第2回:ふくしまからの日記①〈後編〉(渡辺一枝)

作家の渡辺一枝さんによる連載コラム、第2回です。前回に引き続き、今年3月に福島を訪れた際の日記をお送りします。

3月27日(土)

楢葉町「伝言館」を訪れて

 板倉さんのお宅を辞してから、楢葉町の宝鏡寺に行った。宝鏡寺はいわき訴訟原告団長の、早川篤雄さんが御住職を勤めるお寺だが、早川さんはそこに核災害の教訓を伝える施設「伝言館」を造られ、東日本大震災から10年目の3月11日に開館したと聞いていた。 
 本堂の向かいに木造の真新しい建物が在った。それが「伝言館」だった。伝言館の脇には黒御影石の大きな石碑「原発悔恨・伝言の碑」が在った。碑には「電力企業と国家の傲岸に立ち向かって40年、力及ばず」の文言で始まる、反対したが防ぎきれなかった悔恨の言葉が刻まれていた。その隣には「非核の火」と朱色の文字が書かれたコンクリート製の碑があり、小さな炎を挙げて燃える火が、ガラスケースに入れて掲げられていた。そこには「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ 伝言の灯」と説明があった。上野の東照宮境内で灯されてきた「原爆の火」が、移されてここで灯されているのだった。 
 まだ木の香がするような「伝言館」の中に入ると、すぐに「エネルギー・アレルギー」と書かれたヌードの女性の大きなポスターが目に入った。他にも壁いっぱいに展示物が貼られているが、原発を推進するために旧科学技術庁が作ったこのポスターは、当時もきっと、さぞ人目を引いたことだったろう。福島第二原発の建設計画が持ち上がった時から反対運動に取り組んできた早川住職が保存してきた1970年代の新聞からは、核燃料をエネルギー源にして経済成長してきた戦後の日本が辿ってきた道筋が窺えた。壁に貼られた展示物は、こうした歴史的資料と共に原発事故後の除染の写真や線量マップ、震災関連死についての説明パネルなど、どれも貴重な資料だった。建物は外観からは平屋建てに見えたのだが、地階がある2層建ての建物だった。一階は原発事故関係の資料が展示されていたが、地階には広島・長崎の原爆被害に関する資料や、ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸などアメリカの水爆実験に関する資料などが展示されていた。 
 『核の平和利用』という言葉がまやかしであり、原発は軍事力の保持、拡大につながっていくことを、伝言館の展示は如実に示す。この「伝言館」は、立命館大学の安斎育郎名誉教授の協力を得て造られたそうだ。早川さんと安斎さんは、楢葉町・富岡町に東京電力福島第二発電所建設計画が持ち上がった時からの知り合いで、共に反対運動に取り組んできた仲なのだという。 
 館内の見学を終えて外に出ると、建物の入り口脇の壁面に早川住職が数枚の写真と説明書きを張っているところだった。右端の写真は日本が中国や朝鮮半島を侵略統治していた頃の写真、その隣の写真は真珠湾攻撃、そのまた隣は広島に原爆投下、そして次はビキニ環礁の水爆実験、入り口のすぐ脇の最後の写真が福島第一原発事故と連なって、思考は建物内部に誘導されていく。僧侶である早川さんの、因果報応という仏教思想が示されているように思えた。 
 館内に展示してある資料の何倍もの資料が、倉庫に保管されているそうで、折々展示を替えていくそうだから、また折りある度に訪ねようと思う。双葉町の官製の「伝承館」を、苦く思い出しながらそう思った。 

3月28日(日)

 福島滞在、2日目。飯舘村に帰還した元酪農家の長谷川健一さんと元農業者の菅野榮子さんを訪ねる予定だった。フォトジャーナリストの豊田直巳さんも長谷川さん宅に行く予定と聞いていたので、一緒に行くことになった。豊田さんは取材先の新潟から、私たちは宿泊した広野町から、それぞれ飯舘村に向かうが、広野からの方が断然近いので、原町のビジネスホテル六角に寄って以前お世話になっていた地元の民間ボランティア六角支援隊のリーダーだった大留隆雄さんの顔を見てから飯舘へ向かうことにした。 

