第1回:ふくしまからの日記①〈前編〉(渡辺一枝)

東日本大震災と福島第一原発事故の後、たびたび福島に通い、地元の人たちの声に耳を傾け続けてきた作家の渡辺一枝さん。そこで見聞きしたこと、感じたこと、そしてご自身の日常の中で考えたことなどを綴っていただく新連載コラムです。

 初めまして、渡辺一枝です。
 43歳まで保育士をしていましたが、在職中に勧められて『自転車いっぱい花かごにして』というエッセイを書きました。執筆中は「本を書くのはこれでおしまい」と思っていたのですが、書き上げてみるともっと書きたい気持ちになって退職後はエッセイや旅行記、ノンフィクションを書いてきています。子どもの頃から憧れていたチベットには保育士を辞めた翌日に初旅行し、以来通い続けています。

 2011年3月11日に東日本大震災が起きテレビから流れる津波の映像に恐れ慄き、12日に原発事故が報じられてからは、ネットで情報を集めるのに必死でした。「福島へ行きたい。そこで何が起きているのか、そこに居る人たちは、どんな日々を過ごしているのか知りたい」と思いました。7月に岩手県に行く用事が生じ、用事が済んだ後で「遠野まごころネット」でのボランティア活動に参加しました。私でも役に立てることがあると知り、南相馬のボランティアセンターに登録をしたのです。そして8月から、毎月福島に通うようになりました。南相馬で宿泊した宿が、たまたま現地の民間ボランティアグループの拠点だったのです。それが判ってからは、その「六角支援隊」の一員として支援活動をしながら、被災者の声を聞き現地の状況を知るようになっていきました。
 それ以前から私自身の暮らしを個人的なメールマガジン「一枝通信」として発信してきましたが、2011年8月以降は被災地で見聞したことや、原発事故に関連した裁判支援についての発言も増えました。福島での見聞を「一枝通信」で発信するだけでなく、『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』に上梓しました。また、私の言葉ではなく現地の当事者の言葉で現状が伝わって欲しいと願い、「トークの会 福島の声を聞こう!」として、被災当事者の方に話していただく会を続けてきています。その記録もまた『福島の声を聞こう!3.11後を生き抜く7人の証言』『福島の声を聞こう!part2 あれから10年 9人の証言』として出版しました。
 「一枝通信」は福島のことだけではなく、時には読書感想や日常の暮らしの中で感じたことなども書いています。不定期発行の通信ですが、今回「マガジン9」でも発信していくことになりました。どうぞお付き合いいただけたら嬉しいことです。よろしくお願いいたします。
 まずは、この3月の福島行きの日記から。長くなったので、2回に分けて公開します。

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3月27日(土) 

 よく晴れて風もなく穏やかな春の日、久しぶりの福島行だ。1月の10日、11日に大熊町、双葉町に入って以来で、2月は入院・手術で動けなかったからだ。3月1日には福島地裁に日帰りしたけれど、それは「子ども脱被ばく裁判※」の傍聴だったから、車窓の景色を眺めることもせずに資料を読みながらの往路だったし、帰路はあまりにも酷い判決に体の力が抜けたままで何も目に入ってこなかった。 
 じきに4月になろうという今、窓の外は芽が出た麦畑の緑の絨毯、木々の梢の柔らかい芽吹きの色、遠くにうっすら雪の残る山並みが目に優しい。白河を過ぎると車窓の景色を眺めながら私はいつも、かつて蝦夷たちがこのあたりに暮らしていた頃の風景を想い浮かべる。新幹線は窓が開かないので鳥の声も聞こえないけれど、それにとてもとても速いスピードで行き過ぎてしまうけれど、あの起伏のある地をこの足で歩く感触を想像している。 
 私は福島行ではいつも、浪江町から福島市に避難している今野寿美雄さんに運転をお願いしている。この日福島駅で今野さんに迎えてもらった時に、嬉しい言葉を聞いた。「夜ノ森の桜が咲いていますよ」。このところの暖かさで、一気に開花が早まったのだろう。

