雨宮処凛さん×中島岳志さん:維新は「第三極」か? 野党共闘は失敗だったのか? 2021衆院選から2022参院選へ──日本政治の現在地

今年10月の衆議院議員選挙は、与党・自民党が議席を減らしたものの絶対安定多数を維持。野党第一党の立憲民主党も大きく議席を減らした一方で、維新の会が議席を伸ばし第三党となりました。これを受けて、立憲民主党、共産党などによる野党共闘は「失敗だった」との言説も流れていますが、果たして本当にそうだったのでしょうか? 来年に参院選を控え、ここから日本の政治はどうなっていくのか。衆院選の経験から、私たちが学ぶべきことは何なのか。政治学者の中島岳志さん、作家の雨宮処凛さんのお話から、イメージだけではない日本政治の「現在地」を探ります。

反省すべきは野党共闘ではなく「野党共闘を徹底できなかったこと」

中島 10月の衆院選後、野党共闘、特に立憲民主党(立民)が共産党と選挙協力をしたことは失敗だった、という報道が一気に出てきましたね。

雨宮 「野党共闘」という言葉自体が、失敗の代名詞のようになっていますね。「共産党と組んだのが悪かった」というイメージが、メディアを通じてばらまかれている気がします。

中島 僕は政治学者として「何を根拠としてそう言っているんですか」と問いたいと思っています。実際には「野党共闘が失敗だった」ということに、根拠はまったくない。むしろ、野党共闘が今回の選挙において非常に大きな意味を持っていたことは、数字からも明らかなんです。
 たとえば、細かく見ていくと、野党統一候補が勝ちはしたけれど、負けた自民党議員の惜敗率は90%以上だったという選挙区が25もあるんですね。野党共闘がなかったら、これらの選挙区の野党候補は落選していた可能性がきわめて高い。しかもその中には、枝野幸男さん、江田憲司さんといった立民の幹部たちも含まれているんです。
 一方で、与党候補に負けはしたけれど、ぎりぎりのところまで野党が迫ったという選挙区もある。今回、東京4区で当選した平将明議員は自民党のネットメディア局長などを務めている人ですが、テレビ番組で野党共闘について「大変な脅威だった」と述べていました。野党共闘が否定されたというのは、どう見ても間違いなんです。
 むしろ問題だったのは、統一候補が直前まで決まらず、統一的な理念も設定できないなど、野党共闘が徹底できなかったことではないでしょうか。野党共闘そのものではなく、そのやり方がまずかったことをこそ反省すべきなのに、なぜか野党共闘したことを反省しようという流れが出てきている。これでは、自民党の思うつぼだと思います。

雨宮 そのとおりだと思います。私は選挙戦が始まる前、野党共闘がもっともっと盛り上がるだろうと期待していたんですよ。
 だって、めちゃくちゃ大きなチャンスじゃないですか。いつも野党候補同士で票が割れて自民党に負けたりしていたのが、こうして協力できることになった。やっと来たチャンスなんだから、当然みんなそれを最大限生かす方向に動くだろうと思っていたら、統一候補をめぐるトラブルがあったり、立民代表の枝野さんが「野党共闘という言葉を使ったことはない」と言い出したり、あまりにもバタバタで、準備も調整も十分になされていないことが露呈したり……。

雨宮処凛さん

 本来なら、「野党共闘の顔」になれる人はたくさんいたと思うんです。れいわ新選組の山本太郎さん、共産党の池内さおりさんなどが代表ですが、象徴になれるような求心力のある人が野党には何人もいたんですから、そういう人たちをどんどん前面に出して、メディアにも取り上げてもらって、与党との対立軸をはっきりさせて、そうしたら投票率も上がって、政権交代の機運を作ることは可能だったと思います。でも、まったくそうはならなくて、見ていてずっと歯がゆかったです。選挙後、立民の新代表になった泉健太さんもやはり「野党共闘という言葉を使ったことはない」と言っていて、共産党との協力を見直すような発言をしていますし、いったい何をしたいんだろう? 何を目指してるんだろう? と疑問を持っています。

