第84回:急ぎ足で能登半島・珠洲へ(渡辺一枝)

珠洲市へ

 雑誌『たぁくらたぁ』の取材で、4月27日(土)、28日(日)の1泊2日で、編集長の野池元基さんと能登半島の珠洲市へ行ってきた。金沢から現地までは、種市靖行さんが車で案内してくれるという。整形外科医の種市さんは、福島第一原発事故後に、郡山から金沢に避難して医療活動をしている。野池さんの前回の取材時にも、種市さんが車で回ってくれたそうだ。そして種市さんが理事をしている石川県保険医協会の小野栄子さんも同行するという。
 珠洲市を訪れるのは、野池さんは2月に続けて今回が二度目だが(『たぁくらたぁ』62号に、野池さんのこの時の記事が掲載されている)私は初めてで、珠洲市については新年早々に起きた地震の震源地であったこと、そこには原発建設計画があったが地元民の反対で計画は立ち消えになったことなど、新聞で報道されたことのほかには知識がなかった。例えば「地盤沈下」は、3・11後の福島通いで実際に目にしているが、今回の地震では地盤が隆起したのだという。報道された写真を見ても、「地盤隆起」の実感がわかずにいた。だから被災地のそのような状況を、この目で見たかった。
 また27日の宿は珠洲市の「湯宿さか本」にするというのだ。「湯宿さか本」は坂本菜の花さんがご両親と共にやっている旅館で、被災直後は休業していたが、水も出るようになりインフラも修復されて営業再開したと聞いている。菜の花さんには、以前に『たぁくらたぁ』58号で記事を書いていただいたこともあり、菜の花さんにも会いたかった。
 27日6時16分東京駅発の北陸新幹線「かがやき501」で金沢に向かった。全席指定の早朝の便なのに満席状態で、そのほぼ半数が外国人旅行者だった。途中長野駅からは野池さんも乗車した筈だが、車両が違うのでどこに乗ったのかはわからない。金沢駅で降りてホームでようやく会った。
 一緒に改札口を出たところに、種市さんと小野さんが待っていてくれた。野池さんの前回の取材時にも種市さんの車で、やはり小野さんも一緒に回ったそうだ。小野さんに初めましての挨拶をして、私は助手席に座らせてもらった。駅前の広場に植えられたベニバナトチノキが、円錐形の花序で赤い花を咲かせていた。広場を囲むように何本も植えられていて、よく晴れた空の下で緑の葉に花の色が映えて、美しかった。

のと里山海道をゆく

 道路標識や信号名を見て行くが「利屋」を「とぎや」と読むなんて、土地の人でなければ絶対にわからないなと思った。金沢から津幡を通って羽咋から「のと里山海道」に入った。
 住宅の黒い瓦屋根にブルーシートをかけてある家屋も目についた。これから梅雨を迎えるので、日を待たずに修繕されると良いがと案じた。福島では職人さんの手不足で、難儀をした話をよく聞いたからだ。野池さんは種市さんにどのルートで行くのかを尋ね、種市さんは小野さんに目指すルートは現在通行可能かどうかを確認し、という具合に、被災後の道路の修復状況を確かめながら進んだ。種市さんはカーナビを見て、野池さんは自分の持っている地図と小野さんが携帯で調べるGoogle情報と照らしながら行くが、何度も被災各地を訪ねている小野さんが、道路状況の情報には一番詳しいようだ。
 私はすっかりお任せ状態で、車窓からの光景に目を見張らせていた。種市さんが「ここもやっと、崩れてしまった道路を新しく造って通れるようになりました。崖を埋めて造られてた道路は崩れちゃって、また崖を埋めて造り直しているんですよ」などと説明してくれる。
 そんな場所を何度も過ぎた。新聞などで報道されていた「道路の寸断」が、如実に理解できた。道路の崩落箇所を見て過ぎた。谷側に盛り土をして造成された道路を行き、また、山を削って新たに道路造成しているのも見た。片側しか通れないところも多くあった。そうやって通れるように再生された道路だが、それは集落の孤立を解消するためにとにかく通行可能にすることが先決にされてだろうか、応急の修復工事のようであった。大型の工事用車両が何台も行き交うのは無理だろうなと思えた。
 こうした状況を見ると、能登半島の復旧は困難が多く、まだまだ時間がかかるのだろうなと思った。桜はもう散っていたが、山肌の緑の中にウワミズザクラが白い穂状の花を咲かせていた。
 種市さんが「避難した人たちのこれからを考えるとき、福島の放射能の問題とはまた別の難しさを思ってしまいます。元々が過疎で限界集落だったところなど、避難先から戻って行政が立て直せるのかどうか…」と呟き、1冊の本を手渡してくれた。半透明のハトロン紙のカバーがかけてあり、新刊本ではなく少し前に発行されたものらしい。しっかりと読み込まれている様子で付箋がたくさん貼られていた。
 ところが私ときたら、どうにもピントハズレなところがあって、大事なことを見落として自分の興味にばかり気を取られがちな点がある。私は車の中で本を読むと車酔いしてしまうので、タイトルさえも確認せずにパラパラとめくっただけで付箋に気を取られて、お返ししてしまった。本の中身はおろかタイトルさえも頭に残らずに。気になった付箋はごく細いもので、細過ぎて文字などは書き込めないのだが、大事なページに貼っておくにはとても良いと思い、同じ品を求めたいと思って、見入ってしまったのだ。