※子ども脱被ばく裁判……福島県内の小中学生とその保護者が、安全な環境で教育を受ける権利や、初期被ばくに対する損害賠償などを求め、国や福島県などを訴えていた裁判。今年3月1日、福島地裁は原告の訴えをすべて退ける判決を出した。

浪江町──道の駅にて

 福島駅から国道114号線を通り、浪江に向かう。浪江に入れば、以前には在った建物が消えて、そこここに更地が目立つ。2017年に避難指示が解除され、家屋解体申請締め切りは2018年3月末までとなった。この期間内に申請すれば解体費用は国が持つが、それ以降は自費となる。解体家屋は放射性廃棄物だから、自費ではとても払えない額となる。ギリギリまで思い悩んで解体申請した人たちも、少なくないだろう。2018年以降浪江では家屋解体が進み、2020年には今野さんの家も解体された。この2020年はまるで解体ラッシュとでも言えるように、そこここが更地になっていった。今野さんはこれを称して、「9年目の津波」と言った。 
 昼食を済ませてから道の駅に寄った。大堀相馬焼の売り場や、再興した醸造所で作った酒類の売り場、無印良品の店なども新たに出店していて、これらの売り場も以前からの売り場も、どちらも人がいっぱいだった。浪江は被災前の人口は2万人ほどだったが、現在の居住者数は1,600人ほどだという。だがこれは帰還者の数ではなく、移住してきた人を含めての数だ。道の駅の賑わいは、どこからのどんな人たちなのだろう。 
 私は食品売り場でこれから訪ねるお宅へのお土産にイチゴを買った。レジの支払いは自分で金額を機械に投入するやり方で、コロナのせいもあってか、この方式が増えている気がする。支払いを済ませると、レジ係から東京オリンピックのスポンサー名入りタオルがプレゼントされた。2日前の25日にJヴィレッジからスタートした聖火リレーは、浪江では浪江小学校を起点に、この道の駅がゴール地点だったのだ。密を避けるために沿道での声援を制限しながら、実は大勢の観客を見込んでいたらしい。宣伝になるからとプレゼントをたくさん用意したのに、みんなにそっぽを向かれてしまったのだろう。県民たちの「オリンピックどごでねぇ!」の声を、聞く耳持たなかったことの報いか。いやその声は県民ばかりか全国からの、それどころか世界各国からの声だった筈だけれど、強硬に実施された「邪魔リンピック」だ。 

双葉町──「伝承館」が伝えるもの

 次の目的地に向かう前に、「東日本大震災・原子力災害伝承館」に寄った。ここは昨年9月に開館した施設だが、展示は避難者数や関連死などにも触れていず、原発被害の実態を伝えていないとの批判が多数寄せられていた。以前、双葉町の道路に掲げられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の看板は、「安全神話」を象徴する負の遺産として残すべきだとの声があったのに取り外された。伝承館がオープンする時に、その看板はそこに展示されると期待したのにそれも最初は展示されなかった。私も昨年末に見学したが、原発事故が及ぼした終わりの見えない被害を伝えるよりも、除染して避難指示を解除したことや学校や庁舎、商業スペースなどハコモノを次々に造っていった「復興」を喧伝したい意図を強く感じていた。 
 それが今年に入ってから、批判の声を受けて展示を見直し、「原子力明るい未来のエネルギー」の看板も展示するとのニュースが流れた。ニュースを知って、やはり意見は届けるべきだとの思いを強くした。そしてこの日、ゆっくり見学はできないが、せめてあの看板だけでも見ていこうと思って、伝承館に寄ったのだった。 
 入り口すぐのロビーのあたりが一番広い場所なのでそこに展示されているかと思ったが、ガラス越しに見てもそこには無く、建物の裏手の方に回って行くと、開閉されない裏口の横の外壁に立てかけて置かれていた。まるで「飾ったのだから文句ないでしょ!」と言わんばかりのやっつけ仕事のように、ただ無造作に置かれていた。館内展示ではなく外壁に寄り掛からせて置いてあるだけだった。これが官製の「伝承館」の伝え方だった。 