政権交代を実現するには、「連立」をするしかない

中島 その背景には、立民──というか旧民主党がずっと、自民党との二大政党制を目指してきたことがあると思います。しかし、これは実は完全な勘違いで、日本の現行の選挙制度上、完全な二大政党制にはどう考えてもならないんですね。
 たしかに小選挙区制は二大政党になりやすいとよくいわれますが、日本の衆院選制度は単純小選挙区制ではなく、比例代表制との並立制です。参院選は小選挙区ではなく、比例代表制も導入されています。これをすごく端的にいうと「小政党が生き残る選挙制度」だということ。比較的大きな政党も、政権を取るためには必然的に小政党と連立をすることになる選挙制度なんです。
 事実、1990年代の細川内閣以降、日本ではずっと連立政権による政治が続いてきました。その後の自民党政権を見ても、自社さ政権、自自公政権、そして現在の自公政権と、実は常に連立政権なんですね。立民も、本気で支持を広げようとするなら、そして政権交代を目指すのなら「二大政党」では無理で、共産党やれいわと組むしかないんですよ。そしてそのためには、一応は野党の中では数が多くて「強い」立場にいる立民が「折れる」べき場面だってあるわけです。
 そこがいま一つ理解されていなくて、どの党がイニシアティブを取るのかとか、どちらが譲るのかとか、目先のことでぶつかってばかりいるのが今の野党共闘のように思えます。

雨宮 私は立民が他の野党に配慮しつつ引っ張っていくと思っていたら、なんだかどうでもいい対抗意識とかに囚われていて、一番重要なところが見えていないという気がしました。政権交代のためならどんな手段だって使う、というくらいの姿勢があっていいのでは。もちろん、譲れない一線はあるにしても、「どんな手段を使ってでも権力を手放さない」のが自民党のやり方なんですから、本気で政権交代するのなら、それに勝てるくらいでないと。

中島 自民党のほうが「連立しないとやっていけない」ことを理解していますから、そこは賢いんですよね。もし自民党が今の立民の立場にあれば、たとえば「首相候補は山本太郎さんでいいですよ」くらいのことは言うんじゃないでしょうか。もちろん、代わりに他の主要ポストは自分たちで取ってやろうとかいうことも同時に考えるわけですが。

中島岳志さん

雨宮 そういう、長期的なビジョンが立民から見えないのが本当に歯がゆいです。すごく応援したい議員さんも党内にはたくさんいるので、なおさらもったいないというか。
 4年前、枝野さんが「枝野立て」の声に応えて新党を立ち上げたときは本当に感動的でした。あの時、私は新宿で何かのデモに参加していたんですけど、そこに新党立ち上げを発表したばかりの枝野さんが来てくれたのを覚えています。その場の歓迎ぶりは本当にすごくて、枝野コールが起きて、みんなの期待を一身に背負っているように見えました。あの期待と感動が、もうすっかり過去のものになってしまった。

中島 マイケル・オークショットというイギリスの政治学者が、こんなことを言っているんです。近代の政治家は、どんな政策を作るか、どう勢力を広げていくかといった、合理性を重視する「テクニカル・ナレッジ(技術知)」だけが政治だと思っているけれど、人はそんなものでは動かない。政治的な知としてもっとも重要なのは、人とどう付き合っていくのか、どう合意を形成していくのかといった、定式化できない「プラクティカル・ナレッジ(実践知)」なんだ、と。
 「新党を立ち上げる」といって一人記者会見に挑んだ枝野さんが、あるいは一人でれいわ新選組を立ち上げたときの山本さんが多くの人の支持を集めたのも、その「プラクティカル・ナレッジ」があったからこそではないでしょうか。「失うものはもう何もない」というぎりぎりの状況で、決して合理的とはいえない選択をする、その姿が人の心を動かした。逆に、その人が目先の小さな計算だけ、合理性だけで動いていることが見えた瞬間に、人の心はさっと引いていってしまうんだと思うのです。
 今後、立民がもう一度支持を集めていくためには、そこのところをしっかりと理解する必要があると感じます。

「お金」と「価値」をめぐるマトリクス

中島 さて、では今の日本の政治状況を改めて見ていくために、このような図を使ってみたいと思います。政治の仕事というのは、内政面においては主に「お金」と「価値」をめぐる問題だといえます。その二つを、それぞれ縦軸と横軸に置いたマトリクスです。

