第19回:ふくしまからの日記──南相馬「被曝地と呼ばれるまちにわれら住む未来の扉開かんとして」(渡辺一枝)

 書くのが大変遅れてしまいましたが、8月に福島に行ったときの日記、後編です。
 ですが、本文に入る前に悲しいお知らせをしなければなりません。10月22日、前回の日記にも登場している、飯舘村の長谷川健一さんが逝去されました。享年68歳。謹んで長谷川さんのご冥福を祈ります。大切な人の命が奪われてしまった思いで、とても悔しいです。でも、長谷川さんは、なおなお悔しく無念の思いを抱いて逝かれたと思います。「原発要らない。全てを廃炉に」の声を上げ続け、再稼働の動きに抗っていくことを、あらためて誓います。

※8月の福島行きの報告、第18回の続きです。

すぎた和人さん のスタジオへ

 昨夜のうちに高橋美加子さんと相談して、(8月)25日は美加子さんの家で昼ごはんを一緒に食べることにしていた。そして美加子さんはこの日は双葉屋さんで朝食を済ませるとすぐに、仕事場へ戻っていった。私たちはゆっくり朝食をいただいてから、双葉屋女将の友子さんに案内してもらって、アーティスト・すぎた和人さんの「スタジオ・サードアイ」へ向かった。
 私がすぎたさんと知り合ったのは「トークの会 福島の声を聞こう!vol.2(2013年6月)」の会場で、すぎたさんが発行していた雑誌『J-one 生命あるもの』を販売したことからだった。震災後の生き方を探り、読者にも問いかける内容で、A4版で薄いページ数ながら、中身の濃い雑誌だった。それ以降のトークの会でも、何度か販売させていただいた。
 すぎたさんは1990年代に何度もネパールに通っていたが、3・11後には岩手・福島に通い、現地取材したことを上述の雑誌『J-one』で発信していた。だからそこには、ネパールの記事も載っていることがあった。そんな点でも私は、すぎたさんに近しさを感じていた。
 東京でのトークの会だけではなく、ボランティアで南相馬市の小高に通っていたすぎたさんに福島でも何度か会っていたが、すぎたさんはその後2017年からは小高に移住した。そして地域の人たちの活動を支援するとともに、自身の活動として映像を制作したり絵を描いたり、時々はカレー屋さんになったりもしている。また、チェルノブイリ原発事故を経験したウクライナとの交流も重ねて、ウクライナの消防士達のインタビューを記録している。何本か小高近辺での映像記録も制作し、その一つ『小高の春』は、小高の日常を静かに描き出していて、すぎたさんのアーティストとしての感性が溢れている。
 小高を拠点にするようになってからのすぎたさんにも双葉屋旅館で何度か会っていながら、私は住まいを訪ねたことがなかった。今回は小高区の山間部大富に拠点を定めたすぎたさんの住まいを訪ねることができた。すぎたさんが入れてくれたチャイ(ネパールのミルクティー)を飲みながらお喋りをしている中で、すぎたさんが言った。「一枝さん、ここで一枝さんのチベット夜咄の会をしませんか?」と。チベットの話ならいつでも、どこででも話したい私は、即座に「いいですね、ぜひやりたいです」と返事をした。この件はその後の相談の末、11月23日(火・休)午後5時から催すことが決まった。ネパールに通いチベットのこともよくご存知のすぎたさんのスタジオでのチベット夜咄の会、私にはとても嬉しく、その日が楽しみだ。

高橋美加子さんの話

 すぎたさんの「スタジオ・サードアイ」を出てから、美加子さんの主宰する「まなびあい南相馬」事務所を訪ねた。美加子さんは原町区で「北洋舎クリーニング」を営み、5つの店舗と25人の従業員を抱える株式会社の社長だが、その生業の一方で「まなびあい南相馬〜こころに希望の種を植えよう〜」を主宰して、地域の人たちの歴史や暮らしについての聞き書きを発信するほか、様々な活動をしている。
 この日、美加子さんは一緒に食べる昼食に、今野寿美雄さんがリクエストしたそうめんの用意をして待っていてくださった。四葉のクローバーのような変形のテーブルは、いろんな人が自由に集まり語り合える場にしたいと特注されたものだった。その上に薬味や漬物、煮物がおかれていた。「天ぷらは顔を見てから、揚げたてが美味しいからね」と言いながら美加子さんが天ぷらを揚げている間に、私は本棚の本の背表紙を眺めていた。他人の本棚は、とても興味深い。美加子さんの本棚には私の本棚と同じものが何冊かあった。竹内敏晴さんや野口三千三さんの著書名に、同じような思想遍歴をたどった美加子さんを私は感じていた。
 美味しい昼ごはんをいただいた後で、話を聞かせていただいた。

