第18回:ふくしまからの日記──飯舘村・南相馬・浪江町「国が悪いの、企業が悪いのって言ったって、私らもそれをちゃんと監視できねかったし」(渡辺一枝)

 つい先日まで「暑い、暑い」と言っていたのに、もうすっかり秋になっていました。彼岸花ももう末枯れて、金木犀の花も既に散りました。花たちの季節の巡りは、確かに早くなっています。かつては、彼岸花は名前の通りに秋彼岸の頃に咲きました。金木犀が香り出すのは10月の声を聞いてでした。これも温暖化の影響でしょうか?
 遅くなってしまったことにちょっと気が引けながら、8月の福島行の報告です。すでにワクチン接種は2回済ませた後で、出かける前にPCR検査と抗体検査をして行ってきました。

飯舘村

菅野榮子さんの話

 最初に飯舘村へ。先月の被災地ツアーでは菅野榮子さんの家にはチョコッと寄っただけで、ゆっくり話ができなかったから、まずは榮子さんを訪ねた。
 原発事故から10年経ち、榮子さんも帰村してもうじき3年が経つ。問わず語りに今の心境を語ってくれた榮子さんだった。

 「いろいろあるなぁ、10年だからな。
 10年過ぎて飯舘では、都会に行った人と田舎に残った人とに分かれた。部落(佐須地区)の総会があったけど、どうしていいか判んないみたい。地域づくり、村づくりは、その土地、地域に住む人が、ちゃんと自分の足で地面に足をつけて生きてる者が、本当の自分の気持ちを、子どもの未来を守るために地域を守るために、ということで意見を出し合って村づくりするのが本当だよね。私はそう思ってんだ。私らの年代の人は息子が育ってっから、集会サあんまり出ないのな。息子たちが行くべ?
 私は先祖代々伝わってきたところに入ってきた嫁として、村で生まれた者に嫁いできただけの者だけど、飯舘の村づくりの中で『までい(丁寧)な村づくり』っていうことでやってきた。私の考えで部落の人を動かすってことでないよ。だけど東京の人が来てアドバイザーとして知識階級の人たちが将来像として提言するのは、また違うべ? ここから家ぶっこして(解体して)、都会サ住んでる人も居るわけだ。だけど総会やったりなんだりすると、飯舘村の住民だってやって来て意見述べたり、賛否とったりするわけだ。こういう人たちはナ、後に残して維持費がかかるものは一切残さないっていう考えだ。でもここに居て昔ながらの百姓やってきて細々ながらも自分一代は夏の野菜作って暮らすとか、まぁここで生活してる人とは、また考えが違うよな。一昨日も老人クラブの会長やってる人、花作りを一緒にやってる人のとこ行って話してきて、考えてる。2人でああでもねぇ、こうでもねぇってしてるけど、なかなか難しい」
 村の共有財産である分校の活用を巡って問題が生じて、すっきりと解決してはいないようだ。

 「ほいで、賠償金が、汗を流さない金が入ってくるもんだから、村民の地域の人のコミュニケーションが、避難前とは全然違う。『オラはお金があっからお前らの世話になんねくたって、ちゃんと暮らせる』って腹だからな。こいつがはぁ、言葉で出てくんだから。オラは行くとこあんだから、クソ面白くないことあれば、すぐに行くとこあんだからって言わっちゃれば(言われたら)なぁ」

 「この間京都の人が来た時『たぁくらたぁ』を渡してあげたのな。『たぁくらたぁ』との繋がりは、小海(長野県)の凍餅(しみもち)作りからだ。仮設たたんで出る時『たぁくらたぁ』は1冊も投げなかった(捨てなかった)。全部持ってきた。書いてる人は、私らと同じような生活してる人だ。原発事故起きて凍餅作りに行った時10歳だった人たちが、今度は書くようになっている。自分の心をちゃんと出すような文章を書いている。こういう形で繋がっていけば、地に足ついて歩み出している。国が悪いの、企業が悪いのって言ったって、私らもそれをちゃんと監視できねかったし、阻止できねかったから、私らも何も責任がねぇわけじゃねぇ。阻止できなかったんだからな。
 だけんじょ阻止できなかった理由を、今の国民はちゃんと認める活動をしてかなきゃなんねぇ。私は、そう思ってる」