 縦軸の「お金」は「リスク」と言い換えることもできます。人が生きていく上で生じるさまざまなリスクを個人で取っていくのか、それとも社会全体で分有するのかという問題です。縦軸の上のほう、リスクの個人化を進めていくと、税金は少なくて済むかもしれないけれど行政サービスはどんどん小さくなっていく。いわゆる「小さな政府」になっていきます。
 それに対してリスクの社会化は、ある程度の租税負担はしながら、再配分を強化してセーフティネットを分厚くしていこうという考え方です。さらに、国家だけではなく市民社会としても、ボランティア活動や寄付を通じて互いに協力し合っていく。「大きな政府」であるだけでなく「大きな社会」をつくっていこうという方向性になります。
 そして、横軸の「価値」においては、両極が「リベラル」と「パターナル」ということになります。リベラルは、いわゆる自由主義です。これは、自分とは意見の違う人に対しても寛容になろう、代わりに私の考え方の自由も保障してくださいね、という考え方。対してパターナルは、強い力を持っている人間が価値の問題に介入していくのが当然だとする考え方ですね。
 たとえば選択的夫婦別姓の問題でいえば、リベラルは「人によって考え方は異なるんだからそれを尊重して、夫婦別姓でも同姓でも選べるようにすべきだ」と考える。一方、「日本人だったら夫婦同姓にすべきだ」などとして、一つの価値観を強要しようとするのがパターナル、ということになります。
 この二つの軸によって、図のⅠからⅣという四つの象限が生まれます。その四つのうちのどこに位置するかによって、政治家や政党の立ち位置がわかりやすく見えてくるわけです。

雨宮 現状だと、それぞれの政党はどこに位置するんでしょうか。

中島 まず、自民党はこの10年あまり──あるいはもっと前からかもしれませんが、少なくとも安倍政権以降は──ずっと、Ⅳの政治を続けてきました。選択的夫婦別姓の問題にもまったく取り組もうとしないし、同性婚などにも消極的。社会福祉が削られたりと、リスクもどんどん個人化されて、「小さい政府」というよりも「小さすぎる政府」へと突き進んでいます。
 一方、Ⅳに対抗するⅡ、つまりもっとリスクを社会化して、かつ価値観においてはリベラルという方向性で合致したのが、今回の野党共闘ですね。野党共闘はしばしば「野合」などともいわれましたが、実はまったくそうではなく、自民党のⅣに対抗する、Ⅱをしっかりと固めるという積極的な意味を持っていたといえます。
 また、そこで共闘しようと言っていたのに、維新の会に接近しようとしたりと、ⅡからⅢやⅣの方向にずれていっているのが国民民主党ですね。また公明党は、党としての主張などを見る限りではⅡに属するのですが、実際にはⅣの政権に連立して加わっているということになります。図ではⅣに入れておきましょう。

雨宮 維新はどこにいるんでしょう。

中島 維新は、「第三極」のような言われ方をすることがありますが、実際の立ち位置は明らかに自民党と同じⅣですね。保健所や公立病院を減らすなど、リスクの個人化をどんどん進めていこうとしているし、選択的夫婦別姓の問題や同性婚の問題にも無理解です。

雨宮 そこがなかなか理解されていないですよね。維新はⅢか、もしくはⅡのようなイメージを持っている人が多い気がします。

中島 そう、そこを丁寧に説明していかないといけないんですが、選挙前の報道も、菅前首相の辞任に始まる「永田町物語」に終始していて。きちんと各政党の理念を整理して分析しようというよりは、誰が誰に挨拶に行ったとか、この人はもう切られるとか、そういう人間模様みたいな話にばかりメディアが飛びついていた印象でした。
 いろんな世論調査などを見ても、日本では本当にⅣの路線を支持している人は決して多くないんです。おそらく、国民全体から見れば1割強くらいに過ぎないでしょう。一方、Ⅱの路線を求めている人は非常に多い。にもかかわらず、そのⅡを掲げている勢力が支持を得られず、政治がⅣの路線を進み続けているという問題を、しっかりと考えなくてはならないのだと思います。

