第203回:戦争と原発と核抑止論(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

制圧された原発で…

 気になるニュースを見かけた。東京新聞(3月20日)の記事だ。ウクライナでの戦火が止まない中で、「原発」のことが気になっていたけれど、まさにその「原発」についての恐ろしい記事だった。

「ザポロジエ」制圧のロシア軍
原発砲撃 危険性知らず
ウクライナ企業トップ「安全地帯必要」

 ウクライナの原子力企業エネルゴアトムのトップ、ペトロ・コティン総裁代理は共同通信のオンラインのインタビューに応じ、南部ザポロジエ原発を制圧したロシア軍は「砲撃の危険性に対する知識がまったくなかった」と明らかにした。使用済み核燃料の貯蔵施設が被弾すれば放射性物質が拡散しかねない深刻な状況だったと指摘。国内全ての原発周辺三十キロに軍の侵入を禁じる安全地帯を設定するよう国際社会に協力を訴えた。(略)
 コティン氏によると、原発の敷地内には約五百人のロシア兵や約五十台の軍用車両が居座っており、制圧後に派遣されてきたロシア国営原子力企業ロスアトムの技術者らがいる。同氏はウクライナ人職員らが「心理的に厳しい状況」に置かれているとし、安全性の確保に懸念を示した。(略)
 ロシア軍が原発を占拠した理由については、重要インフラを管理下に置く狙いのほか、原発にとどまっていれば、ウクライナ軍から攻撃を受けずに済むことなどを挙げた。
 ロシア軍が侵攻直後に制圧した北部チェルノブイリ原発では、砲撃などで、一九八六年の事故時に降り注いだ放射性物質が土壌からほこりと一緒に舞い上がり、局所的に放射線量が上昇したという。(略)

 ぞっとするニュースだ。ぼくは当初から「戦争と原発」について憂慮していたのだけれど、それがどうも現実的になったようだ。
 むろん、この戦争は一種の「プロパガンダ戦」の様相も呈しているのだから、ウクライナ側の発言をそのままそっくり受け取るわけにもいかないだろう。実際、20日にお会いした軍事ジャーナリスト田岡俊次さんも「それがどこまで真実かは分からないね」とおっしゃっていた。
 その通りだけれど、原発敷地内に砲弾が飛び交ったのは事実だ。ロシア軍が、きちんと原発の構造や危険性を理解した上で攻撃を仕掛けたかどうか、それにウクライナ軍がどう対応したか、そこはほんとうに気になる部分だ。
 普通に考えて、ロシア兵が原発についての詳しい知識を持っていたとは思えないし、原発占拠の際に専門家を同行させていたとも思えない。とすれば、かなり危険な状況にあったのではないかとぼくは思う。素人が、重要施設だからというだけで原発を占拠するために攻撃する。もし守備隊が頑強に抵抗したら、原子炉や使用済み核燃料の貯蔵施設にまで破壊が及び、放射性物質による激しい環境汚染が起きたかも知れない。
 どこまで事実かは分らないけれど、前出の記事では「チェルノブイリ原発で局所的に放射線量が上昇した」と書かれていた。

「核抑止論」の崩壊

 原発が両軍の争奪の標的になったという事実は、原発というものの軍事上の価値を示している。ここを「人質」にとれば、ある意味で、核爆弾を抱え込んだということだ。つまり、核を武器として敵につきつけたということだ。
 「核抑止論」は、かくして崩壊したのだ。「核兵器を持つことで他国の核攻撃を抑止する」というのが「核抑止論」だけれど、そこに「原発」が別の要素として加われば、従来のリクツは当てはまらなくなる。
 いまや世界のいたるところに原発は存在する。日本にだって廃炉作業中や停止中も含めて54基の原発がある。このうちの1基でも、もし攻撃を受けたらどうなるか。そのシミュレーションがウクライナで展開されたのだ。世界中に「核」が散らばっている現在、「核をもって核を制する」ということは、もはや不可能だ。
 ぼくが、こんなツイートをした。

ウクライナ戦争で「核抑止力」の無意味さを確信した。そして「原発の危険性」もイヤというほど身に沁みた。違いますか、みなさん?

 すると、賛同の声とともに、たくさんの批判も寄せられた。典型的なのが次のようなもの。「ロシア軍の持つ強力な抑止力のせいで、NATOは参戦出来ないのです。今回のウクライナは、核抑止力が凄まじく大きな意味を持った戦争です」
 そうだろうか。
 繰り返すが「原発」が世界中に散在する以上、ここへの攻撃が核攻撃と同じ意味を持つのだから「核兵器を持たない国でさえ核攻撃ができる」のである。だとすれば「あいつが核兵器を持つのなら、対抗上こちらも核兵器を用意する。そうすれば、あいつは核の反撃を恐れて核兵器を使えないだろう」というリクツはほとんど無意味になる。通常兵器での原発攻撃が、核爆発の効果を生むのであれば、核兵器に頼る必要はなくなる。
 これが「核抑止力の無意味」とぼくが書いた理由である。
 ほんとうに、みなさんはどう思われるだろうか?

ゾロゾロと這い出した改憲派

 さて、このウクライナ戦争に便乗して、またも日本国内のネット右翼の方々は「敵基地攻撃論」や「核共有論」、さらには緊急事態条項を加える「改憲」などを、かまびすしく騒ぎ立て始めている。
 だいたい「核共有論」など、ちゃんちゃらおかしい。
 日本の国是である「非核3原則=核を持たず、作らず、持ち込ませず」のなかの「持ち込ませず」を考え直してみようと主張する人たち。つまり、米国の核の傘の下に日本はあるのだから、正式に「米軍の核の日本への持ち込みは認めよう」ということだ。「議論することは自由なはずだ」などとオブラートに包もうとしているが、本音はアメリカの核を日本へ持ち込ませたいのだ。
 アホか、と言いたい。アメリカが日本国内へ核兵器を持ち込んで配備するとする。多分、その場合は沖縄の米軍基地が最適とされるだろう。いや、岩国や横田だってその可能性はある。だが、アメリカが核兵器の使用権限を日本と共有しようとすることなど、断じてあり得ない。1000%あり得ない!
 核使用の「鍵」は米大統領が保有する。日本の出る幕などない。日本国首相がその「鍵」に触れられるはずもない。
 台湾有事や、中国への「抑止力」としての「核共有」を主張しているのがネット右翼諸士なのだ。その極右的主張に、自民党や維新、それに国民民主党までがなびき始めたということだ。非核3原則を、ウヤムヤのうちになし崩しにしてしまおうとする連中の薄汚さに乗せられてはいけない。「ウクライナ戦争」を、そんな具合に利用しようとする輩を許してはならない。

煽動に乗ってはならない

 ウクライナのゼレンスキー大統領の演説は、悲壮感に満ちて巧みだ。アメリカ議会やイギリス議会では、満場の議員たちのスタンディング・オベーション。日本でも同じ情景が繰り返されるだろう。
 だが、注意してほしい。彼の演説で、妙なナショナリズムの高まりを喚起されるのは御免だ。日本もともに戦おうだの、NATOやアメリカの参戦を求める、などという方向へ行ってはならない。
 ウクライナ国民への同情は当然だし、屈せずに反戦を叫ぶロシア国民への連帯も大切だ。けれど、そこからさらに戦争の泥沼へ加担してはならないと思う。
 日本という国にとってできることは何か、ぼくには結論はまだ出せてはいないけれど、戦争への加担には、絶対に賛成できない。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。