株式会社北洋舎クリーニング

 このクリーニング店は美加子さんの父親の保夫さんが1948年に起こした店で、保夫さんはバイクで集めた洗濯物を、開店祝いに仲人から贈られた洗濯板で丁寧に洗ってアイロンをかけ顧客に戻していたという。洗濯板の山がすり減ると鉋で削り、また洗いを繰り返すうちにもう削れないほど洗濯板が薄くなったので、水洗ワッシャー機を導入したそうだ。保夫さんのアイロン掛けの技術は職人気質で、顧客の評判も良く店は繁盛した。1956年にはドライクリーニング工場を開設したが、これは県下で三番目のことだったそうだ。最新技術を追求し仕上がりにこだわる姿勢が地元の信頼を得て、商売は順調だったという。
 1968年、短大を卒業した美加子さんが北洋舎に入社した頃、北洋舎の社員を引き抜いて商売を始めたライバル店が現れたが、美加子さんはこの危機を商売のやり方を変える機会と捉えた。御用聞きではなく店頭受付方式に変え、会員組織を目指していったのだ。職人気質の保夫さんと合理的に進めようとする美加子さんとでは、意見の食い違いが生じることもままあったという。
 姉妹三人の長女だった美加子さんは1970年に婿取りの形で貞見さんと結婚し、夫婦の間には一男二女が生まれた。北洋舎は父・保夫さんを中心に美加子さん夫婦、妹夫婦でやってきたが、その後貞見さんは会社から身を引いた。
 私たちが訪問時の昼食にいただいた揚げたての天ぷらの茄子やカボチャ、ニンジンなどの野菜は、貞見さんが畑で作ったものだという。無農薬で野菜本来の甘味があって、茄子など形は不揃いだが美味しかった。

中小企業家同友会

 2002年、80歳になった保夫さんは代表取締役の座を美加子さんに譲った。美加子さんが54歳の時だ。会長職に退いた保夫さんは安心したのか2年後に倒れ、そのまま寝たきりになった。本店の他にスーパーマーケット「フレスコキクチ」に営業店舗も出していた北洋舎の経営は美加子さんの双肩に掛かった。中小企業家同友会に入会し、異業種間の経営者の集まりで地域の情報や経営情報などについての勉強会を重ねていくことが、美加子さんにとっては経営の大きな助けになったという。
 社是として掲げた「共に働くすべての人と幸せを分かち合える、信頼の会社作りをします」を胸に歩みながら、北洋舎はここで働く従業員のためにあるということを実感した美加子さんは、少しずつ従業員に仕事を任せるようになっていった。それによって少し余裕もできたころ、短歌の世界に出会い、三十一文字の歌作りにものめり込んでいく。
 社長室の壁には美加子さんのデスクを見下ろすように、保夫さんの使った洗濯板が額装されて飾られていた。洗濯板には墨で「努力」の文字が揮毫されている。保夫さんの仕事ぶりに心打たれた顧客の日本画家が書いてくれたという。2010年、母のヨシ子さんに動脈瘤が見つかり、自宅では保夫さんの介護を続けられなくなった。やむなく施設に入所した保夫さんは急激に衰えていった。そんな父の姿に美加子さんは、三十数年前に父が開店した着物洗い専門店「京都屋」を新装開店しようと決意し、父にそれを告げた。だがその開店の日を待たず、翌2011年3月1日、保夫さんは静かに息を引き取った。葬儀は6日になった。職人気質だった保夫さんの技術を愛した創業以来の顧客が多数参列して、盛大な葬儀だったという。

