前回に続き、安保法制違憲控訴審、結審を迎えた2月4日の法廷での発言内容をご紹介します。
原告の堀尾さんの意見陳述に、青春時代が戦時中だった世代の方たちの苦悩に思いを馳せました。敬愛する大先輩の澤地久枝さんをも思いました。代理人弁護士の皆さんの意見陳述に、うまく言語化できずにいた自分の思いを法的な用語で言語化することを学び、後半のまだ若い有岡弁護士の陳述には心の中で喝采を叫び、最後の伊藤弁護士の締めで裁判官たちに思いをぶつけることができたように感じました。
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●安保法制違憲控訴審 原告意見陳述
■控訴人堀尾輝久意見陳述(要約)
・生育史・生活史の中の戦争と平和
1933年に小倉で生まれ、4歳の時に日中戦争が始まり父親が出征した。6歳の時に父親が戦病死し靖国に祀られ、我が家は「誉の家」となった。戦争は東洋平和のためと教えられ軍国少年になっていった。
中学1年の夏、敗戦を迎えると教科書の墨塗りを体験し、それまでの価値観が否定され、全く価値観の違う「あたらしい憲法のはなし」が教科書になった。昨日までと180度態度の変わった大人たちの態度に、何が真実で正しいのかと子ども心に葛藤し、なぜ自分は軍国少年だったのかを考えるようになった。
東京大学に入学し政治思想や法哲学を学ぶ中で「平和思想」を知り、カントの永久平和の思想は、憲法9条に実現していると知った。大学院では教育哲学・教育史を専攻し、軍国少年になった自分の生育史を日本の軍国主義化の中で捉え、平和と民主主義の問題を深めたく研究を続けた。人格形成を軸とする人間教育にとって平和は条件であり目的だと考え、平和主義を教育思想の中軸に据え、自身の生き方として捉えるようになった。
・「平和に生きる権利」への確信
この間、内外の平和思想史を学び、憲法、教育基本法、国連憲章、UNESCO憲章に基づく平和教育学を通して、「平和と教育」を生活の中に根付かせるための仕事を続けてきた。
戦時下の教育で心を歪められた体験とその後の学びを通して、平和への思いは私の中で揺らぐことのないものとなった。後に「教科書検定問題」や「日の丸君が代問題」が裁判になった時にも、怯まずに専門家証人として法廷に立った。
さらに日本国憲法の制定過程を研究し、これが占領軍の押し付けではなく幣原首相の発意であったことを確かめ、改めて憲法の平和主義への確信も深まり、この精神を守るだけではなく世界に広めたいと考え、国際憲法学会や9条世界会議、パリでの国際平和教育会議にも参加してきた。2016年「平和への権利」が国連総会で決議されたことが大きな励ましとなり、「9条の精神で地球平和憲章を!」の国際的な運動をすすめるため、会の代表として取り組んでいる。
私の研究・教育活動の軸には平和への希求と9条の理念があり続けている。
・「戦後政治の総決算」、安保法制成立のなかでの苦悩と憤り
第1次安倍内閣下の2006年に教育基本法が改悪された。日本教育学会会長、教育法学会会長として反対してきた私は、それまでの教育学研究の根拠を奪われる思いだったが、憲法がまだ生きていると思い直した。しかし2015年には、自国が攻められなくてもアメリカと一緒に海外で戦争することになる集団的自衛権を認める安保法体制が成立してしまった。
教育は国民馴化の手段として再び軍国少年少女が育てられるのではないかと焦燥感に駆られる。貧困と格差は経済的徴兵に繋がることはアメリカを見れば明らかだ。それは、平和に生きる権利、人格権としての幸福追求権を制約し奪うことになる。
憲法が侵されるこうした事態は、平和の思想史と平和教育の実践的研究に長く携わり、憲法前文・9条に誇りを持って生きてきた者として、さらに9条の理念で「地球平和憲章」を創ろうとしている身には大きな苦痛だ。また、戦前戦中戦後を生き、軍国少年から生まれ変わり、平和主義を生き方として選び取ってきた私の人格そのものに対する侵害ともいうべき苦痛だ。さらに未来世代の権利を守る責任を持つ世代として「教え子を再び戦場に送る轍」を踏んではならないし、踏ませてはならないが、現在はその危機にあることに耐えられない苦痛を感じている。
・安保法制下の現実
