第553回:やってる場合かオリンピック〜しかもやまゆり園でパラリンピックの聖火を採火? の巻(雨宮処凛)

 「やってる場合かオリンピック!」「中止だ中止、オリンピック!」

 3月25日、東京五輪の聖火リレーが福島のJヴィレッジを出発した日、東京・新橋のデモ隊からはそんなコールが上がった。

 この日開催されたのは、「『聖火』を止めろ! 五輪は中止! デモ」。新橋のSL広場を19時に出発、東電前を通り、夜の銀座を抜けて築地を通過、オリパラ組織委員会がある晴海を最終地点として目指すデモである。数百人が集まったこのデモに私も参加した。

 この日、デモ隊から上がったコールを聞いて、なぜ今、このタイミングで東京五輪開催を強行しようとしているのか、ますます疑問が大きくなった。以下、コールだ。

 「復興見せかけオリンピック」
 「福島切り捨てオリンピック」
 「原発事故は終わってない」

 東日本大震災から今年で10年。「アンダーコントロール」という安倍元首相の言葉が蘇る。そもそもが、そんな「誤魔化し」から始まったオリンピックだった。そうして原発事故から10年が経ったというのに、未だこの国は原子力緊急事態宣言の中にいる。

 コールには、コロナ感染や医療に関するものもあった。

 「コロナ感染続いてる」
 「無観客でもありえない」
 「医療崩壊オリンピック」
 「変異種拡大オリンピック」
 「医者を奪うなオリンピック」
 「ナースを奪うなオリンピック」

 オリンピック期間中は、多くの医療従事者が無償で五輪に駆り出される方針だという。その数、5000人とも言われている。ただでさえコロナで医療現場は逼迫しているというのに、五輪の熱中症対策などに人手が奪われたら。それはコロナ患者のみならず、それ以外の患者の命に関わることだ。

 それだけではない。東京五輪は海外の観客受け入れを見送ったわけだが、それでもオリンピック開催中は五輪関係者やメディア関係者など、多くの人が海外からやってくる。そうすれば、東京五輪をきっかけとして変異種がさらに拡大するような事態にならない保証はどこにもない。

 そしてひときわ共感したのが以下のコール。

 「税金巻き上げオリンピック」
 「嘘と賄賂のオリンピック」
 「電通パソナは大儲け」

 もう何も言うことはないだろう。とにかくこの一年、コロナによる困窮者支援の現場に身を置く者としては、オリンピックよりも何よりも、「今、飢えている人」「今、住まいがなく困り果てている人」に手を差し伸べて欲しいと切に思う。まずは命が脅かされている人たちに税金を使ってほしいと思う。

 東京五輪では、準備を急ぐ中で死者も出ている。

 2017年3月、新国立競技場の建設に関わっていた23歳の男性が過労自殺したことを覚えている人も多いだろう。総工費の膨張で計画が二転三転する中、予定より一年以上遅れての着工となり、建設が急ピッチで進められる中、犠牲者が出てしまったのだ。

 「身も心も限界な私はこのような結果しか思い浮かびませんでした」

 男性はそうメモに残していたという。そんな男性の残業時間は190時間を超える月もあり、深夜1時すぎに「4時15分に起きます」というメールを家族に送っていたこともわかっている。

 様々な犠牲と矛盾を飲み込んで、変異種が拡大する中、コロナ禍で強行されるオリンピック。

 そんなデモに参加して、1年前の3月26日、Jヴィレッジにいたことを思い出した。「幻の聖火リレー出発」予定地に、共同通信の連載「2020の透視図」の取材で行ったのだ。

 原発事故収束の作業拠点となったことから「復興五輪」の象徴として聖火リレー出発地に選ばれた福島のJヴィレッジ。聖火リレーは双葉駅を通過する予定で、実際、今年の聖火リレーは双葉駅を通ったものの、1年前に訪れたそこは言葉を失うような惨状だった。

