第108回:「日本人になれない」からの卒業~なぜ復帰50年を祝えないのか~(三上智恵)

 「岸田は帰れ。聞く耳が自慢なのに、なぜ沖縄の声は聞かないの?」

 「復帰運動をあんなに頑張ったのに、50年目でこの状況はやるせない。でも認めるわけにはいかないから、なんとしても沖縄の魂を見せつけないと!」

 政府と沖縄県が復帰50年の式典を開く宜野湾市の沖縄コンベンションセンター。これから政府要人を迎える会場周辺は、県外からの応援で駆け付けた警察官で溢れかえっているが、午前中激しい雨に見舞われたため、みんな可哀想にマスクまでびしょ濡れだ。同じように、50年前の5月15日もバケツをひっくり返したような大雨だった。復帰を祝う式典が那覇市民会館で挙行されたが、沖縄の悲願が何重にも裏切られた条件の復帰となってしまったために、隣の与儀公園には抗議に押し寄せた県民1万人余りが集い、雨具に包まれた肩を怒りに震わせていた。
 そして今年も、招待されてもいないのに式典会場の前に集まった人たちは、口々にその話をした。「50年前も雨だった」と。そして「どんな雨でも、今日は行かないといけない」「お祝いムードで終わらせないで」と、カメラを持つ私に同じことを訴えた。

 今年が復帰50周年に当たるということで、様々な企画やイベントが数年前から準備され、年が明けてからの沖縄はどこか浮ついた空気に包まれている。いろいろあっても、この節目を前向きに捉えようというポジティブな流れもある。かといって沖縄の復帰と発展をまるで自分の手柄のように演出しかねない政府のイベントに対する警戒感も根強い。復帰の時の悔しさを記憶している世代の人たちは特に、お祝いされてたまるかという反発もある。
 でも結果的に、15日復帰式典を伝える全国ニュースはどこも似たり寄ったりだった。岸田首相の挨拶と玉城知事の言葉を紹介する程度で、会場周辺の怒号飛び交う様子はほとんど流れなかったようだ。

 なので私は、会場周辺にはいったいどんな人たちが、どんな思いで集まって来ていたのか、その声を紹介することにした。たくさんの声を拾っているのでぜひ動画を見て欲しい。が、当然、復帰に肯定的な人はそこにはいないので、バランスの取れた「両方の意見」でないと不快だという方は、沖縄県のHPの式典の映像やNHKのニュースの方をご覧頂きたい。

 「復帰の時に一番ワジワジーしたのは(腹が立ったのは)自衛隊が入ってきたこと。いないはずのアメリカ軍もいるし。こんなはずじゃなかったと」

 「50年前より悪くなっていますよ。インフラは整備されたかもしれないけどね。米軍基地は増える。自衛隊も入って来た。ミサイルも並べる。憲法も変えるんでしょ?」

 50年前、基地のない平和な島になるという復帰の希望は砕かれた。しかし、憲法の下、基本的人権を保障され、民主主義の主役として、本土の人たちと共に一つひとつ人権を回復していこうと、沖縄県民は他府県に比べてはるかに熱心に大衆運動に取り組んできた。早く本土に追い付こうと頑張った。47都道府県の一員として肩を並べ、同じように大事にされ、守られる存在になろうとした。
 特に今回インタビューした人の半分は沖縄の元先生で、復帰運動の先頭に立って頑張った人たちであり、教え子たちに、「頑張れば本土の人たちに決して引けを取らないんだよ」とはっぱをかけて希望を持たせ、みんなで誇りの持てる島にしようと情熱を傾けてきた方々である。そして人一倍、復帰の時に積み残した課題に対して責任を感じ、退職後も平和運動に熱心に取り組んできたのがこの先生たちなのだ。

 Tさんは、私が尊敬するそんな先生の一人である。米軍基地がたくさんあった那覇市小禄の出身で、復帰して彼らがいなくなれば道が広くなると期待していたら、いつの間にか自衛隊のものになってしまったと苦笑する。

 「でも私は日の丸の旗を振って復帰を願った少女でした。何もかもがよくなると思った。沖縄にないものがたくさんある本土に、パスポートも持たずに行けると」

 彼女が10代の時に頻発していたアメリカ軍の事件や事故。でも、ジェット機が小学校に墜落し200人余りの死傷者を出した宮森小学校の事件さえ、特に記憶にはないという。
 同じ那覇市の中学1年生だった国場君が米軍のトラックに轢かれた事件でさえ、うろ覚えだそうだ。横断歩道を渡っていた国場君には何の落ち度もなかったが、加害者の米軍は車から降りることもなく、ガムを噛んで遺体を眺めていたという。米軍のドライバーは「西日が眩しかった」と信号無視を正当化し無罪になった。口惜しさの余り、先生たちは自ら証言者を探し、本当に西日で信号が見えないかを検証したり、また生徒たちは大規模な抗議集会を開いたりしたことなど昔取材した。このような事件が数えきれないほどあったためか、彼女は社会科の教師になるべく勉強する中で、ようやくだんだんと沖縄の状況を俯瞰できるようになったそうだ。そして退職してからは、再び基地のない沖縄を目指して辺野古の座り込みも積極的に参加してきた。でも日米両政府の壁の厚さに打ちのめされもする。

 「沖縄が”国内植民地”なんだと自覚することはとてもつらいね。47都道府県の一つで、同じ立場なんだと思いたいけど、そうではないということも自覚しないと。自覚してから、なにくそ、と次の闘いに行かないと」