安保法制制定から6年、この法制がはらんでいた危険は次々と顕になっている。同盟国アメリカのイランへの武力介入、北朝鮮との対立など国際社会のあちこちで緊張が高まっている。集団的自衛権を認めた日本は、軍事同盟としての日米安保条約を強化し、護衛艦いずもの空母化やステルス戦闘機購入など、攻撃的な軍備を増強し、出撃基地として沖縄基地強化をして、アメリカと共に戦争に巻き込まれる緊張は高まっている。
安保法制下の現実は戦争と隣り合わせの状態を思い起こさせ、忘れていた暗い思い出を体の中から引き摺り出されるような不安と怒りの中に置かれている。
・平和への新たな動きの中で(略)
・日本の安全保障の将来(略)
・私憤と公憤
私は研究者として私情・私憤は抑えるように自ら訓練してきたが、公憤は私憤であり私の苦しみでもある。89年の人生を振り返ると、人間としての確信を戦争国家によって翻弄され傷つけられた。戦中の「誉の家」の軍国少年が、戦後自分を取り戻せたのは「平和」という灯台があり学習があったからだ。以後、憲法前文・9条に誇りを持ち、自分の経験を研究者・教育者として伝えつつ、他方で人間の在り方を変えてしまう国の体制を厳しく注視し続けてきた。私の使命だと確信してきた。私の私憤は、私の人格と活動を通しての表現であり、その想いを仲間と共有していると確信する公憤でもある。私の私憤は単なる私憤ではなく皆のもの、つまり公憤であることを、裁判官も是非認めてほしい。条理に則り、平和への願いに叶う司法の判断を期待する。
■代理人弁護士:杉浦ひとみ
杉浦弁護士は最初に「何枚か写真を流すが、中には悲惨で残酷な様子が写っているものもあり、人によっては辛い体験を思い出して体調を崩す恐れがあるかもしれない」と裁判長に伝えた。それを受けて裁判長は傍聴席に向かって、見たくない人は一旦部屋から出て待機するように、そして映写が終わったら呼び戻すので席に戻るようにと述べた。しかし誰も席を立たず、裁判長は杉浦弁護士にスクリーンに写真を流すように促した。
スクリーンには広島・長崎の原爆投下後の市街地の様子、被爆者の姿、炭化した死体、骨になった死体、ホームで亡くなった母子、空襲を受けた街並みや戦災孤児たちの姿、沖縄戦の戦時下の状況、沖縄のガマの白骨、船に乗るために集まった引揚者の群れ、傷痍軍人の姿などなど、戦争による被害の実態を撮った写真の数々が映し出され、中には米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネルが撮影したとされる「焼き場に立つ少年」の写真もあった。続いて軍港のある基地に停泊する米原子力空母や、また、安保法制制定後に空母化した護衛艦「いずも」「かが」、ステルス戦闘機の写真、日米軍事基地配置図の図版などが映し出された。
そして杉浦弁護士は、この裁判の控訴人は戦争被害者、米軍基地周辺に暮らす人、公共交通機関に従事する人、原発事故を危惧する人、ジャーナリスト、子どもを守りたい人たち、軍国少年だった人、教員・元教員、若者たち、法曹・元法曹界にいた人たちなど、さまざまの立場の人であることを述べ、それら控訴人の陳述した言葉を縷々述べた。
■代理人弁護士:北澤貞男(要約)
控訴人の被った被害のうち、平和的生存権の侵害について述べる。憲法前文には「われらは、全世界の国民が、恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と規定する。しかし新安保法制法の立法・施行により平和国家の法体制が壊されたことで、日本は戦争をする国家に変質し、他国の戦争に巻き込まれたりテロ攻撃の対象になったりする危険な状況が生まれ、その恐怖や不安から平穏に暮らすことができなくなったと、控訴人らは感じている。
戦争や武力の行使は、ことが起こってからでは手遅れで、起こらないうちに予防することが肝要だ。政府の戦争準備段階の行為を牽制するために、法的手段に訴えることが認められなければならない。(東京地裁での)原判決は、平和とは理念ないし目的としての抽象的概念であり、これを達成ないしは確保する手段や方法も多岐にわたり特定することはできないというが、国際法にも国内法にも「平和」は特に定義されることなく多用されている。「平和」は抽象的で目には見えないが、万人のイメージには戦争が現実に行われていたり戦争が起こりそうな不安があったりせず、安心して穏やかに生活できる状態と言えば足りると考える。
