社会制度上は、存在しないはずの「部落」。それにもかかわらず、部落差別という問題はあり続けてきました。どのように差別は生まれてきたのか――その歴史をたどりながら、目には見えにくい部落問題を、さまざまな人の個人的な語りや対話から描き出した映画が『私のはなし 部落のはなし』です。監督の満若勇咲さんにお話を聞きました。
関係性のなかで語られる「わたしのはなし」
――この映画は、いわゆる被差別部落の住民をはじめ、20代から80代の方までさまざまな立場の人たちが登場して、それぞれの経験や思いを語りながら進んでいきます。ほとんどが一対一のインタビューではなく、友人同士など数名のグループのなかで対話する様子を撮っていたのも印象的でした。
満若 部落問題そのものが一言では要約しづらいものなので、だれか一人に部落問題を背負わせて描く方法は適切ではないだろうと思っていました。それに人権問題という大上段に構えた切り口ではなくて、結婚のときの不安や同級生の言動、差別が激しかった時代の経験など、いくつもの個人的な物語の中から、部落問題が見えてくるような映画にしたかったということがあります。
グループでの対話という形をとったのは、知り合い同士、同級生同士など、彼ら・彼女ら自身の関係性のなかで語られる話や、その表情やたたずまいなどから伝わるものがあると考えたからです。
『私のはなし 部落のはなし』より(c)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
――それぞれの「私のはなし」が語られるのと交互して、日本近現代・思想史を専門とする研究者、黒川みどりさんによる歴史的な解説が非常に詳しく語られますね。
満若 多くの人が前提として部落問題の歴史を共有しているなら、わざわざ映画で描く必要はないと思うんですよ。だけど、実際は全然そうではない。歴史的な前提がないと「ネットにこういう部落への差別的な書き込みがある」となったときに、「削除する」という対症療法も大事なのですが、そこから一歩踏み込んだ本質的な議論に発展しないと思うんです。
いまネットに書かれている偏見や真偽不明な情報も、100年前の新聞記事に載っている内容も、実はほとんど変わっていなかったりする。そういう「『差別を残してきた人の意識』を残してきたこと」が問題の本質で、そこを描かないとダメだろうと。そのためには歴史が必要でした。それも単に歴史を振り返るのではなく、「呼称」を切り口に近代史を振り返るというアプローチをとりました。
『私のはなし 部落のはなし』より(c)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
外からの視線によってつくられてきた差別
――「呼称」の話でいうと、歴史的には1871年のいわゆる「解放令」によって被差別身分が廃止されたあとも、「新平民」という呼称で人々への差別が残り、日露戦争後には身分ではなく居住地域に対する差別として、ほかの地域と区別するような呼称がつけられて部落問題が浮上してきました。
満若 部落問題というのは「時間の問題」だというのが、僕のひとつの問題提起です。反差別運動の結果、幸いなことに、かつてのような目に見える差別は減ってきました。しかし、映画に出てくる若い人たちが抱えている「差別されるかもしれない」という不安は未来に対してあるものだし、その不安は差別を受けてきた過去があるからこそです。いまこの瞬間の話だけでなく、そうした縦の時間軸抜きには部落問題は語れないと思っています。
この映画の方向性を決めたひとつに、黒川さんの「部落差別は、被差別部落の外からの視線(まなざし)によってつくられてきたもの」(『つくりかえられる徴』解放出版社)という言葉があります。僕は映画を作るうえで、「部落」は容器みたいなもので容器の中身が何かにかかわらず差別されてきた、という仮説を立てました。
部落差別に論理的な裏付けはまったくありません。「容器である部落」というのは、要するに差別する側の意識のなかにある。合理的な理屈がないから呼称もどんどん変わるし、そのつど差別される理由が探されて、さまざまに理由をつけられてきたという歴史があるのだと考えました。
本当の意味で部落問題と出会ったとき
――監督は2007年、大学3年生のときに『にくのひと』という食肉センター(屠場)とそこで働く人を撮影した映画を製作されています。この作品は、もともとは部落問題を描こうと思ったわけではなかったそうですね。
満若 そうですね。『にくのひと』は、牛丼屋でバイトしていたときに牛肉がどこから来ているか知らないな、という疑問から始まって、屠畜の過程を知りたいという興味で屠場の取材をしたものです。そうしたら、たまたまそこが部落問題と密接に結びついていた。当時、僕としては部落問題を描くというより、屠畜の工程を描くことに軸足がありました。
――上映会では好評だったものの、地域の部落解放同盟の抗議を受けて、決定していた劇場公開を断念されました。
満若 僕自身が本当の意味で部落問題と出会ったのは、『にくのひと』を撮っていたときよりも、この上映に関して解放同盟からの抗議を受けてもめたときだったと思います。映画を封印した直接の理由は、解放同盟ともめたことが原因で地元の人間関係を乱してしまい、主人公の青年から「映画に一切関わりたくない」と申し出を受けたことでした。
――当時は、どういう思いだったのですか?