鵜飼

 穴水町を抜け桜峠という美しい名の休憩所でトイレ休憩をとり、お腹が空いていたので売店でおにぎりを買った。レジの前に幾つか広報誌やフリーペーパーが置かれていたので、2、3冊手に取ってみたが、結局どれも持ち帰らなかった。広報誌の1冊を持って出た野池さんは、表紙の写真を小野さんに見せて「これどこでしょうね」と問いかけていた。
 そこからは珠洲道路で先を進み海沿いの道に出た。信号名に「鵜飼」とあった。種市さんが、「ここでは『瓦礫通り』をご覧になりますよ」と言ったけれど、道の両側に黒い瓦屋根を載せたままペシャンコに押しひしがれた家屋跡が続いていた。きっと被災直後は、路面も見えない状態だったのだろうが、あれからほぼ3ヶ月、道路は通れるようになり「瓦礫通り」となっていたのだ。渡ろうとした橋は橋脚部分が陥没して大きな段差が生じて、渡れなかった。道を引き返したが、川面にはツバメの群れが飛び交っていた。ツバメたち、また今年も巣作りに戻ってきたのだろうに、毎年のように巣をかけていた家の軒が消えてしまって戸惑っていたのだろうか。
 湾の方へ行くと、路面の高さよりもポコンと50〜60センチばかり飛び出したマンホールがあった。能登半島地震では地面が隆起したと私の頭の中には入っていたが、ここでは地盤が隆起ではなく沈下したのだろうか。大地は東西南北と横にも、また上下にも捩れる凄まじい力を秘めているものなのだと思った。
 津波が抜けて行った家の壁には大漁旗がかかっていた。他にも大漁旗が軒下にかかった家もあり、この辺りは漁師さんたちの家並だったようだ。潮の匂いがした。「全国からの支援 ありがとうございます」の横断幕が貼られていた。
 家々の壁や玄関に、「日」という文字の真ん中の横棒を左右に突き出したような図形と「1/6シズオカ」の文字があり、赤字で数字も書かれている。その意味を探り合ったが判らなかった。
 後になって知ったが謎の図形は、倒壊した家屋の中に救助が入ったことを示す印だった。1/6は日付で、赤い数字は収容したご遺体の数だという。家屋の倒壊や津波の痕跡を見ていながら、ここで失われた命があることへの想像力が私には徹底的に欠如していた。手を合わせて祈ることさえ思い浮かばずに、ただただ目に見える被害の大きさに驚くばかりの私だった。

蛸島

 蛸島漁港へ行った。少し離れたところに見える港には漁船が何艘も投錨されていて、かなり大型の漁船もあった。すぐそばの広い駐車場にもまた何艘もの船が、それぞれ台車の上に載せられていた。その内の一艘で何か作業中の人がいて、小野さんが「漁船の修繕ですか」と話しかけると、「いや、これは漁船でなくてレジャー用のボートだ。漁船はあっちの港に停泊してるよ。ここは船の手入れをする場所なんだ」と答えが返った。津波の被害は少しで済み漁港も無事だったというが、駐車場の地割れは、かなり酷く思えた。種市さんが「珠州原発建設には蛸島の人たちが強く反対していたそうですが、何で蛸島の人たちは反対だったのでしょう」と問うと、作業の手を休めて男性は、一瞬返事に詰まった後で明快に「なんの産業も無いところだから、イデオロギーの問題でしょう」と答えた。私たちは作業を中断させたことを詫び、お礼を言ってその場を後にした。
 車に戻ってから「あの人は反対だったのか賛成だったのか、どっちだったのだろう」と思ったが、聞かなくて良かったと後になってから思った。今回の地震は地元の分断を埋める出来事であっただろうから触れないのが賢明だと考えたからだ。野池さんが「何かの運動の賛否に外部からの力が加わると、カタカナの難しい用語が飛び交うようになる」と言った。思いがけず耳にした「カタカナ言葉」に、みんな笑って納得した。
 笑ったけれど、私自身を考えてもその通りなのだ。何かの運動に関わった時に、その問題について俄か勉強で得た知識を自分の言葉にできないまま使うことがある。態度をはっきり表明したいが理由をうまく説明できないと、理由を「科学的」に述べよと迫られることが多い。「科学的」の言葉は曲者だ。もっと体験や感覚が大事にされても良いと思う。もちろん同時に、十分に自分の言葉で説明できるまで科学的に学ぶことも大事だ。ただ「科学的」が、歴史的な経験知、個人の体験や感覚を排除してはならないと思う。
 鶯の声が長閑に聞こえてきた。東京よりも季節は、ほぼ1ヶ月後追いしていると思った。