控訴人らは多様であり、人生経験も生活環境、社会的地位も感受性も異なっているが、いずれも平和な国家で平穏に生きられることを何よりの利益と考えている。平和的生存権が憲法により保障されている確かな権利であると信じ、再び戦争の恐怖にさらされることはないものと安心していた。
ところが新安保法制法の制定で驚愕し、平和国家の危機と直感した。戦争に向かう恐怖と不安にさらされ、平和国家日本が消滅したような気持ちになっている。
平和的生存権は憲法上保障された具体的な権利であり、新安保法制法の制定によって控訴人らの平和的生存権が侵害されていることは明らかだ。
憲法9条の戦争放棄と平和的生存権は、日本という国とそこで生活する国民・市民を「平和」という「砦」を築いて防衛する法的システムと言える。新安保法制法の強行は、この「砦」を壊してしまったのだから、控訴人ら国民・市民に及ぼす被害は甚大と言える。
■代理人弁護士:橋本佳子(要約)
控訴人らの憲法改正・決定権の侵害について述べる。憲法の平和主義の基本原理に違反する集団的自衛権の行使容認するには憲法改正手続きが必要だったにもかかわらず、国は、これを潜脱して新安保法制法を制定した。
控訴人らは憲法96条で保障されている憲法改正手続きに参加する機会や、国民投票の機会も与えられないまま、憲法9条を実質的に改変されてしまい、自らの憲法改正・決定権を侵害されたことを訴えている。
集団的自衛権行使の容認は、憲法9条に明らかに反する。これを強行するなら憲法改正が必要だった。また自衛隊発足以来歴代総理大臣、内閣法制局長官らが「集団的自衛権の行使は憲法上認められない」「容認するというのであれば憲法9条の改正が必要である」と繰り返し確認してきた事実がある。国会で政府により繰り返し確認されてきた憲法解釈は確立した憲法規範となっている。
新安保法制法案に対する空前の反対運動で法案の違憲性が社会的問題として顕在化していた。多くの国民が国会前を中心に全国で「新安保法制は違憲」と声を上げ、元最高裁長官、同判事、多数の元裁判官、憲法学者、元内閣法制局長、弁護士会も違憲であると訴えの声を上げた。
政府が長年にわたり繰り返し、「条文を変えることなしには集団的自衛権の行使は認められない」としてきたにもかかわらず、2019年に幕張メッセで政府の後押しで行われた「世界武器見本市」では、主催者の挨拶文に「近年の日本国憲法一部改正に伴い、軍備拡大、自衛隊の海外派遣、日本の防衛産業のより積極的な海外展開が可能になった」と記載されていた。国は憲法の明文を変えていないと言うが、憲法を実質的に改変したことは明らかだ。
控訴人らは「憲法で戦争は許さない国」から「自国が攻撃されていなくても、世界中で米軍と共に武力行使する国」へと、まさに国の形が変えられたにもかかわらず、国民としての最も大事な憲法改正手続きに参加する権利が否定され、無視され、主権者としての価値を根底から否定された。控訴人らはそれぞれ憲法を誇りとし、次世代に継ぐことを自らの責務と確信して生きてきた。その憲法改正手続きに一切関われないまま排除され、戦争ができる国に改変されてしまったことによる怒り、憤りによって精神が苦しめられ、恐怖、絶望感、悲壮感に苛まれ、強度のストレスに苦しめられる結果となった。
裁判所は、控訴人らの憲法改正・決定権が具体的に侵害された事実を正しく認定し、控訴人らの精神的苦痛を救済することを求める。
■代理人弁護士:福田護(要約)
人格権侵害について述べる。人格権侵害についての原判決や全国の本件と同種の他の判決の、2つのパターンについて述べる。(1)のパターンは「現在において、我が国が他国から武力攻撃に対象にされておらず、またそれが切迫していないから、原告らの生命・身体の具体的危険性はない」としている。(2)のパターンは原告らの訴える戦争・テロへの恐怖、不安等の精神的苦痛を「平和への理念」や価値観など個人のものの見方や考え方によるものとして、これに適合しない立法行為や立法政策は「多数決原理を基礎とする間接民主制」の下では不可避であり、原告等の苦痛は甘受すべきとしている。このような判断の仕方は間違いである。
(1)「まだ戦争になっていないから身の危険はない」「戦争になってから裁判所に救済を」というに等しく、これは司法救済の拒否に他ならない。青井未帆教授は、憲法9条は戦争による人権侵害が生じる手前でこれを防ぐ「防護壁」であり、新安保法制はこの防護壁を破壊するものであると指摘している。