富岡町──桜見物と板倉正雄さん

 訪ねる人のお宅へ行く前に、夜ノ森の桜見物。帰還困難区域ゲートの向こうは桜通りで、何人かがゲートの隙間から写真を撮っていた。ゲートの向こうには警備員がいて、彼らは桜を見ずに、こちらの人の動きに目を向けているばかりだった。ゲートで仕切られた桜通りとL字型にも桜並木があり、それが元々の夜ノ森の桜並木で、こちらの道路は自由に歩けるので写真も撮りやすい。が、車の往来も多いのでやり過ごしながら写真を撮った。 
 写真を撮った後で、帰還してこの町で暮らす板倉正雄さん(92歳)を訪ねた。2017年に避難指示が解除されて、富岡町に戻った板倉さんのことは以前から今野さんに聞いていて会いたいと願っていたのだが、なかなか訪ねられずにいた。ようやく叶った。 
 板倉さんは浪江町室原の出身で、富岡町で暮らすようになったのは定年の2年前からだそうだ。営林署勤務だったので転勤が多く、原町や勿来などあちらこちらと移動したが、定年の2年前に、先祖の墓地のある故郷の室原にも近く、いわきに行くにも近い、その中間地点の富岡町に自宅を建てた。群馬県の前橋に勤務していた頃に管理職になった。管理職になると転勤先の幅も広がり、新潟県の長岡へ転勤の内示があった。ちょうどその頃同居していた父親が脳梗塞で倒れ余命を宣告されていたが、長岡に行っては父の世話ができないこと、また管理職になると組合との関係もあり、労働運動も激しい時期だったので色々考えて、定年前に退職をした。 
 そこまで話した板倉さんは、「人生いろいろあるなぁ。ここさ帰ってきても周りに人がいない。話ができないのが一番寂しい。一日中誰とも話さない日があるんだよ」と言った。 