原発誘致とその頓挫

 原発誘致問題が珠洲市で具体化したのは1975年だ。市側が進める原発誘致の動きに対して市内の地区労や革新団体、漁民や地元民などで反対住民組織「珠洲原発反対連絡協議会(反連協)」が結成された。こうして原発誘致をめぐって地元住民は賛成反対に割れ、現地調査が始まると対立は激化していった。
 珠洲市寺家(じけ)地区に中部電力が、高屋地区に関西電力(関電)が、それぞれ100万kW級の原発2基を建設し、調整役として北陸電力が加わる計画だった。反対する人たちが声をあげ続けたにもかかわらず、市は従来の「地域振興課」を「原発立地振興課」と改名してまで、原発推進に遮二無二突き進んでいた。関電もまた反対運動切り崩しに住民の懐柔にかかった。原発視察名目の接待旅行、地域の祭りで使う奉灯「キリコ」の収納庫や農作物の保冷庫建設などへの多額の寄付もあった。これに対して反連協は集会・ビラ配り、文化活動、市長選の不正を訴えての裁判闘争などで反原発の意思固めをしていた。
 高屋地区で反対運動の中心的存在だった圓龍寺住職の塚本真如(まこと)さんらは建設予定地のそばに監視小屋を作って、現地入りする関電の車両の監視や市役所での座り込みなどを進めていった。また建設予定地の土地を何人もの共同名義にして買収しづらくしたり、関電株を買って計画撤回の株主提案をしたりと手を尽くした。
 こうした紆余曲折を経て2003年12月、関西・中部・北陸電力の3社長が珠洲市役所を訪れ「珠洲原発の凍結」を申し入れた。こうして28年間に及んだ珠洲原発計画は、調査もできないまま撤退した。