「反・自民党」がなぜ維新へと流れたか

中島 ただ、維新については今回の衆院選で、本当にそんなに支持が広がったのか? ということも、冷静に見ておく必要があると思います。というのは、前回の衆院選のとき、維新は「希望の党」騒動に埋没して大きく議席を減らしているんです。今回はその分を取り戻したから「議席が伸びた」ように見えるだけであって、前々回の衆院選と比べたら、そんなに議席数は変動していないんですよ。
 それが「立民が負けて維新が勝った」と、あまりにもいろんなところで強調されすぎていることで、さらに維新の勢いが増しているという面がある。「なぜ維新が支持されるのか」を考えることには意味があると思いますが、「支持されている」と言い過ぎることにもまた、問題があるのかなと思っています。

雨宮 たしかにそうですね。とはいえ、今回の衆院選では自民党も議席を減らしましたし、「反・自民党」への期待はかなり広がっていました。その期待がなぜか自民党と同じⅣであるはずの維新に行ってしまって、野党共闘のほうに流れてこなかったのは確かなので、そこは大きな反省点だと思っています。

中島 維新が支持を集めているのは、先ほどのマトリクスで整理できるような考え方、理念の部分ではなくて、「議員定数を減らせ」「公務員の給与をカットしろ」みたいな、いわゆる「引き下げデモクラシー」によるものが大きいのではないかと思います。雨宮さんも以前言っておられた、「ちょっと得して楽してるように見えるやつらを引きずり下ろせ」というような「人の欲望」に寄り添うのが非常にうまくて、「維新なら改革してくれる」ように見えてしまうんですよね。

雨宮 かつての小泉政権のときも、郵政民営化に代表されるように、「既得権益を引きずり下ろせば俺たちが上に行けるんだ」みたいなムードが広がりましたよね。でもそれはとんでもない勘違いで、切り捨てられた人たちの生活はより苦しくなってしまった。今まさに同じことが、維新によって進められようとしている気がします。
 しかも、小泉政権のときはまだ、支持する人たちが「これで俺たちの未来は良くなるんだ」と希望を抱いていた。でも今維新を支持している人たちは、もちろん希望を持っている人たちもたくさんいるでしょうが、それを通り越して「とにかくひっくり返してしまえ」という破壊衝動っぽいものに駆られている人も少なくないように感じるんです。

中島 たしかにそうですね。あと、維新が大阪であれだけ支持を集める背景には、議員の中の「二層構造」もあると思います。多くの人が見ている「維新の議員」の一層目は、吉村大阪府知事に代表されるような、メディアに出て注目を集めている人たち。でも、実はその他に、なかなか見えてこない「二層目」の議員たちが維新には大勢いて、この人たちは徹底的にどぶ板選挙をやっているんです。
 実は、維新の地方議員の多くは、元自民党議員なんですね。祖父の代からずっと地盤を持っているような人たちが、「自民では勝てないから」というので維新に鞍替えして当選している。彼らは、丁寧に口利きもやるし、地元のいろんな会合などにもまめに足を運びます。「自分たちのところへ来てくれるのは維新の議員だけだ」という感覚を持っている地元の人たちは多いでしょうし、それが支持につながっている。逆に言えば、東京などで維新がまだそれほど勝てていないのは、そうした「どぶ板」ができていないからで、それができるようになればさらに支持を広げる可能性もあると思います。

雨宮 そういえば、衆院選の直後に神戸に行く機会があったんですが、「選挙戦後半の維新の勢いはとにかくすごかった」という話を聞きました。吉村知事が選挙応援に来たら、若い人が「キャー」って手を振っていたり、ほとんど芸能人扱いだった、と。
 でもその一方で、維新の地方議員は生活保護申請に同行してくれるんだという話も聞いたんです。東京でも野党の、特に共産党や立民の地方議員はよくやっていることですけど、まさか維新が関西でそれをやってるとは全然知らなくて、すごくびっくりしましたね。

