2月に起こった、ロシアによるウクライナ侵攻。これ以降、日本国内でも「憲法9条を変えて軍事力を増強すべき」「非核三原則も見直すべきだ」といった声が強まっています。核使用も懸念されるこの大きな危機を前に、私たちが改めて考えるべきこと、向き合うべきこととは? 「伊藤塾」塾長、そして「憲法の伝道師」として、憲法の理念を伝え続けてきた伊藤真さんにお話をうかがいました。
ロシアのウクライナ侵攻から見えること
──2月に起こったロシアによるウクライナ侵攻は、世界に大きな衝撃を与えました。ドイツをはじめヨーロッパ諸国が軍事費の増強に動くなど、世界の安全保障のあり方にも変化が起こりつつありますが、今回の事態をどう感じられていますか。
伊藤 ウクライナの状況については、限られた報道やSNSからの情報で知るしかありませんが、映画や小説の話ではなく生身の人間の命や生活が破壊されていく、そのことの恐ろしさを改めて感じました。戦争の本質は「殺し殺されること」であって、絶対に起こしてはならないものだということを強く思い知らされています。
戦争がそうして「絶対に起こしてはならないもの」だからこそ、国際社会は第二次世界大戦後に国連を立ち上げ、武力によって問題を解決するのはやめよう、戦争を政治の手段にしてはならない、という方向に進んできたわけですね。国連憲章2条4項はすべての国連加盟国に対して、国際関係において「武力による威嚇又は武力の行使」をしてはならないと規定していますが、ロシアは国連常任理事国でありながら、この規定を無視して侵略行為に出た。まったく想定外のことであり、決して容認できません。
ただ、そうして想定外のことが起こったからといって、これまでの「戦争はやめよう」とする努力は無駄だった、という方向に流されてしまうのはとても危険だと思います。たしかに、戦争を始めないために世界がつくり上げてきた国際的な枠組みは不完全だったかもしれません。そのために今回の侵攻が起こってしまったわけですが、だからといってあきらめてはいけない。武力によって問題解決しようとするのは誤りであって、あくまで国連憲章をはじめとする法によってコントロールされる社会を私たちは目指さなくてはならない。その方向性だけは間違えてはいけないと思っています。
──日本国内でも、「ウクライナが攻められたのは十分な軍事力がなかったからだ」などとして、軍事力の増強を主張する声が目立っています。
伊藤 それは、このウクライナ侵攻から私たちがどんな教訓を引き出すのかということだと思います。
第三者としての視点からは、さまざまな教訓を読み取ることが可能でしょう。「いつウクライナのように理不尽に攻められるか分からないのだから、強い軍隊が必要だ」という教訓を見いだすこともできると思います。強い軍隊を持っていないと侵略に対処できない、国家である以上は正規の軍隊を持ち、強化すべきだということですね。そして、一国では対応しきれない場合もあるから、有事の際に助けてもらうために、軍事同盟──日本の場合なら日米同盟が不可欠だ、集団的自衛権の行使も含めていっそう強化していくべきだ、ということになるでしょう。
しかし、同じ事柄を見ていても、そこからまったく逆の教訓を見いだすこともできます。そもそも、ウクライナは軍隊を持っていても侵攻を防ぐことはできなかったし、ロシアが全面侵攻に踏み切った背景には、ウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟問題があったといわれています。
──ウクライナへの攻撃が始まる前、ロシアは冷戦終了後のNATO拡大を批判し、NATOにウクライナの非加盟を含む東方拡大の停止を求めていました。
伊藤 そうすると、ウクライナが軍事同盟であるNATOに入ろうとしたことが、ロシアにウクライナ全土を攻撃する大きな口実を与えてしまったことになります。あくまで中立を貫いていれば、そうはならなかったかもしれない。軍事同盟に入ることが逆に危険を招いた、軍事的中立の立場をとっていたほうが、結果的には国民の生命や財産を守ることにつながったのではないかとも言えるわけです。