原発計画地

 寺家地区に入って高台の道を進んで来たが、そこから道が二股に分かれる辺りに家があり、玄関先に椅子を出して座っている人がいた。高齢の男性だった。小野さんが「避難されなかったのですか」と問うと、避難していたが水が出るようになったので戻ってきたと答えた。野池さんが「大変でしたね。でも、原発が出来てなくて良かったですね。原発の計画があったのはこの下あたりですか?」と尋ねて「そうだ」と聞くと、「あの頃は今回の地震とはまた違う意味で、大変だったのでしょうね」と重ねて野池さんが言った。老人は「ああ、もうあんなことは嫌だ」と答えた。種市さんが「下に行くのはこっちからですか」と車の頭が向いている方を指すと老人は別の道を指した。私たちはお礼を言い、種市さんは少し車をバックさせて老人が示した道を下った。
 高台から下りてきて海岸が見えた時、野池さんが「この写真、ここでしょう!」と少し興奮した声を上げ、桜峠の売店で手に入れたフリーペーパー「ぶらり能登 2023.12―2024.11」の表紙をかざして見せた。それは二人の女性が、浅い岩礁地帯に立つ風景写真だった。海面から細長くわずかに姿をのぞかせた岩礁が、水面に浮いている数本の帯のように見える写真だった。私たち3人は表紙の写真を覗き込みながら、確かにこの場所だと確信したのだが、写真で見るよりも実際の風景は岩礁部分が大きく浮き出ていて海面がずっと狭く浅く見えていた。種市さんがスマホで潮の干満の時刻を調べ、今は満潮時だと言った。地盤の隆起が、こんなことからも見てとれた。
 岩礁地帯を外れた向こうには砂浜が広がり、切妻屋根の舟屋が並んでいた。漁業で生計を立てていた地域なのだと知れた。舟屋は丸太柱に屋根を載せただけだから津波は通り抜けたのだろうが、丸太柱は砂の下の大地にがっしりと埋め込まれているものらしい。へしゃげることもなく、切妻屋根が並んでいた。生業の様がうかがえて美しかった。
 原発誘致計画が上がっていた寺家の海岸は、このような風景だった。
 道を進んで狼煙漁港を過ぎ、高屋町に向かった。高屋も原発計画が上がっていた地域だ。海沿いの道を行くが、前方に山の斜面が大きく崩落して茶色の地肌を見せているのが見えた。道を進むと「高屋 急傾斜地崩壊危険区域 今区域内(青)で土地の形状変更をする場合は、知事の許可が必要ですから、珠洲土木事務所にご連絡ください」と書かれ、図面と電話番号を記した立て看板が路肩に立てられていた。指定の日付は平成元年3月と書かれていた。その立て看板のすぐ隣には、まだ建築後さほど年月が経っていないと思われる家屋があり、庭には芝桜がピンクの絨毯を作っていた。こうした看板はここ一ヶ所だけではなかった。その先にもまだあった。
 珠洲原発反対運動のリーダー的な役割を担っていた塚本さんが住職を務めている圓龍寺は、この地区に在る。野池さんは2月に、加賀市に避難中の塚本さんを訪ね、そのインタビュー記事は『たぁくらたぁ』62号に掲載されている。今回、塚本さんは二次避難中で不在のためお会いできないが、圓龍寺を訪ねた。本堂の黒い瓦屋根はかなり傾いて、建物の損傷は相当酷かった。鐘楼はかろうじて4本の柱が立ち、重い釣鐘を支えていた。
 「能登半島最北端の店」と称されていた井上商店の前に出た。この店の井上伸造・明美夫妻も、原発誘致に反対して闘ってきたという。原発誘致案が地元住民を真っ二つに分断し、井上商店には賛成派住民は寄り付かなくなり、売上は激減した。そんなことを頭で理解して、井上夫妻の過ごした日々を想像する。しかし「想像」は、「ワタクシのこと」という実感を伴わず、文字通り頭の中で思い描くだけでしかなかった。ところがこの日、店舗に隣接した車庫に足を踏み入れた時に、想像の世界が「ワタクシのこと」になったのだった。
 車庫には掃除用具などが置いてあったが、壁際には1枚の立札が残されていた。そこには「刈らないで下さい! ウマノスズクサを観察しています(県絶滅危惧Ⅱ類)」と、墨痕鮮やかに記されていた。それを目にした途端に、店を中心になって切り盛りしていたという明美さんが、ごく親しい身近な人に思われたのだった。そして、「この人に会いたい!」と思った。
 ウマノスズクサは蔓性の植物で、ラッパを捻ったような形で内側が濃いえんじ色の目立たない花をつけるが、果実がウマの首につける鈴に似ているからと、この名がつけられた。毒草なのだが、ジャコウアゲハの幼虫がこの葉を食べて育つ。ウマノスズクサは私の早朝の散歩道にもあるので、明美さんに会って、そんなことも話したいと思うのだった。私の散歩道のウマノスズクサには、もう早、幼虫が何匹か葉を齧っている(ちなみに、ウマノスズクサの花は臭くて嫌な匂いだが、それを食べて育つジャコウアゲハのオスは麝香の匂いを発してメスを惹きつけるそうだ。オスのジャコウアゲハは黒色で、メスは前翅は褐色に黒い筋だが雌雄どちらも美しく、また飛び方も心なしか優雅に思える)。
 井上商店を後にして先をゆくと、白壁に黒瓦の立派な建物があった。「高屋キリコ収納庫」で、外壁にはこんな札が鋲止めしてあった。「キリコは高屋町の祭礼に重要な役割を担う伝統的な地区財産であり、後世へ大切に継がれていく私たちの宝物です。このキリコ収納庫は、高屋まちづくり構想の中から高屋町に役立つ一部実施構想の一つとして、キリコを組み立てたまま保管できる施設の建設を珠洲市に要望し、関西電力の協力により建設されたものです。平成7年10月 高屋まちづくり推進会 高屋日吉神社氏子総代会」。
 こんな文言からも電力会社の住民懐柔の歴史が見て取れた。だがきっと、立場が違えばこの文言から「電力会社はこんなにも地域の伝統や文化を大事にしてくれている」と思う人もいることだろう。