 「まぁねぇ、私は85歳、三羽烏の芳子さんとトシ子さんは84歳。若い人たちも混ざってもらって10年も20年も味噌作りしてきたのな。85や84になったら認知症の片っ端は入ってっから(と言って榮子さんはワハハと大きな声で笑った)、『こう言ったべ?』って怒らっち。『そんなおっきな声で言わねぇだって聞こえるわ』(と、また大声でワハハと笑う榮子さん)、そういう風に私は、こんな明るい性格だから生きれんのな。メディアの人が『いつでも元気』って出してくれたのな。元気なふりしてるだけだって、思ってっけどな。元気に見えるかもしれない。
 でも子どもの頃はおとなしくて、黙って大人の話を聞き分けてた。お茶飲みしてるばあちゃんたちの話な。それが、全部覚えてんだよ。ばあちゃんたちが集まって、お互いに漬物持ちあって、ばあちゃんたちがお茶飲みながら話してんの聞いてたんだ。
 小学校のうちは男女共学でねかったから、喧嘩もしないししゃべる必要もねかった。だけんじょ、中学校から男女共学になったべ。そしたら中学1年生、2年生くらいになっと女は洒落っ気が出てくるし、男は何か悪さやってみたくて新しいことやってみたくてしょうがねぇんだな。ほして今度は、生徒会というものの基本的なこと教えられたのな。帝国主義から民主主義になった時代だったから、生徒会の在り方を教えられっち。ほして学年の生徒会があって、全校生徒の生徒会があった。私はいつでも全校生徒の生徒会に行く役割だったのな。上・下の男の人たちが悪さやる組だったの。なんかやってみたい年だったから、なんかやっと全校の生徒会で『◯年◯組の人がこういう事をしました』って言わっちゃうと、言ったのは私らの学年になるわけだべ。だから言われた男と喧嘩したよ。ほして喋るようになった。説得しておかないと、何やっか判んねぇ年だからな。親は忙しくて、子どもを説得する暇も無い。学校で子どもが何悪さしてきたんだかなんて判んないんだから。
 だけど口の喧嘩で、取っ組み合いの喧嘩はした事ねぇよ。女の人と男の人と取っ組み合いの喧嘩もするような時代だったから、私らの時はな。やっぱり生徒会の中で民主主義の会議の在り方とか。一人一人の意見をまとめてどういうふうに正しい方に仕向けていくかってことは、やっぱりあそこで習った。
 後で大人になってから本読んだりなんだりして、色々勉強してきたな。人の心まで引っ掴んで一緒には喋んない。自分の心しか喋んない。そう思ってる。人は、なんぼ私の前で『そうだなぁ』なんて言ったって、どう思ってっか判んない」

 「まぁ、一軒の家に入ってる(住んでる)ってのは、大変だな。周りに草は生えてくるしマンションに住んでも管理費がかかるのと同じで、一軒の家はやっぱり大変だな。大家族でやってきたから、それぞれが役割分担しながらやってきたから、何もかも自分でしねぇでも外に出て働いても通してこらっちゃった(やってこれた)けんど、じいちゃん、ばあちゃんの仕事も有り難かったなぁって思ってる。大家族で住むってのは、大切だよ。じいちゃん、ばあちゃんが居るってのは、人の心を温かくする。テレビ見たって、のど自慢出てくる若い男の子、女の子が何言うかっていうと『田舎にいるじいちゃん、ばあちゃんを思い出して歌いました』って言うんだよ。その歌をじいちゃん、ばあちゃんに届けたくて出たんだって。その心な。そういう心がないと、後ろも前も振り向かないで無差別の犯罪したり出来んだな。自分中心で。つくづく思った。私ら、ばあちゃんとじいちゃんと喧嘩しながらやってきたけど、親子の関係、嫁姑の関係、爺婆と孫との関係ってのは、全然違うからな。
 味噌20年撞いて、踊り20年やって、村の文化活動やってきたよ。婦人会長6年間やったもの。1200人くらい会員居たんだよ。仲間の芳子さんたちも居たから、私が外に出てばあちゃんのオムツ替えらんない時も『ばあちゃんのオムツ替えてくれろ』って頼んだりしてな。人の組織まとめるってのは大変だし、でも仲間に助けられて、その中で勉強させられた。だから、有難いなぁって思ってる」