また、ウクライナのゼレンスキー大統領には、まだNATO加盟には至っていなくても、アメリカやEU諸国が軍隊を送り、ウクライナを助けてくれるだろうという期待があったかもしれませんが、そうはなりませんでした。軍事介入が行われるかどうかは、結局はそれぞれの国の国益によるのだという冷徹な国際社会の現実こそが今回の教訓だと考えることもできると思います。
これを日本に引き付けて考えるならば、日米安保条約の第5条には、日本の施政下にある領域に武力攻撃があったときは、日米両国は「自国の憲法上の規定及び手続きに従つて」対処する、と書かれています。つまり、日本が攻撃を受けたからといって、アメリカが自動的に助けてくれるわけではない。それがアメリカの国益にかなわなければ、何らかの理由を付けて介入を避ける可能性もあるわけです。どこの国も自国の国益が一番なのは当然ですから、安易に他国と組むこと自体危険なことだという教訓を得ることもできるでしょう。
ウクライナ侵攻の現実から「軍事力や軍事同盟を強化しないと危険」という教訓を引き出すのか、「軍事力や軍事同盟に頼ることこそ危うい」と考えるのか。私たちは今、その岐路に立っているといえると思います。
敵基地攻撃能力の保有とは、「戦争できる国になる」ということ
──軍事力の増強という点では、岸田政権は以前から「敵基地攻撃能力の保有」を目指すとも明言しています。
伊藤 敵基地攻撃能力といって多くの人がイメージするのは、北朝鮮などからミサイルが発射される前に、その発射基地だけを破壊する、というものではないでしょうか。相手国全体への攻撃とはまったく別物だと考えている方が大半だと思います。
しかし、敵国のミサイル発射を完全に防ぐためには、まず敵の防空用レーダーを無力化し、相手国の制空権を確保することが不可欠です。そのためには相手国の空港施設などを破壊する必要がある。そして、どんなにピンポイントで爆撃を行おうとしても、誤爆によって民間施設に被害を与えてしまうリスクはゼロにはなりません。
──アフガニスタンなどでも、米軍による「誤爆」で多くの民間人が亡くなっていました。
伊藤 そうです。そう考えると、敵基地攻撃能力を行使するということは、民間人を巻き込んで戦争をすることに他なりません。それはつまり「普通の戦争をする」ことであり、「民間人に犠牲が及ぶ」という意味では、今回ロシアがウクライナに対してやったことと何も変わらないのです。
そして、その能力を活用するためには、軍事衛星からの情報収集、通信傍受など、さまざまな情報収集能力が必要になります。日本だけでそれができるはずはありませんから、すでに進められている自衛隊と米軍との一体化が前提となっているわけです。
敵基地攻撃能力の保有はアメリカから要請されているものでもありますが、その主目的は日本を守ることではなく、アメリカに向けて発射されるミサイルを打ち落とす、あるいは発射されないように攻撃する、その役割を日本に担わせること。日本が、アメリカを防衛するための最前線として位置づけられるということなのだと思います。日本の国土を守るために、敵基地だけを攻撃してミサイルを発射させないなどという、限定された話ではまったくないのです。
──当然ながら、憲法9条にも違反するのではないでしょうか。
伊藤 もちろんです。「9条をなくして戦争をする国にするんだ」というのなら話は別かもしれませんが、岸田政権がやろうとしているように、このまま敵基地攻撃能力についての議論を進めるのであれば、完全な憲法無視だといえるでしょう。
「核」をめぐるリスクとは
──今回のウクライナ侵攻で、ロシアのプーチン大統領は「核兵器の使用」にも繰り返し言及しています。これを受けて、安倍元首相など一部の政治家からは、非核三原則を見直して、アメリカの核兵器を国内に配備する「核共有」も検討すべき、との主張も出てきています。
伊藤 まずは、その「核共有」にどれほど必要性があるのかを、冷静に見極めるべきでしょう。漠然とした恐怖心だけで「核共有すれば他国からの攻撃を避けられる」と短絡的に考えるのではなく、そこにどんなメリットとデメリットがあるのかを、しっかりと見ていかなくてはなりません。