2011年3月11日

 父の葬儀を終え、3月10日には父に約束していた「京都屋」の新装開店だった。目標として励みにしてきた開店初日を終えて、父への供養を果たしたと思うと虚脱感を抱いた美加子さんだった。
 そして翌日、いつものように朝が明け、忙しい1日が始まった。昼食を済ませた午後2時46分、東日本大震災に見舞われたのだった。
 大きな揺れと津波に襲われたが、幸い工場の被害はなくホッとした。しかし、夜のニュースが福島第一原発事故と原子力緊急事態宣言発令を伝えた。翌12日早朝、半径10キロ圏内に避難指示が発令された。美加子さんは工場の操業ラインを止め、出勤してきた従業員を次々に帰した。長女が仙台から孫を連れて父の葬儀に参列したまま留まっていたが、幼い孫を放射能から守らなければと思った貞見さんがなんとかガソリンを入手して、長女家族を連れて次女の嫁ぎ先の田村市に向かった。15時36分、福島第一原発1号機水素爆発。13日、20キロ圏内に避難指示が出された。
 14日11時過ぎ、3号機水素爆発。母親を家に連れ帰っていた末の妹家族も避難の準備を始めて「あんた一人だげを残しておくわけにいがねぇから。一緒に乗って」と美加子さんを促し、15日未明に5人で福島市に向かった。6時14分、4号機が水素爆発。福島市に2日居た後、ガソリンをようやく手に入れた夫と合流して、仙台の長女家族のアパートに移動した。母に頼まれて診察予約日変更のために仙台の東北大学病院に行くと、「南相馬の人はスクリーニングを受けてから入室してください」の貼り紙を見た。美加子さんが履いていた靴からは基準値を超える数値が出て、没収された。
 23日、友人の車に同乗させてもらい、夫婦で原町に帰った。屋内退避を命じられた原町ではすべての店がシャッターを閉じて、新聞も商品も30キロ圏内には届かなくなっていた。25日に会社の休業届を出し、従業員の4月分の給料を休業手当で確保した。この先を思って呆然としているときに、ファックスが届いた。中小企業同友会からだった。「さすけねぇ(大丈夫、問題ない)福島、やるべ中小企業 中小企業家同友会・東日本大震災対策本部 震災復興ニュース創刊号」とあり、中小企業家として地域経済と雇用の守り手として、社員と取引先、顧客を守るために行動しようという呼びかけだった。その後も2号目の通信が届き、企業と地域のために前進しようと呼び掛けていた。
 それを読んでもどこに向かって進めば良いのかと思いあぐねていた美加子さんが、はたと思い至ったのは預かったままの衣服のことだった。その中には喪服も多数あった。津波による死者数も多く行方不明者も多い南相馬だったから、預かっている喪服を遺族に渡せるように店を開けなければと思ったのだ。4月の声を聞いてからのことだった。
 4月10日から本店を半日だけ再開することにして、ホームページにその知らせと共に原発事故以来感じてきた自分の気持ちを載せた。原発から30キロ圏内の原町区は屋内退避が続き、これまで精魂込めて培ってきたものすべてが根底から崩壊されたこと、その中で恐る恐る半日営業を始めることにしたことを、そこに綴った。
 4月10日、店のシャッターを開けると、洗濯物を抱えた馴染みの顧客の姿があった。抱き合って再会を喜び、地域にとって北洋舎は必要な存在なのだと強く感じた美加子さんだった。