尾形正宏さん

 高屋地区では時々車を止めて外に出た。野池さんと種市さんは「監視小屋はこの辺りだったかもしれませんね」とか、「原発建設予定地は、あの辺りかなぁ」などと話し合っていた。小野さんは人家があれば人がいるかどうか確認したりしていた。それなのに私は、草藪の中の花が咲いていると、つい手折って花束を作るのに夢中になっていた。
 白いドーム状のテント避難所を見た。次の取材の予定があったので、寄らずに先へ進むことに後ろめたさを感じながら、そこを通り過ぎた。予定の時刻よりも30分ほど遅れて宿泊地の「湯宿さか本」に着いた。空になったペットボトルに水を充し、手にしてきた花束をボトルの口に入れて食堂のテーブルに飾った。
 「NPO法人能登半島おらっちゃの里山里海」理事の尾形正宏さんが、既に待っていてくださった。…といっても予備知識ゼロの私は、私たちの到着を待っていてくださったこの方から名刺をいただいて、名前と肩書を知ったばかり。種市さんの問いかけに応えて尾形さんが、早速に話し出されたこともよく理解できない。今はよく理解できないが、これから学んでいく中できっと、あの時尾形さんが言っていたのはこのことだったのかと気づくことがあるに違いないと思いながら、メモを取る。
 原発誘致が具体化してくると地区労、社会党、地元の人たちで「新しい珠洲を考える会」を結成した。もし反対運動を労働団体がリードしていたら、号令がかかったら集まり、終わったら散る運動だっただろう。そうではなく、市長や市議会が誘致に向けて動いていく中で、教職員組合や真宗大谷派の若い人たちが中心になり、社会的な問題に取り組もうという組織ができた。「反戦・平和」と「珠洲原発反対」を訴える運動で、岡林信康のコンサートや劇団「はぐるま座」の公演など文化活動も展開した。
 私が聞き取れたのは、そのようなことだった。種市さんと尾形さんの会話の中には何度か「落合さん」という名前が出てきた。恥ずかしい話だが私は、珠洲原発反対運動に大きく関わっていたらしい落合さんがどのような人なのか、皆目分かっていなかった。だが、その落合さんに明日は会う予定なので、そうすればもう少し私の理解も進むだろう。

「湯宿さか本」の菜の花さん

 尾形さんとのお話の後、菜の花さんに会うことができた。
 菜の花さんとは初対面だったが、著書の『菜の花の沖縄日記』を読んでいたし、出版後からメールで繋がっていたし、また映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』も観ていたので、初対面の気がしない。お土産にと、福島の南相馬市・小高の双葉屋旅館で売っている菜種オイルとハーブ塩のセットを渡しながら、双葉屋女将の小林友子さんが訪れた人たちに震災や原発事故について伝え続け、地元の復興のため心砕いて活動していることを話すと、興味深げに耳を傾けて菜の花さんは言った。「被災後のそうした活動を、とても聞きたいです。行ってみたいなぁ」。そう聞けば私も「2人を会わせたいなぁ」と思った。小野さんが菜の花さんに、「これ、一枝さんが摘んできた花です」と、さっき私がペットボトルに入れて飾った花を指して言った。オドリコソウ、スミレ、カイジンドウ、タツナミソウ、キツネノボタン、それと名前を知らない白い花を、私は摘んでいた。
 私たちの他にもう1組3名の宿泊客があり、菜の花さんは忙しそうだった。料理はお母さんと菜の花さんが賄っているようだった。お手伝いの人(従業員かも)が間を置いて運んでくれるお料理のどれもが美味しいこと! 赤い輪島塗の大鉢に盛られた筍の煮物が運ばれて来た時には、「わ~、美味しそう!」、私たちから一斉に声が上がった。筍一本を大ぶりに切って出汁でごく薄い味で炊いてあった。野池さんは「立派だなぁ! 長野にはこういう筍は無いんですよ。細い根曲がり竹ばっかりだから」。大鉢に添えられた竹製のトングと木杓子で銘々の小鉢に取り分けながら、歯ごたえと味をしっかり堪能した。小野さんが「この筍を食べるために、毎年ここに通う人もいるんですよ」と言った。目で舌で香りで味わう見事な筍の煮物だった。菜の花さんが、お父さんからしっかりと仕込まれて受け継いでいる「さか本」の味なのだろう。お父さんの新一さんは疲れが出て、昨日から休んでいると聞いた。新一さんもまた、原発誘致に反対して闘ってきた一人だった。
 菜の花さんの仕事が一段落した頃に、少しの時間だけだったが話し合う時が持てた。避難している人たちが戻ってくるのか、戻らない人もいるだろう。これからの地域や珠洲をどうしていくのか、ここでどう暮らしていくのか、菜の花さんの悩みは深い。
 寝る前に入った風呂場からは、庭の竹林が見えた。青竹が風に揺れていた。カジカガエルの涼やかな声を聴きながら、心地よく寝入った夜だった。