久しぶりの大留さん

 大留さんは、「ヤァ、しばらくだったね」の言葉の後に「手術の後の体調はどうなの?」と気遣って問うてくれた。全く調子が良くて以前と何も変わらないと答え「もしかしたら私は魔女なのかもしれない」と言うと、笑いながら「いや、ほんとだ。一枝さんは魔女だよ。もう10年になるよねぇ。前と全然変わらずに、同じように元気だね。僕はすっかり動けなくなってしまった」と、大留さんは言った。そしてひとしきり、六角支援隊で活動していた頃の日々を語り合った。八面六臂の活躍ぶりだったあの頃の大留さんではないけれど、ひと頃の体調の悪さを脱して元気に過ごしている様子だった。 
 六角を出て飯舘村に向かう途中で豊田さんから電話が入り、ゑびす庵で落ち合って昼食を摂ってから長谷川さん宅へ行こうという事になった。 
 ゑびす庵は飯舘村飯樋の食堂で、手打ちうどんが美味しい。福島市に避難していたが避難指示解除後に、元の場所に戻り店を再開していた。豊田さんは私たちより一足先にゑびす庵に着いて、待っていてくれた。すぐ後から入ってきて席に着いた二人連れを見て、豊田さんが「あれ!とみ子さん」と声をかけた。「までい工房」で「いいたて雪っ娘」カボチャの普及に努めている渡邊とみ子さんだった。とみ子さんもこちらを見て「あれ、豊田さん、今日は何? 一枝さん、久しぶり!」と言い、私も「久しぶり!」と握手した。いつもFacebookでとみ子さんの活動を承知していて、コメントで言葉を交わしているから、「久しぶり」の実感が湧かないがこうして握手し合うと、「ああ、本当に久しぶりだなぁ」と実感する。ネットでの擬似体験よりも現場での実体験の重さを、改めて感じたのだった。 
 その後、飯舘村へ長谷川さん宅を訪問。長谷川さんは体調が万全ではないらしく、「ビールをグビッと飲めないんだよ、誤嚥しそうで。もっぱら日本酒をチビチビやってるよ」。いつものしゃがれ声も勢いがない長谷川さんだった。明日県立病院で検査を受けるというが、言葉の端はしにマイナス思考が表れて、すっかり弱気になっている長谷川さんを花子さんが諌めて励ましていた。 

被害者同士の交流──菅野榮子さん

 朝のうちどんよりしていた空だったがゑびす庵を出た時には降り出していて、長谷川さんの家から失礼した時には雨足も激しくなっていた。この雨では猿たちもどこかでひっそり雨を凌いでいるのだろう。榮子さんの家に行く時には大抵いつも猿の群れに出会うのだが、この日は猿たちの姿を見なかった。榮子さんの家には息子さんも来ていて、この日は年に一度の佐須地区の行政会議が、榮子さんの家で開かれていたのだという。どんなことが話し合われたのだろう。前村長の菅野典雄さんは出席したのだろうか。豊田さんが榮子さんにそれを問いかけたのだけれど、ちょっと耳が遠くなっている榮子さんには聞こえなかったようで、榮子さんはしきりに今野さんに話しかけていた。 
 「今野さん、この本に書かれた人たちで同窓会をしたいね。今野さん、頼みますよ」 
 2月に出版された拙著『ふくしま 人のものがたり』を前に置いて、榮子さんは言った。村で自分史を書こうという誘いがあったけれど、榮子さんは誘いに乗らずに書かなかったが、自分で書かなくてもこの本の中に私の人生が書いてあると榮子さんは言って、贈った本を、とても喜んでくださった。私はそこに榮子さんと今野さん、他2人と1組の夫婦を書いたのだが、榮子さんは今野さん以外の人たちには会ったことがない。榮子さんは取材を受けることが少なくないし、支援者との交流も多い。でもそういう繋がりではなく、核被害を受けた同じ立場の人と互いに言葉を交わし、心を繋ぎ合わせたいのではないのだろうか。「同窓会をしたい」という言葉に、私はそんなことを感じた。これまで会ったことがなかった原発事故の被害者同士の、交流の場を作るのも大事なことだと思った。 

手術後の報告

 2月12日に私は乳がんの手術を受けましたが大留さんに聞かれて答えたように、術後の経過は良好で痛みも感じず他に不調もなく、すこぶる元気に過ごしています。術後の治療としてホルモン剤を服用していますが、副作用としてカルシウム分が不足しがちになり骨粗鬆症を引き起こしがちということで、骨密度の検査を受けました。骨密度は同年齢の120%、20代の80%との結果でした。それで併せてカルシウムの吸収を促進し、体内のカルシウム不足を補う薬も併用しています。カルシウム関係の薬はいずれ止めてもらうつもりです。 
 体験者からは、術後は腕の上げ下ろしに痛みが酷かったり、他にも辛い状況を多く聞きました。私はそんなこともなく退院(1週間の入院)した翌日から入院前と同様に早朝ウォーキング4kmを再開し、家事も普通にこなしています。それで自分自身「私は魔女かもしれない」と思い、それを口にしたら友人から「はい、あなたは弁(わきま)えない魔女です」と言われました。友人からのお墨付きを頂いて、私はこれからも弁えずに生きていきます。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。