高作正博教授は、戦争は予測が困難で、抽象的危険から具体的な危険へ、現実の人権侵害へと段階を経て発生するものではなく、一気に武力攻撃が現実化しかねないものであるから、前倒ししての救済の必要性を指摘している。また長谷部恭男教授は、戦争のように膨大で甚大かつ不可逆的な被害が発生する危険性がある場合には、そうした結果の発生を確実に予測し得ない場合でも「予防=事前配慮原則」に則り、違法判断を為すべき十分な理由があると指摘している。
このように、こと戦争に関しては「現実の危険」「具体的危険」を待っていては司法は機能を成さない。裁判所は専門家の指摘に虚心坦懐に耳を傾けなければならない。
(2)原判決は原告らの戦争への恐怖・不安等の精神的苦痛を個人的な問題と判断しているが、新安保法制法以前は憲法9条の「防護壁」で守られていたのに、新安保法制法によって破壊された結果、日本が戦争に参加しまたは巻き込まれる危険と機会が高まったという客観的事実によって、それぞれの戦争体験や社会的立場に応じて、それぞれ異なった内容の恐怖や不安に苛まれていることを訴えている。こうした状況は権利侵害の観点からすれば、戦争の危機に脅かされずに平穏な環境と心情の中で生活を送る権利としての平穏生活権が侵害されていることの訴えである。
裁判所は原告らが訴える戦争への恐怖・不安、平穏生活圏の侵害について客観的根拠があるかどうか、すなわち憲法9条が集団的自衛権を禁止していたことが国民を戦争の危険から守ってきたのかどうか、言い換えれば、自衛隊創設以来一貫して政府自身が憲法9条によって集団的自衛権の行使は禁止されているとの解釈をとってきたことを審理・判断しなければ、原告らの訴えの合理性・正当性を判断できないはずだ。
原判決その他の同種判決の信念論、価値観論、多数決論は、明らかに論点のすり替えだ。
裁判所は、憲法判断を避けては通れないはずである。控訴人らの訴えに謙虚に耳を傾け、その恐怖・不安等が何によるのかに目を逸らさずに、正面から検討するように求める。
■代理人弁護士:有岡佳次朗(要約)
登録して7年目の若手弁護士の立場から、本訴訟の意義や憲法との関わりについて述べる。
2015年7月衆議院で、同年9月参議院でいずれも強行採決により新安保法制法が可決された時、私は司法修習生だった。国会前に多くの人が集まって声を上げる映像を見て、新安保法制法に関心を持つようになった。弁護士になってからこの法案の違憲訴訟が行われていることを知り、弁護団に加入した。
新安保法制法は、集団的自衛権や後方支援、武器等防護など、およそ現憲法下で説明しようがない法律であり、憲法学者も口を揃えて違憲であると言っていたし、また当時の政府もそれがわかっていたから解釈改憲などと呼ばれる手法を使わざるを得なかったのだろう。憲法適合性がないことは明らかであり、裁判所も違憲判決をすると思っていた。また、原告たちの話を聞く中で、平和の中で暮らしたい、戦争の恐怖、2度と繰り返したくないなどの思いが、それぞれの方の人格の中心になっている、人格を形成していると思わせられ、このような当たり前の価値観を裁判所がわからないわけがないと思っていた。
しかし、地裁高裁を含め、これまで20の判決が出ているが、いずれも憲法判断をせず、原告の請求を認めないものだった。「原告の生命・身体の侵害の危険が切迫し、現実になったとは言えない」というものだった。
私はこの判決文を読んで、愕然とし、同時にあまりにも判で押したような判決が続き、恐怖すら覚えた。判決の内容をそのまま受け取れば、戦争が起こらない限り危険が切迫し、現実になったとは言えない。戦争が起こってから裁判所に来るようにというものだった。また、それぞれの立場で戦争に巻き込まれたくない、平和に暮らしたいという原告らの精神的苦痛は、一部の人たちの義憤や公憤でしかないというものだった。
国家の基本法として尊重されるべき憲法を、こんなに簡単に変えてしまったことについて、裁判所は何も言っていない。政治が守るべき憲法を、その政治が破壊したことについて、裁判所は後追いするだけで良いのだろうか。誰が聞いてもおかしい、非現実的な判断を、裁判官は本当に心の底から正しいと思っているのだろうかと疑問に思っている。人間だから価値観が合う、合わないは当然あるが、全ての裁判官がこのような判決を書いた、書かざるを得なかったことは、何か他の理由があるのではないかと思わざるを得ない。