 翌朝、朝食の時刻になって食堂のテーブルに着いた時、菜の花さんが「一枝さんのお花、これに生けました」と言って、清楚な白地の器に生けた花をテーブルに飾ってくれた。なんて素敵な心使いだろう! ペットボトルの狭い口にぎゅうぎゅう押し込められていた花たちも口の広い器の中で生き生きと蘇っていた。私は嬉しくて涙が滲んだ。
 朝食後に、また1時間ほどだったが菜の花さんとの話し合いの時をもった。復興計画がいろいろ上がってくるし、行政は早く決めなければ予算がつかないから急ぎたいかもしれないが、菜の花さんはゆっくり考えたい、帰って来たい思いの人もいるし、その人たちの意見も聞きたいから焦りたくない、後悔はしたくないからと言う。私たちもまた、福島のこと、長野の例などを話しながら、菜の花さんの思いを聞いた。
 菜の花さんは地域の担い手の一人として、思うことはありすぎるほどたくさんあることだろう。珠洲市が、また市内の各行政区が、大きな力に呑み込まれずにしっかりと地方自治を貫いて、住民の望む復興の道を歩んでほしいと願うばかりだ。

落合誓子さん

 その日は、尾形さんの話に出た「落合さん」を訪ねて、飯田町の乗光寺に行った。境内にはブルーシートの上にタオルや靴、茶碗などの品が並べられてあり「支援でいただいたお皿やタオルなどの日用品があります(無料)。竹のこ御飯、おはぎの炊き出しあります。12:00~」の張り紙があった。庫裡に行き訪問の旨を伝えると奥の部屋に通された。台所では女性たちが、炊き出しの準備に忙しそうに働いていた。
 通された部屋の椅子にかけて待つと、私と同年輩くらいの女性が「まあ、いらっしゃい」と現れた。昨日、種市さんと尾形さんが話していた「落合さん」は男性で乗光寺のご住職かと、私は思い込んでいたのだが、それはとんだ間違いだった。『原発がやってくる町 「トリビューン能登」より』の著者でルポライターでもある、乗光寺の「坊守」落合誓子さんだった。
 落合さんは、「今コーヒーを淹れるわね、待ってて」と私たちに背を向けてコーヒーの用意をしながら、「あんこをたくさんいただいたので、地元のお母さんたちに分けるからおいでって言ったら、それならおはぎを作って炊き出しにするって、みんな張り切ってるのよ」と、問わず語りに教えてくれた。
 種市さんが「珠洲での反原発運動について聞きたいと思いながらなかなか来られず、ようやく伺えました。何人かに話を聞こうとしたのですが、住民の気持ちが二分されてしまったことなので、皆さんなかなか言いたくないようで聞けませんでした」と言うと落合さんは、歯切れの良い口調で即座に応えた。
 「反原発って、もう嫌になる程やってきたわ。それで原発って言ったって、もうみんな聞こうともしなくなってたから、また別の本を書いたの。原発を産業廃棄物になぞらえて書いた、私の初めての小説だけど、後で皆さんにあげるわ。
 珠洲原発だって、私は反原発が勝ったなんて思っていない。勝つなんて無理。私らが建設を止めたなんて思っていない。バブルが弾けて、もう造る必要が無いって向こうが考えて止まったと思ってる。粘り強く運動を続けたのは私たちの功績だと思うけれど、それで国家が止めるなんてことはない。やろうと思ったら徹底的に国はやる。運が良くて止まったということです。
 町は割れましたからね。表に出て声を上げられる人は恵まれている。声を上げると立場が違う人もいるから、声に出せない人もいっぱいいて、私は『隠れキリシタン』って言ってた。お寺はどちらかと言うと権力者です。立場が強いから、私は闘えた。でも、『あの人は推進派だ』なんていうことは一切言わなかったけど、土地が二つに割れると問題が起きるから、楽しい事はないわね」
 そんなことを話していた時に、また訪問者があった。珠洲市議会議員の浦秀一さんだった。そして浦さんも話に加わった。
 「僕の親父は建設業界にいましたから、毎日親父と喧嘩でしたよ。僕は教師をしてたんですが、『先生、昨日テレビに出てたね』なんて生徒に言われると、『ん? 人違いじゃないか』なんてとぼけました」と言ったのは、原発誘致をめぐっての報道で、顔が出ることもあったからなのだろう。また浦さんは、こんなことも言った。
 「ある家を訪ねた時、その家の子どもに『幾ら持ってきた?』と聞かれて、すごいショックでした。前にそこを訪ねた推進派が、お金を配っていたのですね。子どもがそんな目で大人の行動を見ている、すごいショックでした」
 それから落合さんは、小野さんが差し出した「石川保険医新聞」の記事に上野千鶴子さんの写真を見つけて、「上野さんに会いたいのよ。繋がりがないわけじゃないから連絡すれば良いのだけど、なかなか連絡取れずにいる」と言った。
 私は落合さんのことを全く知らずに会ったのだったが、小一時間ばかりのこの訪問で、すっかりこの人のファンになってしまった。歯切れ良い口調で、はっきりを物を言う。一言で言えば「女傑」という感じの落合誓子さんだった。