富岡町の「復興」──板倉正雄さんの話 

 2011年3月11日の地震の後で、板倉さん夫婦は小学校の体育館に避難した。12日に原発事故が報じられて川内村へ避難し、そこで一泊二日を過ごした後で、郡山のビッグパレットに避難して3ヶ月ほど過ごして、ビッグパレットの北側の空き地に建てられた仮設住宅に入居した。 
 「仮設住宅には6年間いて、その間に一時帰宅で3回ほど自宅に戻ったが、2017年に避難指示が解除されると、その年の12月に富岡町に帰ってきた。富岡町で一番早い帰還だった。避難指示が解除されて復興という言葉を聞いてきたが、まさかこんな状態になるとは思っていなかった。みんなもこんな復興ではなく、復旧を望んでいたのではないか。指示解除になったら、元の夜ノ森に帰ってこられると思っていたのではないだろうか。除染のために家々が解体されて、あちこちが更地になってそこに新しい事務所や作業員のアパートが建って、全く違う場所になってしまった。 
 避難して2年、3年経つうちに、家庭の事情も色々だから、子どもたちは仮設の地で学校に入り、また卒業もして、すると子どもにとって夜ノ森は故郷ではなくなる。年寄りは帰りたいが、若い人たちは帰ってもしょうがないという気持ちになる。彼らはいわきや郡山の人になってしまった。向こうで生まれた子どももいるし、2歳、3歳でここから避難した子どもたちもいるから、その子達にとってここは故郷ではなく、仮設が故郷だ。 
 夜ノ森の桜を宣伝するのに道路を通れるように除染して避難指示解除したけど、桜が無かったらここも解除にならなかっただろう。買い物はコープ(生協)が週1回注文を取りに来るからそこで買うが、なま物などは自分で運転してさくらモール(富岡で1軒だけ開業しているショッピングモール)に買いに行く。93歳で運転しているが、8月で免許更新なので後期高齢者の講習の申し込みをした。免許証は年齢の下限はあるが上には制限がないから、講習を受けてみる。中央病院へ行く時も自分で運転して行っている。いつまで運転できるか、一番困るのが移動手段だが、これまで危険な思いをしたことはないし充分気をつけて、後続車があればウィンカーを出して路肩に寄り、先を譲っている。 
 先月の地震(2021年2月の福島県沖地震)の後で東電の報告を見たら、(福島第一原発3号機の)震度計が1年前に壊れていて修理できずにいたから、この間の地震の震度が測れていなかったと知って『そういう事か』と思った。福島第一・第二原発とも今は電力供給していない。さらには、壊れた計器も直さないままの無責任な東電の運営経費は、東電利用者にも加算されているわけだ。そんなことを考える。 
 私は自分の意思で戻ってきたのだから、悔しいことを考えても仕方がない。毎日気持ちの良いことを探して楽しみに生きている。被災前は家の前、道路のあっち側は中学校があった。校舎や体育館やプール、倉庫があった。帰ってきたらみんな解体されて更地になっていた。今は朝起きてこの広いところを、太陽が昇ってくるのが見える。それが、綺麗。とても綺麗で、それを見るのが楽しみだ。この綺麗な太陽は被災前にも毎日昇っていたのに、私は気づかなかった。校舎が無くなって寂しいと思ったら、朝陽に気が付いた。太陽に『ありがとう』と感謝しているよ。 
 ここに居て、風が吹き木の葉が動く。車が通るが人は居ないし、だから人の動きは見ない。原因がどうのと言って怒っても仕方ない。93年生きてきて色々あったが、生きている限り避けようがないことを体験して93年過ぎてきた。過ぎたことを悔やんでも仕方ないから、いま毎日の中で生きがいをどこに見つめるか、自分の終わり方を、どういう終わり方をするか、そんなことを考えている。 
 娘が二人いて、横浜と愛知に住んでいるが、コロナで1年間会っていない。光子(妻)が世話になっている施設からは、向こう(横浜や愛知)から来た人と接触したら2週間は家で過ごしてくれと言われている」 
 お連れ合いの光子さんは、要介護4で町内施設には入居の空きがなく、月に20日間はデイサービスを受け10日間は自宅介護で、食事の世話から下の世話まで正雄さんが一人でやっている。 

 避難後からを語りながら板倉さんは、郡山の仮設住宅に居た時に書いた自作の詩を吟じても下さった。 
 ふるさと慕情 
 「安積永盛」貨物の駅に 沿うて連なる仮設の宿で 
 夜毎みる夢ふるさとの 桜並木かつつじの駅か 
 子安観音お堂の浜に 重い響きにふと目を覚まし 
 耳を澄ませば夜行の電車 想えばここは仮の宿 
 枕濡らして夜明け待つ 

 お暇する前に、アトリエを見せて頂いた。そこには板倉さんが独学で学び描いてきた、何枚もの仏画が壁に掛かっていた。そのどれもが繊細な筆遣いで、神々しくもあった。仏画は手の印相の形、足の組み方、衣装や持ち物など全てに約束事があり、それが正しく描かれていないと仏画とは言えない。板倉さんは本や図鑑、仏像などを見て学び、描いたものを高野山の高僧に観てもらっては精進して、真言宗豊山派の仏画師として認定されている。仏画は壁に掛けられてあるだけでなく、丸めて閉じたまま何本も箱に仕舞ってあった。どの仏画も、板倉さんの落款は表ではなく裏に押されている。仏画の前で人は手を合わせるが、そこに自分の名があってはいけないと思うから、と板倉さんは言った。そう語る板倉さんに、私は心の中で手を合わせた。アトリエには博物館や研究者、図書館などが垂涎ものの関係書も多く並んでいた。 
 見せていただいた仏画や吟じて下さった詩などから、私はいつかまたゆっくりお訪ねして、被災前のお話をじっくりと聞かせて頂きたいと思っている。この不条理な境遇に置かれながら、なぜこのように穏やかな口調で話し続けられるのか、そのわけも知りたいと思っている。 

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。