 建て替えられたばかりのピカピカの双葉駅と対照的に、歩いてすぐの商店街は、「あの日」のままで時が止まっていた。

 地震によって潰れた家、1階部分が押しつぶされた店舗、崩れ落ちた屋根瓦、割れたガラス。地震直後のような光景がそのまま残されていたのだ。家々の中はすっかりイノシシに荒らされ、至るところにその糞が落ちていた。雑貨屋には、服やバッグ、マフラーがそのままハンガーに吊るされて9年分の埃と放射能をかぶっていた。聖火リレーが通るからとピカピカに整備された駅前との落差に、復興五輪ではなく「欺瞞の五輪」「ハリボテの五輪」という言葉が浮かんだ。その辺りでは電気もガスも水道もまだ通っていないという。常磐線が開通してオリンピックがくるということで駅だけ綺麗にしても、人が住めないならそれは「復興」とはほど遠いのではないか。

 近くの幼稚園に行くと、そこも時が止まっていた。あの日、急いで逃げたのだろう、園児たちの黄色い帽子や上履き、リュックが大量に積まれたままになっていた。幼稚園の土の線量を測って驚いた。なんと10マイクロシーベルトもあったのだ。

 双葉行きから、1年。最近その辺りに行った人に聞くと、状況は当時と変わらないという。

 一体、「復興五輪」とはなんなのか。

 聞くたびにもやもやしていたが、そんな復興五輪はいつの間にか「人類がコロナに打ち勝った証の五輪」ということになっていた。

 もうひとつ、五輪絡みで最近、戦慄したことがある。

 それはパラリンピックの聖火の「採火」が、あのやまゆり園で行われる方針で最終調整中という報道だ。

 やまゆり園とは、「相模原障害者施設殺傷事件」が起きた現場である。元職員の植松聖死刑囚が入所者ら45人を襲い、19人もが命を落とした「大量殺人」の現場である。よりによってその場所が、「障害」という共通点だけで「スポーツの祭典」の聖火の採火の現場となるという事実に、おぞましさを感じた。強烈な違和感を持つのは私だけではないだろう。しかも、遺族、被害者の意向すら確認していないという。

 もうひとつ怖いのは、このような判断を植松死刑囚は「喜ぶ」のではないかということだ。

 植松死刑囚は、なんでも自分に都合のいいように受け取るという病的なほどのポジティブさの持ち主である。例えば裁判で植松は、事件を起こしたことに関して、「おかげでプーチン大統領から反応をいただけて光栄です」と語っている。

 プーチン大統領からの「反応」というのは、事件当日、安倍首相宛てに送られた弔電のこと。そこでプーチン大統領は「無防備な障害者を狙って実行された犯罪の残忍さに動揺している」と、遺族に哀悼の意を示している。このメッセージに関して、植松は「反応をいただけて光栄」と語り、「重大な問題であると伝わったと思います」と述べているのだ。

 誰から見ても、メッセージは遺族に向けたもので、事件に理解など1ミリも示していない。しかし、植松被告は「重大な問題であると伝わった」と捉えている。裁判を傍聴していて、このようなシーンは何度かあった。客観的に見て、決して「イエス」ではないのに勝手に「イエス」と受け取るような癖。人の言動の受け取り方が、あまりにも独特なのである。

 そんな植松死刑囚が「やまゆり園で採火」と知ったら。彼はおそらく「自分の起こした事件はやはり正しかったのだ。平和の祭典にふさわしい事件だったのだ」と思うのではないだろうか。ある意味、「最悪のお墨付き」を与えるようなものではないのだろうか。

 昨年4月、東京拘置所に移送された植松死刑囚はいつ死刑執行されてもおかしくない身で、家族以外とは手紙のやりとりもできず、自身の考えを発する手段はすでにない。連日メディア関係者と会えた裁判中と違う環境だからこそ、やっと事件と向き合う日々が始まるのでは、という淡い期待を抱く人は多くいる。しかし、このニュースは、それを一発で台無しにするもではないだろうか。そのような、加害者の特性まで考えての決断だったのか。まったくもって理解できない。

 しかし、聖火リレーは始まった。このままいけば五輪は強行されるのだろう。

 五輪に関しては、これまで散々「ジェンダー意識の低さを競う選手権」を見せつけられたが、これからは「民意などどうでもいい、やると決めたらやる、男のメンツと利権合戦」を見せつけられるのだろうか。

 「オリンピックより命が大事」

 デモで聞いたコールが、いつまでも耳に残っている。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。