第178回:「品格」ということ(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 ぼくのいちばん好きな散歩コースは霊園(墓地)である。
 だけど、このところ腰痛に悩まされ、その上この暑さ。なかなか散歩にも行けていない。それでも先日、様子を見て腰をなだめながら、ほんの少しだけ霊園散歩をしてきた。まだかなり暑いけれど、それでも夏の終わりを感じさせる風が吹いていた。蝉も、もうヒグラシやツクツクホウシの出番。カナカナカナ、つくづく惜しいツクヅクオシイ…。
 霊園は、とても樹々が多いし、いろんな花が咲いていて目を楽しませてくれる。けっこう野鳥の種類も多い。小さな双眼鏡をぶら下げてフラフラと歩く。何よりも、車に気をつけなくていいのが嬉しい。

 ぼくは昔から墓地散歩が好きだった。
 東京では、谷中霊園、雑司ヶ谷霊園、染井霊園、小平霊園、多磨霊園…。指を折ると、けっこう訪ねているな。今でも知らない土地へ行った時、お寺を見かけると、ふっと立ち寄って墓苑を歩いたりする。

 それにしても、さまざまな墓がある。一基ずつ、名前を読みながら歩くのも一興。けっこう難読苗字が多いのだ。プライバシー(?)に抵触するといけないから、ここでは名前を記さないけれど、えっ、こんな漢字があったっけ? と戸惑うこともしばしば。
 霊園は「日本人の名前」の図書館みたいなものだ。

 【鈴木 佐藤】
 などと、名字だけを並べた小さな墓もある。ぼくは想像をたくましくする。
 これは、結婚できないなんらかの理由があった二人の墓に違いない。多分、親や親族に二人の仲を認められず、思い余って家出してひっそりと暮らし、やがて実家とは音信不通となる。そして二人は年老い、二人だけが一緒に眠る墓を作ったんじゃないだろうか、なんてね。昭和時代の、悲しくも美しい愛の物語……。うわあ、背筋ゾクゾク。まったく下手な恋愛小説だね、これじゃ。

 などと、愚にも付かない夢想をしながら、ぼくは霊園の中を散歩する。

 霊園マニアを自認するぼくだが、次第にお墓にも「品格」というものがあることに気づいてきた。
 こんな言い方をすると失礼だけれど、どうにも品のないお墓というのもあるんだ。それは見る人(つまり、ぼく)の感覚の問題だから、どんな墓が上品でどれが下品か、なんて決める基準があるわけではない。

 まず、仰々しいのは勘弁してほしい。やたらにデカくて、あたりを睥睨しているようなのは「ああ、この家系は “下々の人たち”を見下ろしているような“名家”なんだな」なんて感じて敬遠したくなる。お墓に関しては、“普通”がいいと思う。
 高さ3メートルもありそうな巨大な自然石をど~んと据えて、「〇〇家累代之墓」などというのも、ぼくは感覚的に受け付けない。こぢんまりとして、1メートルほどの小ぶりの墓に、つつましく「鈴木家之墓」なんてあるのが好ましい。でも、ここでもやっぱり「家」が前面に出ている。まあ、墓の場合は仕方ないか。

 お墓に彫られた文字も様々だ。
 ぼくの好みは「明朝体」ですらりと彫られているもの。例えば、多磨霊園にある北原白秋のお墓は明朝体の横書きである。すっきりしていて好きだなあ。
 まったく読めない崩し文字が使われているのもある。どうかと思う。なんとかという著名人が揮毫してくれたもの、などというのに多い。これじゃ、墓参りに来た人が探し当てられなくて困るんじゃないかな。ま、どうでもいいけれど。

 それと、ぼくの好みじゃないのは、「銅像」が鎮座している墓。偉そうに髭なんか蓄えた社長サンなどが、いまも社員一同を監視しているようなのって、なんかいやらしい。それに、銅像はほとんどが男性だ。稀に、老夫婦の像もあるけれど、これも男が大きくて女が小さいのがパターン。まあ、墓が建てられた年代にもよるけれど。

 ぼくの実家の墓は、田舎のお寺(曹洞宗)にある。ぼくは毎年、小旅行を兼ねて立ち寄り、線香をあげてくる。でも、去年と今年、2年続けて線香をあげられなかった。なにしろ、まったく旅をしていない。コロナめっ!

 ぼくは宗教をほとんど信じていない。だからぼくの場合、墓参りというのはちょっとしたレジャーに他ならない。もう、ふるさとを出て来てから58年も経った。ふるさとの墓は姉が守っていてくれているが、彼女が去れば、もう守り人はいない。死んだ実兄は「オレは無宗教だから墓はいらない」と言って、墓はつくらなかった。
 ぼくにはふたりの娘がいるが、それぞれに配偶者を得て鈴木の苗字を捨てた。多分、ぼくの「鈴木」は、ぼくら夫婦で終わる。カミさんも名前に固執しない。「鈴木の墓」は、もうすぐ消える。

 よく考えてみると、ぼくは「エラソー」なのが嫌いなんだ。だから、エラソーなお墓に、ついケチをつけている。別にお墓に罪はない。ごめんなさい。
 霊園を歩いていて、チラチラとそんなことを考えていた。

 そう、「品格」がお墓にも表れるのだから、生きている人間の場合にはもっとあからさまに出てくる。ことに、最近の政治家たちを見ていると、やたらに「品格のない人たち」がこの世を動かしている。
 いまさら、あの人とかこの人とか名指しするつもりもないけれど、新聞を開くたびに、ニュース番組を見るたびに、この「品格」という言葉を思い出す。どうしても、卑しい顔が浮かんで来てしまう。卑しさに引きずられて政治がないがしろにされ、このコロナ禍でたくさんの人たちが苦しめられ、終えなくていいはずの生を失った。

 オリンピックだってパラリンピックだって、結局、政治のアイテムに使われてしまった。選挙にとってどうすれば有利になるかという政争の具だ。
 13万人分もの食物が廃棄されても「もっと量があるかどうかは精査しなければ分かりません」などと言う五輪組織委の開き直り。

 アフガンでは、自衛隊機を飛ばしても、たった一人の日本人しか乗せられなかった。そんな事態に批判が出ると「いや、前日に14名のアフガン人を運んでいました」と弁明する。日本人大使館員たちは、その前に脱出していた。
 現地人スタッフが一緒に脱出させてほしいと頼んだが「本国の上司に尋ねないと許可は出せない」として「紹介状」(?)を渡されただけだったという。

 米軍は沖縄・普天間飛行場から、発がん性物質を含んだ消火剤を平気で下水に放出した。薄めたからいいだろうと、福島原発処理汚染水と同じケツのまくり方。
 米軍の植民地の宗主意識は抜けていないらしい。

 『粗にして野だが卑ではない』という本があった。
 ふと、そんな本のタイトルが頭に浮かんだ。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。