 珍しく弱気な発言をしたと思うと、ドキッとすることを言った。

 「日本人になりたくても、なれないウチナーンチュ、そういう風なところから、卒業してしまわないといけない」

 そう言って彼女は右手でゲンコツを作って、おもむろにそれを覗き込んだ。

 「この手の中にね、独立、とか、いろんなものがあるけれども……」
 「私の独立する権利とかね、もっと自由でありたいと主張する権利とか、全部ここに入ってるワケね。いつも握りしめているという。私たちは私たちなんだ、っていう……」

 彼女のコブシは、何かを手繰り寄せるように宙を舞った。その手の中には、まだ完全に消されてはいない希望の粒子が、光になる日を待っている。そんな不思議な動作だった。

 戦争では本土の防波堤にされ、戦後は本土から切り離された島に育った少女でも、本土に憧れる。守られ、大事にされると信じて復帰を求める。そしてまた裏切られる。この物語は残酷に過ぎる。
 それでも日本に復帰すると同時に大人になった彼女は、猛チャージして本土に追い付こうと教育の世界で踏ん張り、手ごたえも感じて勤め上げ、退職教員になってからは平和運動に邁進する。辺野古でも高江でも、いつも元気で周りを照らすTさんに私も何度救われたことかと思う。でも最近は少し疲れてしまったともいう。宮古島や石垣島のことも何もできていないのが申し訳ない、と責任感の強い彼女は肩を落とした。

 Tさんだけでなく、今年の5月15日が近づいてくるにつれて“この50年は何だったのだろう?“と問い返し、自分に突きつけ、辛くなってしまった人が、この島にはたくさんいたと思う。政府の欺瞞や本土の冷たさを責めるだけならまだいいが、自分は何をしてきたのだろう? と居ても立ってもいられなくなった人が、とにかくこの日を「お祝い」で終わらせないで欲しいと会場の周りに集まってきているのだった。

 しかしその間、式典会場のステージでは、招待された観客を前に、沖縄の文化や自然を褒めそやし、国と力を合わせて見事な経済発展を遂げたことをうたい上げるVTRが上映されていた。そして岸田総理は、沖縄返還は「日米両国の友好と信頼により可能になった」と胸を張った。これは県民の認識とはかけ離れたものだ。
 復帰は、アメリカの軍政に苦しむ沖縄県民の日本復帰を求める地を這うような取り組みが勝ち取ったものである。県民の作り上げた大きなうねりが抑えきれなくなったからこそ、あたかも外交の成果のように装って沖縄県民の眼を逸らしながら「基地の自由使用」や「核の再持ち込み」の密約で沖縄を「取引」したのが日本政府から見た沖縄復帰ではなかったか。沖縄の学者やローカルメディアが何重にも暴いてきた復帰の密約に関して、よもや県民には気づかれていないと政府が思っているとしたら噴飯ものである。
 私は、会場前でプラカードを掲げている人たちは幸いであると思った。もし私が、雨だからと家でこの式典の中継を見ていたら、ステージで展開されるおとぎ話のような演出に驚き、ひとり叫ぶこともできずに憤死するほど憤っていたに違いないからだ。

 今回の動画では、間違って式典に抗議する人たちのいる場所を通ってしまった仲井真元知事や、国会前でハンガーストライキを始めた元山仁士郎さんや、また本土の平和運動の人々や中核系団体、核マル系団体、それを追いかけてきた右翼団体など、実に様々な動きを伝えている。それぞれ思うところはあるが、映像の紹介にとどめておく。決して「天皇皇后両陛下もお招きした和やかな50周年式典」だけではなかった記録を残せたらと思う。

 誰かがこんなことを言っていた。沖縄は、博打で負けた借金の形として、人質のように他人の家にやられていたものが、50年前、虐待する親の家に戻っただけだと。笑えない話だ。せめて兄弟は揃って弟の味方をし、力を合わせてグダグダの親の性根を入れ替えましたとさ、というハッピーエンドに無理にでももって行ってくれないと、三流の絵本にもならない。
 しかし46人の兄弟たちは、「いじめられるのは自分が悪いのか?」と泣いているこの弟に、どんな手を差し伸べてくれただろうか。前回ここに書いた奄美と与論の人たちのエピソードのような実話がほかにもあるなら、ぜひ知りたい。教えて欲しい。いいえ、たとえ50年黙殺してきたという姉や兄でも、今からでも遅くはない。「あなたは大事な、私たちと同じ対等な兄弟よ」と沖縄くんの肩を抱いて、しばし一緒に歩いてはくれまいか?

 「沖縄に雪が降らないのも、桜が咲かないのも、みんな沖縄が悪い、と思った」

 式典のあと、何とも形容できない疲れを引きずったままパソコンでプレビューしていた私は、Tさんのこの言葉に手を止め、泣いた。このもつれた感情は、単なるコンプレックスとは違う。「なぜ不十分な日本人なのか?」というような問いに苦しみ続ける大人たちの横で、少女はそう思うしかなかった。でも、「そんな風なことからはもう、卒業してしまわないといけない」。それが、復帰願望が強かった沖縄の少女の、半世紀を経た結論だった。

 50年経っても、ここに雪は降らないし、ソメイヨシノも咲かない。親に愛されることも、家族に守られて眠る安心も、雪と桜ほどに儚くこの島からは掴み取れないものなのだとしたら、卒業してしまわないと先に進めないのだから。

三上智恵監督『沖縄記録映画』
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標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』『沖縄スパイ戦史』――沖縄戦から辺野古・高江・先島諸島の平和のための闘いと、沖縄を記録し続けている三上智恵監督が継続した取材を行うために「沖縄記録映画」製作協力金へのご支援をお願いします。
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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)