 「仮設さ行ったら、最初は泣いてたけんじょも、原発に侵さって今日死んだらいいか、明日死んだらいいかって泣いてたけんじょも、味噌の里親後援会立ち上げっ時に『飯舘の、までいな生活の講演会してください』って言われて、最初に東京さ話に行って、喋ってた時に、私泣いちゃったの。シーンとなっちまったべ。はぁ、私が泣いたから。ほしたら誰だか知んねぇ男の人が、『菅野さん、泣かないでください。福島の東京電力の電気は、この東京の私たちが使ってたんだから、私らも黙っては居ませんから、泣かないでください。私らも頑張りますから、泣かないでください』って言わっちゃったの。
 その声がはっきり聞こえたのな。ハァって思って立ち上がったの。私らは、東電があったために行政が何も恩恵受けてたわけでねぇし、そこさ勤めて豊かになったわけでもねぇし、何だかかんだか判んねぇで居っときに計画的避難ですって出されちゃったわけだべ。ホットスポットって言葉、知らなかったもんな。今野さんみたいに原発で働いていた人は、知っていたんだよ。高木先生だって今中先生だって、木村先生だって、みんなホットスポットのこと知っていたんだよ。
 ほうやって私らも判って、逃げるより他ないんだって思って。2年なんてすぐ過ぎっから。村は2年の内になんとかしますからすぐ出てってくださいって、言わっちゃったから。2年なんてすぐ過ぎると思ったから出たんだわよ。したら、丸6年だよ。ほいで田中俊一(原子力規制委員会初代委員長)さんの一族を頼んで『安全です。安全です』の講演会ばっかり、やってきたんだよ。村で講演会やってるうちは聞きに行ったことねかったけど、それ以後の新聞さ出たりしたのなんかは取っておいた。大切な資料は切り抜いて取っておく。不安で眠らんねぇ時は、資料を読んで心を落ち着けながら生きてっけど、まぁなぁ、こうやって11年も12年も生きてきて、雨露凌いで居られるうちは幸せだって思ってっけど、でも1年1年歳とっていくと、そしてコロナもひっ絡まっている訳だし、まぁどうなるのかなぁって思うよね。
 横浜市長選は、菅(義偉)さんが推してた人落ちたな。誰がやってもどの政党がやっても、100人全員が『ありがとう』という政治はないと思う。だけど多くの人が、まぁまぁ我慢ができる政治であれば、私たちも我慢せねばって思ったのは、アレクシエーヴィチさんの本、読んだのな。ジャーナリストの鎌倉英也さんがN H Kの取材で彼女と来たのな。ほして『アレクシエーヴィチとの対話』って本が出て、送ってきたのな。全部完読したんだけんど、いやぁソヴィエト連邦なんて昔、私ら子どもの頃スターリンなんて居たの覚えてるよ。そうやって築いてきた共産主義の国だけど、ああいうとこよりは日本のこの資本主義の国の方が、よっぽど良いなぁと思った。私は、そう思った。
 四季折々に景色が変わって、東からお日様が出てきて西の山に暮れる。そういう自然の中で生きるってことに幸せを感じながら、そこの自然の中で自然と共生しながら、こういうところの人がどういう道を生きるのかってこと、どういう道筋を残していくのかっていう、その足跡作りだと思って頑張ってる。だから役場の人だの、社協の人だのが一人暮らしの人たち訪ねてきた時は、ちゃんと私の思ってること言ってやるの。
 女の人も、自分に素質があって能力があれば、旦那さんにしがみついていないで自分の能力を世の中のために使わないでいる時代ではないな。女性の立場からも提言していかないとって思う」