「維新支持」と「れいわ支持」の共通項

中島 さて、維新に関することでもう一つ、雨宮さんとぜひお話ししたいのが「維新とれいわ」という問題です。
 今回の衆院選ではれいわも議席を増やしましたが、大阪で維新を熱狂的に支持している人たちと、れいわを支持している一部の人たちとは重なるところがあるんじゃないかと思っています。先ほどのマトリクスでは対極に位置する二つの政党ですが、実はれいわを支持する人たちがちょっと「ずれる」と維新支持へと流れるところがあるのではないか、と感じるのです。
 雨宮さんは、れいわの立ち上げから関わっておられて、ボランティアに来ている人などにもお会いになる機会が多いと思うのですが、これについてはどう考えますか。

雨宮 たしかに、維新に行くかれいわに行くかというのは紙一重くらいのところもどこかあると私も感じますし、そこは参院選に向けた大きな課題だと思っています。
 れいわを立ち上げた山本さんは私や中島さんともほぼ同い年で、ちょうど「ロスジェネ」といわれる世代ですよね。世代的に貧乏くじを引いたと感じているような人たち、非正規雇用の人たちなど、れいわはいわば「持たざる者」に支持されて大きくなった政党だといえると思います。
 それはいいことだと思うのですが、そのれいわが出てくる前、そうした「持たざる」人たちが、立ち上がったばかりの維新に対して「もう維新しかない、支持する」と言うのをよく聞きました。小泉政権を支持したフリーター、みたいな図式に似ていて、維新の政策とかではなく、「既得権益からむしり取ってやる」というような主張にすごく心をつかまれている人がたくさんいたんですよね。「俺たちの心を代弁してくれる人たちだ」という感じでしょうか。
 そしてそれは、今のれいわ支持者の心情と近い部分があると思います。今回の選挙でも、非正規雇用の人たちなど、もし維新がもっと力を持って「小さな政府」化が進んでいけば最初に首が絞まるだろうと思われるような層が維新に投票するという構図は、広範囲で目にしました。

中島 今、民主主義体制でありながら有権者が民主主義を実感できない、自分が有権者であるという感覚も持てない、そして投票率がどんどん下がっていくという状況が日本だけではなく各国で起こってきています。いわゆる「ポスト・デモクラシー」といわれるものですね。これをどう乗り越えていけばいいのか、どんな民主主義のあり方が望ましいのかというときに、政治学では主に二つの主張がなされてきました。
 一つが「熟議デモクラシー」。タウンミーティングや車座集会みたいな、選挙以外にも有権者が政治に関与できるルートを増やすことで民主主義を再構築していこうとする考え方です。そしてもう一つが「討議デモクラシー」。ベルギー出身の政治学者シャンタル・ムフなどが主張しているもので、「ラディカル・デモクラシー」ともいいます。
 ムフは、政治的なるものの本質は「異議申し立て」だというんですね。「自分たちがこんなに苦しいのはあいつらのせいだ」と、「あいつら」の存在を明確にし、人々の感情に訴えることによって戦いを挑んでいく。それこそが政治的なるものの復権だというわけです。

雨宮 公務員バッシングや生活保護バッシングにも似た構図ですね。

中島 ムフが言っていることは、ポピュリズムの一つの形でもあります。上からの迎合主義とはまた違う、「おまえたちだけで物事を決めるな」「俺たちが主権者なんだ」という、下からの異議申し立て運動ですね。維新とれいわというのは、その右バージョンと左バージョンなんだと思います。
 維新はその「異議申し立て」の先を、労働組合や公務員などに定めた。一方れいわは、格差社会の上部にいる、たとえば竹中平蔵氏や大企業に異議を申し立てようとしている。その違いはあるけれど、そこに吸収される感情は同じようなところから湧いているものだから、両方が等価のものに見える。そこで雨宮さんがおっしゃるような「維新かれいわか」という選択が出てくるんだと思います。

雨宮 よくわかります。

他の選択肢がなくなれば、「リスクの個人化競争」になってしまう

中島 僕は、ポピュリズム自体は、必ずしも否定されるべきものではないと思っています。問題は、そこにどういい「回路付け」ができるかなんですよね。熱狂がネガティブな方向に向かうと、それこそ破壊衝動に行き着いたりしてしまうけれど、れいわが掲げているような「みんなで支え合う社会をつくろう」という方向に向かう回路ができれば、これまでにない政治の流れができてくる可能性もあると思うんです。
 だから、維新を支持している人たちに対しては、「維新のここがおかしいよ」というだけではなくて、気持ちは分かるけど、それを向けるべき回路はそっちじゃなくてこっちなんじゃない? という軌道修正を呼びかけることが重要なのかな、と思っています。