これは、「平和憲法の下、しかも世界唯一の戦争被爆国としてそんなことが許されるのか」という道義的、倫理的な問題だけを言っているのではありません。安全保障の観点から見ても、そもそも現状で既に日本はアメリカの「核の傘」の下にいるのであり、それ以上に核兵器を国内配備しなくてはならない理由がどこにあるのか。しかも、新たに「核共有をする」ことになれば、中国やロシア、北朝鮮など周辺国を刺激し、そうした国々との関係が悪化するのは間違いありません。実際、今回のウクライナ攻撃の際にも、ロシアはその口実の一つとして「ウクライナの核武装を阻止する」と主張していました。
しかも、これまでは「使わないことに意味がある」のが核抑止力の本質だったわけですが、今回その前提は完全に崩れてしまいました。どの国も核攻撃を受ける可能性が実際にあるという前提のもとで、議論をしなくてはならなくなったわけです。
そう考えたとき、核共有によって中国やロシアと対立を深めることは、アメリカとそれらの国々との、核兵器を伴う戦争の最前線に日本が対峙させられるということにもなります。それが本当に日本国民の命や財産を守ることにつながるのか。かえってリスクを高めてしまうことになるのではないか。そこのところを真剣に、冷静に考えなくてはならないと思います。
──さらに、ロシア軍がウクライナの原子力施設を攻撃したことで、「原発が攻撃対象になる」恐怖も現実のものになってしまいました。
伊藤 以前、原発技術者の方に「外部からの攻撃に対して、原発は極めて脆弱だ。攻撃によって電源が失われ、冷却水が止まれば一発で終わりなのだから」と聞いたことがあります。今回、まさにその脆弱さが利用され、原発が一つの武器のように扱われました。「原発がある」こと自体が安全保障上のリスクになりうることが明らかになったといえるでしょう。
そもそも、原発だけではなく核兵器も含め、核というものは持っていること自体に大きなリスクがあります。原発なら当然事故が起こることもあるし、核兵器も意図せず何かの間違いで使われてしまう場合もある。あるいは、当初は使用する意図はなくても、対峙する相手に抑止力が働かなかった場合、結果的に重大な結果をもたらしてしまうこともある。だから核そのものを廃絶の方向に持っていかなくてはならないんだというのが、2021年に発効した核兵器禁止条約の発想でした。今回のウクライナ攻撃により、そうしたリスクがよりはっきりと、現実のものとして見えてきたといえます。
先ほど、軍事力が重要だと考えるのかその反対か、どちらの教訓をとるかは私たち次第だという話をしました。核についても同じで、「核を所有していること」のリスクがこれほど高いことが分かったのだから、核を廃絶しようという方向に向かうのか、それとも「だからこそ互いに核を所有すべきだ」という方向に進んでしまうのか。ここでも私たちは、瀬戸際に立たされているのだと思います。
憲法9条を変えることは、「武力で問題解決する」方向に進むということ
──また今回、日本政府はウクライナ政府の要請に応じ、防弾チョッキなど自衛隊の装備品をウクライナに提供しました。事実上の武器輸出なのでは? とも思えますが、憲法との関連などで問題はないのでしょうか。
伊藤 海外への武器輸出に関しては、かつては平和主義に基づく「武器輸出三原則」で堅く禁じられていたのですが、安倍政権時代にこれが「防衛装備移転三原則」に転換されてからは、事実上骨抜きにされてしまったといえます。
ただ、今回のことに関しては、防弾チョッキが武器にあたるかどうかといった内向きの議論よりも、「ロシアから見たときにどうなるか」のほうが重要だと思います。兵士の安全を守るための防弾チョッキは、ロシアからすれば明らかに「武器」。いくら日本が「防衛装備品であって、武器ではありません」と言っても、そんな主張が通用するはずがありません。日本は、ロシアに敵対する行為をしたと見られるのは確実でしょう。
当然、そこには「ロシアから敵対視されて攻撃を受ける」というリスクも伴うわけですが、供与を決めた政治家たちには、それだけの覚悟があったのでしょうか。国民的な議論もなしに、こんなリスクの高い措置を政府内で決めてしまうのは、あまりにも非立憲的なのではないかと感じました。