原発への思い

 美加子さんは若い頃からエコロジー運動に関心を持っていて、仙台に住む加藤哲夫さん(せんだい・みやぎNPOセンターの設立者、エコロジー運動の草分け的存在)が発行するパンフレットによく目を通していた。結婚して子どもが産まれると、エコロジーへの関心は一層強くなった。そんなとき手に取って強く心に残ったのが、宮城県の女川原発建設に反対する人たちが作成した冊子『カウントダウン』だった。
 そこには「原発が爆発したら制御が効かず、危険性の範囲は20キロから100キロに及び、逃げるしかない。だから宮城県女川原発や、福島県棚塩原発建設には反対しなければいけない」と書かれていた。棚塩は北洋舎からすぐ近くの地域だ。東北電力は浪江町棚塩と隣接する小高町浦尻にかけて浪江・小高原発の建設を計画し、両町の町議会は誘致を議決しようと図っていた。ところが棚塩の地権者の一部が、「原発に土地は売らない」と土地売却に応ぜず建設誘致に抵抗をしていた。『カウントダウン』を読んで美加子さんも原発建設には絶対反対の思いを抱いたが、電力を大量に消費するクリーニング店の立場では、それを口に出すことは出来ずに月日は経っていたのだった。
 原発事故後の一時避難の後で自宅に戻って店を再開させた美加子さんが発信したホームページには、「南相馬からの便り」として3・11後の美加子さんの気持ちが、まっすぐに綴られていた。原発事故は人災であり、事故後に放出された放射能が、日々の暮らしを脅かしていることが書かれていた。また電気を使う時には、それは30キロ圏内の犠牲の上に成り立っている電気であることを思い起こし、そこで暮らす人のいることを忘れないで欲しい、自分の身にも起きることとして考えて欲しいと綴られていた。そして、誰かの犠牲の上に作られた電力で成り立つ社会を変えようという声を発信して欲しい、その声が届いた時に、現地は絶望的な苦しみから抜け出せると結ばれていた。
 この「南相馬からの便り」には、大きな反響があった。まず加藤哲夫さんがブログに転載し拡散してくれた。仙台で脱原発・エコロジー運動を進め、日本のNPO運動の先駆的役割を果たしてきた彼の応援は、本当に有り難かった。そして「南相馬からの便り」では、思うことをなお一層はっきりと発信していった。「原子力で電気を作るのは、もう、やめてください!」と書いて、発信していった。