 榮子さんの話は、もっともっと聴いていたい。もっと話をしていたいと思いながらお暇して、次に長谷川健一さんの家に向かった。

長谷川健一さん、花子さんの話

 健一さんに今年の蕎麦の実り具合をお聞きしたかった。5月に訪ねた時は体調がすぐれないようだったし、6月には留守だった。7月は「被災地ツアー」で、榮子さんは訪ねたけれど長谷川さんのところには寄れなかった。この日の朝電話をすると、午前中は出かけているが午後は在宅しているとのことで、榮子さんの家を出て道の駅で昼食を済ませてから長谷川さんの家に行った。
 途中何ヵ所か、蕎麦畑を見て過ぎる。蕎麦は今、花の季節。一面の白い花が風に揺れている。2年前に長谷川さんの蕎麦畑を見た時には、畑の周囲は電柵で囲われていたが、見て過ぎた畑には電柵が施されていないようだった。猪や猿は、蕎麦は食べないのだろうか?
 長谷川さんの家に着いて、挨拶の後で尋ねてみると「いやぁ、猪も猿も蕎麦は大好きだよ。電柵やっても、やられちまうことあるからな」という返事だった。それなら来る時に見た畑も電柵があったのかもしれない、私が見落としていただけなのだろう。花が咲く頃から雨が多かったので、実りはあまり良くないという。それでも、この1、2週間の内に刈り取らねばという。その間ずっと晴れた日が続くと良いけれど、と思った。
 来る前に道の駅で食事をしたとき、以前のメニューには無かったのに手打ち蕎麦が載っていた。聞くと長谷川さんの蕎麦だという。それなら蕎麦を注文すれば良かったと思ったが、後の祭りだ。以前に長谷川さんからいただいた蕎麦粉は、私は蕎麦が打てないからそばがきとガレットに焼いて、どちらも美味しく食べた。麺で食べてみたいなと思った。
 花子さんに「日本茶とコーヒーとどっちがいい」と聞かれて、コーヒーをお願いした。綺麗な花柄のついた白磁のマグカップで、コーヒーが出された。美味しく頂いていると、花子さんが「一枝さん、これ持っていかない? 私が作ったの」と、マグカップをさして言う。無地の白磁の器にシールを貼って絵付けをし、焼いて仕上げるそうだ。マグカップの他にもティーカップとソーサーのセットや小皿など、花子さんの手になる作品をたくさん見せて頂いた。感心して見ている私に長谷川さんは「こいつは好きなことを、好きな様にやってるよ」と、花子さんの行動を十分肯定している口調で言った。前にも思ったことだけれど、やっぱりこの日もまた思った。「いいご夫婦だなぁ!」。
 パンジーの様な紫色の花柄のマグカップを一つ頂いて、花子さんにはお礼を、健一さんには「お大事に」を言って失礼した。

 後日のことだ。花子さんの器を、私が主宰する「トークの会 福島の声を聞こう!」で販売したいと思い、花子さんに電話でお願いをしてみた。個数や期限など無しで、花子さんが好きな様に作って一定の数になったら、私が引き取らせていただくということで話はついた。「私の趣味に付き合わせてるみたい」と花子さんは言うけれど、そうではない。あれから私は毎朝、あの日に頂いて帰ったマグカップを朝食時に使っている。綺麗な花の模様が、朝の気分を快くしてくれるのだ。今度のトークの会には間に合わないが、次の会にはきっと、幾つか並べることができるだろう。それもまた楽しみだ。

南相馬

 今回の福島行はずっと前からお話を聞きたいと願っていた、高橋美加子さんに会うことが目的だった。約束の時間は夕方なので、その前に久しぶりに小高の梅田照雄さんを訪ねたいと思った。電話をすると出かけているが夕方は在宅しているとのことだったので、まずは元「六角支援隊」隊長の大留隆雄さんの家に行った。

大留隆雄さん

 大留さんは体調が良さそうで、前よりもなお、スッキリと爽やかな顔つきだったので、私は思わず「大留さん、なんだか若返ったみたいに見えますよ!」と言ってしまった。大留さんはただ笑っていたが、同行してくれていた今野寿美雄さんがすかさず、「足の痛みも消えて、ストレスが無くなったのでしょう」と言った。大留さんは「やること無くて、テレビばっか見てるんだよ」と言い、すると今野さんがまた「それじゃぁ呆けちゃうよ。テレビの見過ぎは気をつけなきゃ」と言った。
 運転免許証も返上したから一人では外出できないが、日用品の買い物に息子が出る時には、大留さんも一緒に行く様にしているという。「そうでないと一日中、動かないで何もしないで終わっちゃうからね」と言う大留さんだった。でも、そうした買い物も毎日のことではないだろう。コロナ禍で人と接することも少なく刺激がない日々だから、頭や体を働かせるような工夫が必要だろうと思う。せめて私も、できるだけ訪問したり電話をかけたりしようと思った。