──では、この問題に関して、日本はどんな役割を果たすべきでしょうか。
伊藤 本来なら、NATO加盟国でなくロシアの同盟国でもない、そして9条を持つ日本こそがロシアとウクライナの間の仲介役になるべきだったと思います。ただ、日米安保条約のある現状では、日本が「仲介を」と言って出て行っても、「アメリカの手先だろう」と思われるのが関の山でしょう。そうして、本来果たすべき役割を果たせなくなっている状況があるのは、非常に残念なことです。
現状でできることは、やはり食料や医療・衛生品の提供など、非軍事面での支援。そしてウクライナからの避難民の受け入れでしょう。日本はウクライナから距離がありますから、避難先として希望する人はそう多くはないかもしれませんが、それでも受け入れの意思を示すことには意味があると思います。あるいは、多くの避難民を受け入れているヨーロッパの国々に財政的な支援を行うという手段もある。戦いをあおる「防衛装備品の供与」よりも、中立の立場を守りながら、まだまだできることはあるはずです。
──最後に、憲法9条についてお聞かせください。敵基地攻撃能力の保有が憲法9条違反だという話もありましたが、今回のウクライナ侵攻を受けて、9条そのものについても「国の安全を守るのに役に立たない」「変えるべきだ」との声が高まっています。これについてはどうお考えでしょうか。
伊藤 そもそも、ウクライナに憲法9条があったわけではないのですから、ウクライナが侵攻を受けたことで「9条は役に立たない」という話になる理由が分かりません。むしろ、仮にウクライナに9条があって「非軍事中立」の立場を取っていたなら、ロシアにウクライナへ攻め込む理由や口実を与えずに済んでいたかもしれないともいえるのではないでしょうか。
その上で言うのですが、9条を変えるというのは、これまでの世界の動きとは反対に、「問題を武力で解決しよう」という方向に進むことを意味します。つまりは、他国から攻撃を受け、場合によっては核によって攻撃される可能性を高めることにつながる。それは果たして合理的といえるのか。そして、「9条は役に立たない」と言う人たちは、「核攻撃されるリスクが高まるかもしれない」という覚悟を持って言っているのだろうかと思います。
私は、9条なんてなくていい、強い軍事力を持てば安全だなどというのは、あまりにも戦争の実相を知らなすぎる発言だと思います。戦争というものがいかに悲惨な被害をもたらすかは、今のウクライナを見れば明らかだし、いくら強い軍事力を備えて戦争に勝ったとしても、その傷跡はあまりにも大きい。アメリカでは、イラクなどからの帰還兵が、戦場体験によるPTSDで次々に自ら命を絶っているという現実があります。その数は戦死者の比ではありません。
戦争は一度始まってしまうと国民も政治家も後に引けなくなり、ナショナリズムの高揚や情報統制によって適切な判断ができなくなります。「9条なんて役に立たない」と抽象的な議論をする前に、私たちは戦争がもたらす悲惨な現実としっかり向き合わなくてはなりません。戦争が始まってしまったら、勝っても負けても、悲惨な結果が避けられないのですから、その「悲惨な現実」をいかに起こさないかという議論こそ、進めていくべきです。ひたすら「軍事的に強い国」をめざすのではなく、9条の理念に沿った「攻められない国」をめざし、どうすれば周辺諸国に「安心を供与」できるかを本気で考えなければならないと思います。
(聞き手・塚田壽子 構成・仲藤里美)
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いとう・まこと●伊藤塾塾長、法学館憲法研究所所長。司法試験合格後、真の法律家の育成を目指し、司法試験の受験指導にあたる。日本国憲法の理念を伝える伝道師として、講演・執筆活動を精力的に行う。日弁連憲法問題対策副本部長、安保法制違憲訴訟全国ネットワーク代表代行、弁護士として「1人1票実現運動と裁判」にも取り組む。『安保法制違憲訴訟』(寺井一弘氏との共著、日本評論社)、『9条の挑戦 非軍事中立戦略のリアリズム』(神原元氏、布施祐仁氏との共著、大月書店)など著書多数。