雨宮 維新は、敵を作り上げて「あいつらが悪い」と名指すのが本当にうまいですよね。少し前に話題になった「文通費」の問題でも、問題提起の仕方もタイミングも、「1日で100万」っていう取り上げ方も、「あいつらばっかり得しやがって」という、誰もがこころの奥底に持っているねたみやそねみなどの「黒い」気持ちを刺激するのに一番効果的なやり方をするなと感じました。もちろん、文通費の問題は議論されるべきですが、「1日100万」ばかりが注目されたことは残念でした。本来であれば、文通費の話から、なぜ、政治にそれほどお金がかかるのかという問題として議論されてもよかったのにまったくそうならず、「既得権から毟り取れ」というだけで終わってしまった。今、コロナの影響もあってか、SNSにおける攻撃性がものすごく高まっていたりと、負の感情の吐き出し口をみんな求めている感じがするんですが、それを利用するのがとても上手だと思います。
 こういうの、何か名前付けられないですかね。

中島 名前ですか?

雨宮 「維新だまし絵しぐさ」みたいな。そういうふうに名前を付けて、「これが維新のやり方ですよ」ってきちんと解説していかないと、どんどん足下が切り崩されていくんじゃないかと思います。

中島 そうですね。僕は維新がこのまま勢力を広げていくことの問題は、その政策がどうかということ以上に「選択肢がなくなってしまうこと」だと思っています。
 繰り返しになりますが、先ほどのマトリクスでいえば、維新は明らかにⅣのゾーンにいる政党です。自民とほとんど同じことを言っているわけで、このまま他の野党が議席を減らして「自民対維新」という構図になれば、それはつまり「Ⅳ対Ⅳ」ということ。改革によってどっちがよりⅣに近づけるかという、リスクの個人化競争が始まってしまうことになります。これはもう、地獄だと思いますね。
 そうならないために、野党はなんとかⅣに対抗するⅡのゾーンに船を出さないといけないし、そうでないと勝てない。そのことは、前回衆院選の「希望の党」騒動からの教訓でもあると思います。

雨宮 希望の党代表を務めた小池百合子さんは、Ⅳの政治家ですか。

中島 そうです。なのに、なぜかそこに野党が飛びついて勝とうとして、木っ端みじんに敗れ去ったわけです。
 いま維新を支持している人たちの多くも、Ⅳがいいから維新だ、と思っているわけではなく、自民党も嫌だけど他の野党にも託せないから維新、となっているんだと思います。だから、やっぱり重要なのは、自民党とはまったく異なるもう一つの選択肢を示すこと。Ⅱのゾーンを、魅力あるものとして野党が示していかなくてはならないんですよね。

2022年参院選、私たちは何を目指すのか

雨宮 そして、来年は参院選がありますね。

中島 政局というものは、基本的に衆院選よりも参院選のときに動きます。選挙の日程があらかじめはっきりしているので、そこに向かっていろんな準備ができるからです。1993年の衆院選で非自民の細川内閣が誕生したときも、その1年前の参院選で日本新党が4議席を取ったところから動きが始まりました。その意味で、今回の参院選でも、大きな政局変動の始まりが起こるかもしれない。野党の中でも大きな変換が起こるんじゃないかと思っています。
 ただそのときに、野党に向けて言いたいのは、「トップダウンではだめだ」ということです。衆院選でも東京8区の候補者調整がトラブルになりましたが、現状のように、党のトップの裁量で突然候補者が決まるような仕組みでは、支持者のほうも熱が持てません。支持を広げていくためには、たとえば予備選をやるなど、候補者選びを含めて本当の意味でのボトムアップでやっていくことを考える必要があると思います。
 雨宮さんは、参院選に向けて感じていることはありますか。