小谷内毅さん

 その後、菜の花さんが会うことを勧めてくれたのが小谷内毅(こやちたけし)さん。私には、どんな人なのかは全く予備知識がない。多分、種市さんも野池さんも小野さんも同様だったのではないだろうか。菜の花さんが段取りをしてくれてあり、乗光寺から戻って「さか本」の離れで小谷内さんに会った。いただいた名刺には「珠洲の薪屋」と大きく記されていた。
 名刺交換した後で開口一番小谷内さんが言ったのが、窓から見える庭の梅の木を指しての言葉だった。「ほら幹に丸くて白い斑点がついてるでしょう?」
 「ウメノキゴケ」という地衣類の一種だが、樹勢を弱らせ枯らしてしまうカビだという。梅だけではなくケヤキや他の木にもつき、今どんどん広がっているという。大気汚染が原因で、大気汚染に弱い木のランキングでは1位がケヤキ、2位がナナカマド、3位はアカマツで4位はスギだそうだ。中国の化学工場などから排出される排気ガスによる大気汚染が大きく影響していて、太平洋側は少し風が抜けるが日本海側は、もろに影響を受けているともいう。大気汚染に比較的強いのがツバキ、ナラ、ヤマモモで、これらのことから考えると国をあげて山林樹木の種類を転換する必要があると小谷内さんは言った。
 いきなりそんな話になったので度肝を抜かれたが、とても興味深い。小谷内さんの話は続いた。持ち主が要らないという山があれば、その山の木は薪にして、違う木を植えていく。薪ストーブで安心して冬越しできるように、薪にしていく。そうすれば鳥も戻ってくるだろうと言う小谷内さんに、冷戦時代のアメリカやソ連、イギリス、それから中国の核実験による放射能汚染の影響はどうなのかと私が問うと、その影響もあるだろうと答えが返った。野池さんは、「蛸島でレジャーボートの整備をしていた人が原発誘致の諾否について、『こんな産業もないところではイデオロギーの問題だ』と言っていた。生活そのものに関わることなのに『産業』という言葉で済まされてしまうことについて、小谷内さんはどう考えるか」と問うた。
 すると小谷内さんは、少し前に取材に来たジャーナリストの金平茂紀さんを案内していた時、地元の住民が金平さんに答えた言葉を教えてくれた。その人は珠洲弁で言ったそうだ。
 「困った事はなかった。魚も獲れるし米も作れた。銀行に金があっても寂しかったが、薪が積んであると豊かな気分になった。昔から秋には来年の春までの薪を用意して冬を越したもんだ」
 今度は、それを聞いた野池さんも言った。
 「僕の母の父親、僕のお祖父さんですが、娘を嫁に出す時に嫁ぎ先の家に薪がどれだけあるのかを見に行ったそうです。それが今は『どれだけお金があるか』になってしまった」
 小谷内さんは野池さんに応えて、「大事なのは米と薪だよ」と言った後で、言葉を続けた。
 「お年寄りから田んぼを1枚貰って、機械に頼らない昔ながらのコメ作りをやってみた。コメの消費量が減っていると言われているが、それは売ってるコメは稲が倒れるのを心配して倒れる前に刈って機械で乾燥していてまずいからだ。僕はちょうど良い時に刈って、浜で天日干しした。そうして作ったら我が家ではコメの消費量が増えた。これならいけると思って田んぼを4枚に増やして、能登ひかり、コシヒカリ、カグラモチ、ひゃくまん穀と4種類のコメを作ってる。収穫時期も早生・中生・晩生(ワセ・ナカテ・オクテ)と、2週間ずつずれるのでちょうどいい。
 ちょうど良い時に刈り入れて、浜ではざ(稲架)かけして1週間。浜は風が強いからよく乾燥する。市販の米は機械乾燥で、高温で12時間くらい乾かすので、米粒のひび割れや品質、風味が低下する。天日干しは表面の澱粉質を壊さずじっくり乾燥させるので、旨い」
 そして地震後の復興については、次のように語った。
 「地震で避難して、そのままこの地から離れる人もいるだろうが、それは仕方がない。能登のこれからは自然をベースにしてやっていくのがベストだろう。『観光』は光を観ると書く。防災を含めて、自然を活かしながらの一次産業と観光を資源に再建を図っていく。
 こんな話を聞いたことがある。江戸時代から明治に移行するときに、先人の爺さんたちが集まって大枠になる4つの署を決めた。治安を護る警察署と消防署。これらは利益を産まないから、税を集めて当てていかなければならないから税務署が必要だ。そしてもう一つが営林署だった。だいたい山の裾野に人々が暮らす町がある。山は利益を産まないが、町を護るために護らなければならないものは金をかけても護るということだ。ところが今は、営林署は蔑ろにされて、山をどんどん削るなどしたために一気に災害被害が増えている。利益を産まない署が大事なのだ。
 水源もない裏山から水が流れてくるのは雨が山の土中に浸透して濾されて、ポタポタ流れ出すからだ。山が保水路になっている。雨が降った後の調整機能を山が持っている。公共下水道も合併浄化槽で処理すべきで、アメリカのNASAの下水処理は、1〜2ヘクタールの浄化槽を造ってそこにホテイアオイという水生植物を繁殖させてあるそうだ。その中を通って出ていく水は浄化されているのだという。
 木や植物は菌と共生している。菌が微生物の力をうまく利用してさまざまなものを分解してくれる。自然の力を借りてやっていく世の中にしていかないと保たない。能登は食材が豊富な地だ。環境も良いし、公害もない。自然に沿った暮らしを大事にしていきたい」
 歯切れ良く、立て板に水のような小谷内さんの口調に圧倒されながら、頷くことしきりだった。