経営者として、また発信者として忙しく過ぎた10年

 原発事故後に屋内退避指示が出された南相馬は物流も途絶え、人々は誰もが大きなストレスを抱え込んでいた。東電や国に対する不満や怒りは、対応にあたる市の職員やボランティアに向かった。市職員は自らも被災者でありながら市民の罵声を浴び、ボランティアの人たちも向けられた怒りに対処する言葉を持たなかった。不満が不満を生み、不信が不信を増長させるような空気が生じていた。そんな負の連鎖を変えなければ、まちの復興は望めないと美加子さんに言ったのは、地元でバーを営んでいる若い友人の須藤栄治さんだった。彼は、被災した南相馬に支援の手を差し伸べてくれている人たちに「ありがとう」を伝えることはできるはずだ、辛い思いをしているからこそ、感謝の気持ちからはじめるべきではないかと言った。
 須藤さんの言葉を受けて美加子さんは、もう一人の若い友人・宮森佑治さんも誘って3人で、「つながろう南相馬」というグループを立ち上げ、「ありがとうからはじめよう!」と情報の発信を始めた。その活動は、中小企業家同友会の後押しも受けた。だが屋内退避指示が解けて避難していた人がぼつぼつ戻ってきても、人々の心から放射能への不安は消えず、市中に漂う荒んだ空気は消えないままだった。その空気を変えたいと、美加子さんは伝手を頼んで鎌田實医師に講師を依頼。講演会を企画し、6月に開催して成功させた。
 7月には東京の代々木公園で開かれたアースガーデンで南相馬の現状を壇上から語り、支援を呼びかけ、多くの人からカンパが寄せられた。南相馬は忘れられていないという確信を得て原町に戻った美加子さんは、今度は中小企業家同友会や原町商工会議所、原町商店連合会の仲間達と共に再度上京した。原子力損害賠償問題の早期解決の要望書を政府に提出するためだった。首相官邸、経産省、文科省、原子力防災担当大臣、原子力損害賠償紛争審査会、東電、どこを回っても虚しい対応しかなかった。
 しかし、その後の美加子さんの活動ぶりには驚嘆するばかりだ。前年2月に中小企業家同友会の相双地区会長に選出されていた美加子さんだったから、尚のこと多忙を極めた。それでも、10月には「つながろう南相馬」として、ファシリテーターの助けを借りて対話集会「ファシリテーション講座」を催した。
 11月、母のヨシ子さんが亡くなった。3月に父の保夫さん、8月には美加子さんの活動を支えてくれていた仙台の加藤さんと、半年の間に大切な人たち3人を亡くしたが、そうした悲しみを振り払って、動き続ける美加子さんだった。
 翌2012年2月、市民文化会館「ゆめはっと」で「南相馬ダイアログフェスティバル〜みんなで未来の対話をしよう〜」を開催し、3月には前年の対話集会で出た「子どもを安心して遊ばせる場が欲しい」という声を受けて、「みんな共和国」と題するイベントを実施。子どもの「屋内遊び場」を実現させ、高校生たちは「じゅうだい国会」で、若い母親たちは「カフェウェンディ」、高齢者たちは「茶処じぃばぁ」でゆっくり語り合った。春休みが終わる4月8日までの期間中には延べ3400人が参加。その後も、毎月対話集会の開催を続けた。
 さらに7月には「みんな共和国」の仲間たちと共に、除染されたものの使われないままになっていた原町区の高見公園を清掃して、手作りの屋外遊び場を開催した。その活動が全国に伝わり、支援によって高見公園は固定的な遊具が置かれた「遊べる広場」となった。活動の輪はさらに広がり、南相馬市民と全国の支援者からの寄付によって、翌13年には小さな子どもたちが水遊びができるプール「じゃぶじゃぶ池」が生まれた。
 2013年になって、3月は東京・代々木公園でのアースガーデンでのトーク。さらに6月は「第16回女性経営者全国交流会in大阪」で講演し、800人の聴衆からのスタンディングオベーションを受けた。これには美加子さん自身も感激した。
 こうした活動と共に、足元の事業である北洋舎の改革にも取り組み、働きやすく快適な職場環境にするための改築や働き方改革をしていった。これらにかかる費用は東電からの賠償金で賄った。同時に、それまでは何事も経営責任者である自分が判断しなければと肩肘張っていたのを、幹部たちの判断を待つようになったら現場は全て任せられるようになり、美加子さんは銀行との対応だけに徹すれば良くなった。そして地域活動やボランティア活動に身を入れられるようになっていった。
 2015年、中小企業家同友会相双地区会長を次の人にバトンタッチした。在任中に会員会社の倒産は皆無だったことに胸を撫で下ろし、新会長の支援に力を注いだ。2016年には、2015年度エイボン女性年度賞「復興支援賞」を受賞。そして美加子さんは「つながろう南相馬」から離れて、市民自らが南相馬の未来に向けて行動を起こすことを促す「まなびあい南相馬」を新たに立ち上げ、「自分自身を見つめ直す心のセルフケア支援プロジェクト」を進めた。2018年もアースガーデンやシャンティ国際ボランティア会のトークイベントで、南相馬の現状を話した。5月には、北洋舎は創立70周年を迎えた。
 2019年には、「まなびあい南相馬」は「地域に役立つファシリテーション実践講座」を年8回開催した他、子どもを持つ親と教育関係者を対象にしたワークショップや、母親と乳児を対象に「身体表現運動によるこころとからだの解放」のワークショップを4回ずつ開催。さらに聞き書き活動の延長として地域の暮らしを伝えるニュースレターを10回発行している。
 コロナ禍の2020年はさまざまな集会は自粛となり、開催されても参加者の数は制限された。しかし、ウェブ配信などの工夫がされ、美加子さんのメッセージは広く発信されていった。