梅田照雄さん

 梅田さんに会うのも2年ぶりだ。南相馬に来るたびに何度か連絡を取っていたが、いつも都合が合わず、訪問できずにいた。前回も電話した時は、梅田さんは眼医者さんの待合室に居るときだった。その後、白内障の手術をしたそうだ。白内障の手術をしたらとてもよく見える様になったという話を聞くことが多いから、梅田さんにも尋ねてみた。「まぁまぁだな」という返事で、「とても良くなった」という例はたまたまなのかもしれない。

 梅田さんは東日本大震災後、勤務先の土木会社を辞め高齢の母親を連れて妻と共に避難し、そこで母親を亡くした。避難指示解除後に夫婦で自宅に戻り、戻った仲間たちと共に蕎麦の栽培を始めていた。そのかたわら、介護施設の送迎ボランティアをしていた梅田さんだが、今はもうボランティアは辞めたと言う。高齢者の事故がたびたびニュースになっているので心配で、免許証も返上したそうだ。でもお連れ合いは今も、施設の給食作りのボランティアを続けているという。
 梅田さんに今年の蕎麦の出来具合を尋ねると、これもまた「まぁまぁだな」と答えが返った。私が梅田さんに初めて会ったのは2018年秋、私が飯舘村の長谷川さんの家にいた時のことだ。収穫した玄蕎麦の脱穀製粉を長谷川さんに頼みに来たのが梅田さんだったのだ。
 その後私は何度も小高区の大富に梅田さんを訪ね、話を聞かせてもらってきた。前に話を聞いた時には、蕎麦作りの仲間はみんな高齢者で「俺が真ん中くらい」と言う梅田さんだったが、あの時の梅田さんは75歳だった。今日また、「みなさんお元気ですか」と尋ねると、「ああ、みんな元気だよ」の答えを聞いて、ホッとした。コロナ禍の日々でも、時折仲間たちで集まっているということも聞き、またそれにもホッとした。
 心配事は絶えないけれど、お互いに元気でいましょうねと言ってお暇した。

浪江町のミズアオイ

 梅田さんの家を出てから浪江町を回った。更地になった浪江小学校には、少女の白い立像が残るだけ。酷いなぁと、また胸が痛い。「ふるさと」を土足で踏み躙っておきながら、「ここに印だけつけておいてやるよ」と言わんばかりのやり口ではないか。
 映像で解体の様子をずっと撮り続けている写真家の中筋純さんは、浪江の人たちの悔しさも、悲しみも、憤りも、そして感謝と惜別の思いも映像記録に残してくれるだろう。
 浪江小を見た後で、純さんが見つけたミズアオイの群落地を見に行った。もう夕方でもあったし、あいにくの曇り空で雨も落ちてきそうな空だった。そんな鼠色の空の下で群れ咲く花は、草の緑に霞む様に広がっていた。残念ながらこの天気では、冴えた青紫は望めない。晴れた青空の下で見たら、どんなに美しいことだろう。
 純さんは浪江町の撮影行では定点観測のように、同じ場所を撮り続けている。被災前には田んぼだった水溜りもそうした場所の一つで、そこでは水面に阿武隈山が逆さに映るのだった。だがそこは除染土の仮置き場になった。次々にフレコンバッグが搬入されて、積みあげられていった。積まれていたフレコンバッグが中間貯蔵施設に搬出されたのは、1年半ほど前のことだ。この夏のある日、浪江小学校解体の撮影に通っていた純さんがそこに行ってみると、青紫の花が群生していたのだ。フレコンバッグが運び出された後のついこの間までは、草が茂っているばかりだったのに。何の花かと調べてみると、水田や沼地に生える一年草のミズアオイだった。ミズアオイは葉の形が葵に似ていることからこう呼ばれるが、準絶滅危惧種の植物だ。
 純さんはフェイスブックに浪江での撮影行について発信し、そこではこのミズアオイのことも時々投稿している。それを読んでいて私も、ミズアオイの「青紫」を目に染めたかったのだ。原発事故から10年目に、こうして現れた青紫の花の群生に想いはさまざまに巡る。「復興」のシンボルの様に言う人もいるらしいが、そんなふうに擬(なぞら)えるのは違うのではないか。そこで生きてきた人たちが生業を取り戻した時が「復興」と言えるのであって、たまさか群れ咲いた花をシンボル視するのは、当たらないと思う。