雨宮 11月末の立民代表戦を見ていて思ったのは、立民という党が、メディア報道とか世論──それも、本当の世論なのかどうかわかりませんが──など、いろんなことに振り回されすぎじゃないかな、ということでした。軸がぶれてばかりに見えるので、ここからどうなるんだろう、と私たちも見ていて不安になるし、所属議員もきっと不安なんでしょうね。それが顔に出てるから、なおさら「この人たちに託して大丈夫かな」という気がしてきてしまう。メディアなどにあまり振り回されすぎず、軸をしっかり持って動いてほしいな、と思いますね。
 それから、よく「多様性が大切」といわれますけど、自民党はもちろん維新も、そして立民も、そもそも議員の顔ぶれに多様のかけらもないと感じます。ものすごく均質化した超高学歴男性だけで成り立っている永田町で「多様性」というなら、まず中から多様化を進めていかなきゃ駄目なんじゃないかと思います。そんな中で、立民の男女同数の執行部発足は嬉しいことでしたが。

 あとは、やっぱり投票率を上げることですよね。それがないと、政権交代なんて起きるはずがないんですから。

中島 それは同感ですが、ただ「選挙に行け」と言ってるだけでは、なかなか難しいですよね。本当に投票率を上げるには、選挙だけではなく、日常から政治にコミットするルートをたくさん作っていかないといけない。それが、地方自治体の政治の非常に重要なポイントでもあると思います。
 何も、難しいことでなくてもいいんです。たとえば、東京・世田谷の保坂展人区長は、下北沢駅前の再開発について、数え切れないくらいの回数のタウンミーティングをやったそうです。区が上から決めるのではなく、関心のある人々で話し合って決める形を取ったわけですね。そうすると、いわゆる「政治」には全然興味のないような若い人たちも、どんどんそこに加わってくるようになりました。当初は対立もあったけれど、話し合いを重ねるうちに「みんなで下北沢のまちをつくっていこう」という空気ができてきたといいます。
 あるいは「住む人がいなくなって放置されている空き家をどう活用するか」でもいい。地域の問題について、関心のある人たちが参加して話し合えるような場をどんどん作っていく。先に触れた「熟議デモクラシー」ですが、そうして身近な「政治」に関わることで、人は社会的なことや公的なことにさらに関心を抱くようになります。そうなれば、放っておいても多くの人が投票に行くようになるでしょう。時間はかかるけれど、本当に投票率を上げるには、それしかないんだと思うのです。

雨宮 そういえば、今回のコロナ禍で初めて政治に不満を持ったという人が、身近にもたくさんいます。経営難に立たされている飲食店の店主とか、ライブが全然できなくなったアーティストとか。彼らが初めて政治に関心を持ち、怒りを持ち、発信もしているのに、それが実際の政治に結び付くルートが全然ないのがもったいないなという気がしているんですね。本当なら、そうして「おかしい」と思った人たちが、すぐに選挙に出られるような道があってもいいんじゃないでしょうか。彼らの主張は、たくさんの人から共感を得られると思うんです。

中島 同感です。僕は、特に地方議会選挙については、もっと誰でも「出やすく」すべきだと思っています。議会を夜開催にしたりと、他の仕事と両立できるような形にして。誰でも一時期地方議員をやって、地域の問題解決にコミットし、公的なものに参画していくことができる。そういう場所に議会をしていかないといけないと思うんです。
 もちろん、今のままでは「仕事して、育児や介護をして、それでさらに政治に参加しろっていうのか」ということにしかなりませんから、労働時間をもっと短縮するなど、社会全体としての働き方や生活スタイルの変化も必要です。社会全体を整え直して、政治のあり方をもっと解きほぐしていく。私たちの社会は、少しずつでもそういう方向に進んでいく必要があるんじゃないでしょうか。

(構成/仲藤里美)

あまみや・かりん 作家・活動家。1975年北海道生まれ。2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国』でデビュー。以降、プレカリアート問題を中心に執筆。『右翼と左翼はどうちがう?』『14歳からの戦争のリアル』など著書多数。マガジン9にてコラム「雨宮処凛がゆく!」を連載中。

なかじま・たけし 政治学者。1975年大阪府生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、未来の人類研究センター教授を兼任。専門は南アジア地域研究、近代日本政治思想。著書に『「リベラル保守」宣言』『思いがけず利他』、共著に『いのちの政治学 リーダーは「コトバ」をもっている』など多数。