完全に先を越されちゃった。これじゃ、ぼくのコラムは二番煎じになってしまう。残念だけれど、テーマは変更しなくちゃね。でも、森喜朗氏について書きかけたんだから、その線で行こう。
 それにしても、同じようなことを考える人は多いみたい。ツイッターでも「シンキロー妄言録」が大流行中だもの。それだけバカ発言は衝撃的だったし、東京五輪中止ムードに一役買ったことの「証」だろう。とても「コロナに打ち勝った『証』としてのオリンピック」なんてことにはならなかったのである。

妄執五輪

 さて、森会長の発言の中で、ぼくがもっとも危険だと思ったのは、2月2日の自民党の会合での発言だ。
 「新型コロナウイルスがどういう形であろうと、オリンピックは必ずやる」と語り、そして「オリンピックをやるかやらないかの議論は放っておいて、どうやるかが問題なのだ」と続けたのである。
 こうなるともう、どんな議論も成り立たない。科学もクソもない。ただただ「東京オリンピック・パラリンピック開催」だけが至上命題で、他のことには目もくれない。こういうことを「妄執」という。
 組織委員会とは、科学的予測・判断に基づいて、天候や競技場、観客動員、ボランティアスタッフの配置などさまざまな条件を調べ、それに最も適した形での競技開催・日程などを決めていくところのはずだった。少なくとも、そういうことのために5,000人以上もの職員を抱えていたはずだ。
 だが、そのトップが、なんの根拠にも基づかず「どんな形であろうと必ずやる」一辺倒では、「近代オリンピック」の名前が泣く。クーベルタン男爵だって墓の下でお嘆きのことだろう。
 そんなこんなで、今回の東京五輪は、特攻五輪、火の玉五輪、神風五輪、などと揶揄されることになった。そこに、妄執五輪が加わったわけだ。
 だがこんなことは、すべてニッポンだけで通用する(いや、今の日本でだって通用するわけがない)ものであって、諸外国に押しつけても理解されるはずがない。まさに、日本古来のお祭り、伝統芸能の世界ではないか。
 どうも、森氏を筆頭とする東京オリンピック・パラリンピック組織委員会のお歴々は、オリンピックを巨大な盆ダンス大会とでも思っているらしい。だから森氏に「辞任を思いとどまってほしいと、みんな涙ながらに訴えた」などと、それこそ「浪花節だよ東京五輪」てな様相を示す。恥ずかしい。
 こんな状況に乗せられたように、国際オリンピック委員会のバッハ会長までが「謝罪は済んだ。オリンピック開催に邁進してほしい」だと。この人も、いつの間にか「近代オリンピック」の精神から遠い彼方に来てしまったようだ。

偏頗五輪

 ここにきて、もうひとつの懸念材料が出てきた。アメリカの態度である。
 スポーツ分野でも世界最強国のアメリカが、もし不参加となればオリンピックなど成立するわけもない。かつてソ連(当時)のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカがいわゆる自由主義各国に「モスクワ五輪ボイコット」を呼びかけ、まことに偏頗な(偏った)オリンピックとなった例(1980年)があるけれど、アメリカ不参加によって盛り上がりにまったく欠けたオリンピックになってしまった。
 今回はまったく理由は異なるけれど、そうなる可能性は十分にある。
 こんな記事があった(東京新聞2月9日付)

 バイデン米大統領は日、今夏の東京五輪について、新型コロナウイルスの感染状況を踏まえて「安全に開催できるかどうか科学に基づき判断すべきだ」と指摘した。「開催できると願っているが、まだ分からない」とも述べた。(略)
 「四年間、たった一度のチャンスのために努力してきた五輪選手たちが、突然その機会を失ったらどんなに傷つくだろうか」と思いを寄せた。
 その上で、自身の新型コロナへの取り組みを念頭に「われわれは科学を重視する政権であり、他の国々もそうだと思う」と指摘。日本政府は科学的な根拠に基づき開催の是非を決めるべきだとの考えを繰り返した。

 婉曲な表現ながら、かなり突っ込んだ内容だと思う。森喜朗会長の「新型コロナウイルスがどんな形であろうと、オリンピックは必ずやる」との発言を、強烈に批判していると読めないだろうか。バイデン氏は短い発言の中で、「科学的根拠に基づき」を繰り返している。そこにバイデン大統領の本意があると思うのだ。
 アメリカではコロナ感染が、世界中のどの国よりも深刻だ。2月7日現在で、感染者数は約2700万人、死亡者数は約47万人と報告されている。アメリカの人口は約3億2千万人。その国で、これだけの感染者数と死亡者数である。それこそ、科学的根拠に基づけば、参加をためらう要因には十分になるだろう。
 傷が浅いうちに(いや、もう十分に深くなっているけれど)、死に至る前に引き返すのが政治というものではないだろうか?
 ぼくは、もはや「#東京五輪は中止」しか選択肢はないと思う。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。