小高双葉屋旅館

 浪江から小高に向かう道で、合歓の花が咲くのを見た。8月ももう終わろうとしているいま咲いているなんて、この夏2度目の花なのかしら、それとも名残の花なのかしらと思いながら見て過ぎた。
 高橋美加子さんには、会って話を聞きたいと思っていながら、なかなか機会を持てずに月日が経っていた。美加子さんの名前を聞いたのは、南相馬に通い始めてから1年ほど経ってのことだった。ある児童書出版社の雑誌に寄稿した私の文章を読んだ読者から、出版社経由で手紙が届いた。震災後、小高から福島市に避難しているT子さんからだった。私はT子さんへお礼の手紙を書いて出し、手紙のやりとりを何度か繰り返した後、ある日の私の福島行の際に会った。顔を合わせて話してみれば、手紙を交換していた時よりもなお気持ちが通じ合い、あれもこれもと互いに話したいことが溢れた。そんな話の流れの中で、T子さんに誘われて生活評論家の境野米子(さかいのこめこ)さんの家を訪ねた。2013年の春だった。
 米子さんの家は福島市飯野町の古民家だった。薬剤師でもある米子さんはご自身が体調を崩されたことを契機に、玄米粥。野草茶や野菜料理、自然素材の洗剤などを研究、実践され著書も多い。体に優しくおいしいお昼ご飯を頂きながら、たくさんのお話をお聞きした。米子さんは私が南相馬に通っていることを知ると、高橋美加子さんに会うようにと勧めてくれた。なぜ勧めるのかの説明はなく、南相馬でクリーニング店をしているとだけ聞いた。それからの日々、南相馬に通いながらも美加子さんには会えないまま過ごしていた。
 2年前のことだが、予約していた双葉屋旅館の食堂で女将の友子さんが私に「一枝さん、この人が美加子さん」と言って紹介してくれた。その途端、美加子さんと私は同時に「会いたかった!」と言ってハグしあったのだった。私は米子さんから名前を聞いて以来、いつか会いたいと願っていたのだが、美加子さんは初期の頃の私の本を読んでいて、会いたいと思っていて下さったそうだ。その日は互いに連絡先を交わし、いつかゆっくり話を聞かせてくださいとお願いして、美加子さんは帰っていった。
 8月になってから美加子さんに電話して、24日に双葉屋旅館で会う約束をした。この日、飯舘村から浪江を経て、夕方に双葉屋旅館に着いた。この日も白髭幸雄さんも一緒に夕食の膳を囲むことが判っていたから、今野さんは浪江の道の駅で“燃料”を買ってきていた。
 部屋に荷物を置いてお風呂に入った後で食堂に行くと、白髭さんと今野さんはもうそこにいて、”燃料”のグラスを傾けあっていた。程なく美加子さんもやってきて、互いに挨拶を交わして席についた。白髭さんと美加子さんは初対面だった。新型コロナウイルスの感染防止用のプラスチックボード越しに白髭さんと美加子さんは自己紹介をしあい、男性たち二人ももう一度乾杯からやり直して、飲食しながらの会話が始まった。
 美加子さんは原町で「北洋舎クリーニング店」を営み、複数の店舗と20人近い従業員を抱える株式会社の社長だ。白髭さんも美加子さんも原発事故後一旦は避難したが、その後南相馬の自宅に戻って暮らし続けている。白髭さんは、避難先から戻ってからの美加子さんの活動が印象に残っていたらしく、被災の年のことに話題が集中していった。女将の友子さんも会話に加わって、飲みながら食べながら、話題は尽きない。
 美味しい食事をいただきながらアルコールも入り、美加子さんも今日は帰らずに双葉屋さんに泊まると言うので、美加子さんから話を聞かせてもらうのは明日にしようとばかりに、私も普段は飲めないのに焼酎のお湯割りに梅干しを入れて飲みながら、会話に加わっていた。そのうちにトロトロと心地よく眠くもなってきて、今野さんに「一枝さんは、もう休んだ方がいいですよ」と言われ、「はい、そうします」と、翌日昼に美加子さんの家を訪ねる約束をして座を外したのだった。

 美加子さんにお聞きしたことと併せて、続きの報告はまた後ほどに。

一枝

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。