それからのこと

 帰宅後3週間ほど過ぎたある日、種市さんがたくさんの写真データを送ってくださった。どの1枚も、私もそこで見た覚えがある景色なのに、「ああ、私の目は節穴だった。私には見えていなかった」と思うばかりだった。
 たとえば輪島で。防潮堤によじ登って港を見た時、向こうのコンクリートの壁に横にずっと長く白い筋がついているのを見て、「ああ、あれは隆起の跡だな」とぼんやり思って眺めた。送られてきた写真には港のコンクリート壁のずっと先端の赤灯台まで、海面から上1〜1.5m幅に白い筋はずうっと連なっている。被災前にはそこは海面下であったことを主張するかのように。写真は、写したその人自身を写すという。種市さんの写真からは海底の隆起を、しかと見据えている種市さんを感じた。それは私のぼんやりした眼差しとは、明らかに違っているように思えた。
 数日後に、小野さんからも写真が送られてきた。小野さんもまた、私には見えていなかったものを写し撮っていた。そして小野さんが写真と共に伝えてくれたのは石川県による「復興プラン」案が示されたというニュースだった。そこには「創造的復興」とか「能登ブランド」の文字が見受けられるという。小野さんは「素朴さに見合わない重い荷を、能登に負わせているような気がします。復旧は急いで欲しいですが、その後のまちづくりはじっくり時間をかけて、住民のみなさんが納得していくものを皆で作り上げることができるようにと願っています」と言葉を添えていた。
 小野さんの思いに、私も全く共感している。福島は、「福島イノベーション・コースト構想」によって、被災前の町の姿とはすっかり変わってしまった。それは決して住民たちが望んでいた姿ではなく、むしろ住民の思いは蔑ろにされたと思えてならない。更地になった町に、行政は「復興フロンティア」と称して県外からの企業や人を呼び込んでいる。被災者の故郷であるはずの被災地は、新たにやって来た、いわば入植者の土地になっている。
 たった1泊2日の急ぎ足の珠洲市訪問だったけれど、そこで話を聞かせていただいた人たちの言葉が耳朶に蘇る。伝え聞いた言葉、「困ったことはなかった。魚も獲れるし米も作れた。銀行に金があっても寂しかったが、薪が積んであると豊かな気分になった。昔から秋には来年の春までの薪を用意して冬を越したもんだ」もまた、胸に深く残っている。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。