「被曝地と呼ばれるまちにわれら住む未来の扉開かんとして」

 私は2011年8月から南相馬に通い始めたが、訪問先は仮設住宅が主だった。最初の頃は支援物資を届け、そのうちにイベントを企画して集会所で催したり、避難者たちが「お茶っこ」と称してお喋りをしている仲間に入れてもらいながら個々人の話を聞かせてもらうようになった。
 仮設住宅は鹿島区に在り、入居している人は高齢者が多かった。みんなの話題は、仮設から退去後の生活への心配や被災前の暮らしのこと、離れて暮らす家族のこと、政府や行政の姿勢について、またニュースで話題になっていること、天候についてなどで、市の中心的地域である原町区の折々の様子などはほとんど話題にならなかった。仮設住宅のお年寄りたちは原町まで出かけることもない毎日だったのだから、無理もないことだっただろう。私は集会所の入り口に張り出された広報や地方新聞などで「屋内遊び場」が造られたことや「じゃぶじゃぶ池」のことなどを読み、そういう活動をしている人もいるのだなと思いはしたが、強く関心を持つこともなく過ごしていた。その頃の私は、仮設住宅の高齢者にばかり、気持ちが向いていたのだった。
 その頃これらに関心を向けていたら、もっと早い時期に美加子さんに会っていただろう。
 生活評論家の境野米子さんが私に、「クリーニング屋の高橋美加子さんに会うように」と勧めてくれたのは、美加子さんのこうした活動を伝えたかったからだったのだと、今にして思った。米子さんにお会いしたのは2013年だったから、助言を受けてから8年も経ってようやく私は美加子さんに会ったのだった。
 この日、美加子さんの事務所で美味しい昼食をご馳走になって話を聞かせていただいたが、美加子さんがもっと私に伝えたかったのは被災前から趣味として始めた短歌のことや、「まなびあい南相馬」の活動のことではなかったかと思う。
 短歌は「南相馬短歌会あんだんて」に入会して、毎月1回の短歌会には可能な限り参加してきた。被災直後は誰もが歌を詠むどころの状況にはなかったが、被災者だからこそ詠める歌がある、短歌だからこそ伝えられる思いがあると作歌に向かう日々だったのだろう。そしてまた三十一文字に想いを託そうと思案するひとときが、美加子さんにとっては心を鎮めて自分に向き合える大切な時間だったのではなかったろうか。笑顔で「あんだんて」の歌集を手にして見せてくれた美加子さんに、私はそう思った。

 「粛々と除染は続く20キロ圏フレコンバッグの山を連ねて」
 「放射能は鵺(ぬえ)のごとくに潜みいる耕作放棄と人よ責むるな」
 「被爆地と呼ばれるまちにわれら住む未来の扉開かんとして」

 被災地の現実を詠んだ美加子さんの歌は、胸を打つ。

語り継ぐ、ふるさと南相馬

 美加子さんの話をお聞きした「まなびあい南相馬」の事務所は、もともと母親のヨシ子さんの自宅だったが、会のみんなが集まれるように改装したという。「まなびあい南相馬」は2016年の結成後、「まなびあい南相馬 聞き書き選書」として冊子を出している。
 私が被災後の南相馬に通って感じたのは、地域や家族が分断され、あたかも高齢者が置き去りにされたような状況だったが、美加子さんはそうした中で、「心の復興活動の一環として高齢者が過去の生き生きとした体験を語り合うことで、自らの誇りと地域のつながりを回復し、暮らしを再構築しようという意識の掘り起こし(冊子の前書きから引用)」を実践して語り合いの場を作り、その聞き書きを冊子にしてきた。
 冊子は3冊になった。1冊目の『まなびあい南相馬 聞き書き選書1 語り継ぐ、ふるさと南相馬〜忘れちゃいけない、あのまち、この道、私の家〜』、これは2016年の避難指示解除後に小高区に戻ってきた高齢者たちの、自分史に絡めて地域にまつわる思い出などを聞き書きしたもので、戦争体験が中心になった。『聞き書き選書2 語り継ぐ、ふるさと南相馬〜生きたあかしと、生きていく想いと〜』では、高齢者の語りから小高の繁栄の基礎を築いた隠れた偉人を掘り起こしていった。この活動を通して「先人たちの地域にたいする熱い想いが現代に蘇り、地域再生の後押しをしてくれているという場面にたびたび遭遇しました」と美加子さんは言い、また、「どの地域にも先人の築いてきた歴史が深く根ざしているということがうかがわれ、『ふるさとを失う』という言葉の重さをあらためて強く感じました」とも言う。冊子を読んで私は、美加子さんのこの言葉に深く共感した。選書3では『〜動き出す人々、大富の暮らし〜』として大富地区に帰還した人たちの活動を聞き書きしている。地域の食の記録や農家の暮らしがうかがえて、興味深い。
 この3冊は、地域の暮らしや歴史、「ふるさと」の姿を伝える貴重な記録だ。「まなびあい南相馬」の活動の一端であるが、中小企業経営者である美加子さんにとっても、こうした活動はまた、生業とは別のかけがえのない活動なのだろう。もちろん南相馬にとっても、大事な活動だ。

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。