人間社会はさまざまな利害関係の中で自他を成り立たせないといけないことはわかるが、司法も、裁判官の一人ひとりのレベルでは憲法の番人、三権分立、裁判官の独立などは実践に値しない理念条のものに過ぎないのかと、憲法を学んできた私にとっては、あまりに衝撃的で絶望すら覚えた。
まだまだ人生経験も法曹としての経験も浅い私が申し上げるのも恐れ多いが、出世がどうかとか、定年間近だからどうかではなく、憲法を学び、これに拘束される者として、事実を見て、ご自身の良心に問いかけ、それによってのみ判決を下していただくことを切に願っている。
■代理人弁護士:伊藤真(要約)
新安保法制法に関して、主権者国民の意思を憲法改正国民投票という正規の手段で問うこともなく、内閣は閣議決定によってこれまでの国のあり方を一変させ、国会は多くの国民・市民の反対の声を無視して採決を強行した。それらの違憲性を是正すべき裁判所までもが新安保法制法の違憲判断を避けるなど、到底許されることではない。仮にそのようなことがあれば、それは公務員が憲法を尊重・擁護しない姿勢を示している点で憲法99条違反に他ならず、立憲主義国家としての存立を危うくすることが起きていることを意味する。
政府は「どうせ裁判所は新安保法制法について違憲判断など出せない。そんな胆力のある裁判官などいない」と、たかを括っているようだ。司法が蔑ろにされているのであり、裁判所を戦前と同じように二流官庁として見下しているのだと思う。
司法に携わる者として、こうした状況は悔しくてならない。戦前のように裁判所に違憲審査権が認められておらず司法省の監督下にあり、独立性も担保されていなかった時代ならいざ知らず、日本国憲法下で司法権の独立性が保障され、裁判官の身分保障も厚くなり、違憲審査権が認められるようになった現在の裁判所が、政治部門から軽んじられることに我慢がならない。
裁判所が違憲判断に消極的な理由として、付随的違憲審査制が挙げられている。しかし本件のように国家賠償請求という適法に提起された訴えが係属しているのだから、不随的違憲審査制だけを理由に憲法判断を避けることはできない。
原告らは明白な違憲の立法行為によって法的保護が必要な精神的苦痛を被ったと訴えているのだから、その原因である立法行為である新安保法制法の違憲性を判断せずに原告らの権利侵害の有無、程度は判断できない。
憲法改正・決定権の侵害の有無については、新安保法制法の違憲性の判断が不可欠だ。憲法判断を避け、原告らに法的保護利益の侵害がないと判断する方が容易だろう。しかし、そのような判決で自らの職責に誇りを持てるのだろうか。裁判所が自らの職責を放棄し、期待された役割を果たせないなら、そのような仕事しかできない裁判官が国民からの信頼を得られるはずがない。憲法判断をしないことは政府による違憲の安全保障政策を追認し加担したことになり、極めて政治的な判断であったと後世で評価されるだろう。
裁判官は、自らの良心に忠実に仕事ができ、憲法と法律にしか拘束されることがない。自らの保身だけを考える木端役人のような裁判官に成り下がることもできるが、苦しんでいる国民・市民を自らの判断で救うことができるし、自らの信念でこの国の憲法秩序を護ることができる。法律家として、裁判官ほどその力を発揮できる職業はない。
全国で25件の同様の訴訟を提起した控訴人らを含む7699人は、侵害された自らの権利の回復のみならず、毀損された立憲主義の回復を求めて提訴することで「不断の努力」の一部として自立した国民・市民としての役割を果たした。訴訟代理人らも「基本的人権を擁護し、社会的正義を実現することを使命とする」弁護士として役割を果たそうとしている。裁判官各位も、人権保障機能と憲法保障機能を果たすことによって立憲主義を回復するための役割を果たしていただきたいと切に願う。
本件で裁判所が明白な違憲判断を示すことは、司法が政治に巻き込まれるのではなく、司法の威信を取り戻し、立憲主義を回復するために、今、国民から最も司法権に期待されていることなのだ。平和を求める多数の国民・市民、そして、学者、法律家、メディアを含めた世論が注目している本訴訟の本質を決して矮小化することなく、裁判官各位の良心が凝縮された歴史に残る判決を求めて弁論を終える。