満若 抗議を受けたことがフォーカスされがちですけど、僕はどちらかというと上映中止になったことで、映画に協力してくれた人や登場してくれた人に対して不義理を働いてしまったという申し訳なさのほうが強くありました。人生で初めてつくった映画がお蔵入りになる悔しさもあって、「部落問題には面倒だからしばらく関わりたくない」という気持ちは正直ありましたよね。
部落問題に関しても、その地域においても、自分が「よそもの」だということを強烈に感じました。当事者性を問われる経験をして、「それならもう当事者だけで部落問題をやればいいじゃん」という投げやりな気持ちになりました。もともと大学卒業後は30歳まで下積みをしようと思っていたので、気持ちを切り替えて、映画の撮影助手やTVなどプロの現場で頑張ろうと思っていました。
「よそもの」として、どう関わるのか
――なぜもう一度、部落問題を描く映画を撮ろうと思ったのでしょうか?
満若 一度挫折したテーマに向き合う必要を感じていたし、10年という時間を経るなかで、「あのときは何が原因だったのか」という整理も自分のなかでつけられていきました。今回の映画は「他者として部落問題にどう関わるか」をひとつのテーマに設定したのですが、それはまさに前作の経験からです。
十年の間、カメラマンとしてテレビドキュメンタリーを撮ってきたのですが、とくにテレビの仕事は「他者性」が強い。取材者との関係は取材する短い間だけのものです。これまで海外でロケを行う仕事が多かったのですが、海外では自分は異邦人だし、向こうも「日本から来た人」という感じで接してきます。でも、その関係性だから撮れるもの、見せてくれる表情がある。ああ、こういう関係性もあり得るんだ、「他者」だから取り上げられるテーマがあるんだなということを、仕事を通じて学びました。
インタビューにて、満若勇咲監督
『にくのひと』当時の僕は、部落問題に関して自分の立ち位置を曖昧にしていたと思います。「責任がとれるのか」と言われたら、責任はとれない。だけど、責任がとれないなかで、どのような関係性を築いていけばいいのかが課題で、当時はそれを考えていなかった。解放同盟から抗議を受けたときにも、なぜそこまで強く抗議するのかが理解できなかったんですよ。彼らが「差別されることの不安」にどれほど苦しんでいるのかが想像できていなかった。つくり手の立場として僕がやるべきことは「なぜ彼らはあれほど怒ったのか」という問いをしっかり持つことだった、という反省があります。
――前作では部落の地名が出ていることも抗議の理由のひとつでしたが、今回の映画でも登場される方たちは顔や地域を出されていますね。
満若 基本的に「出してもいい」という人を紹介してもらいました。それでも、会って話をしていくなかで、「ちょっと、やっぱり」となった場合や、あまり乗り気ではなさそうな人には取材しませんでした。
僕が無理やりお願いして出てもらったのではなくて、この映画に出ているみなさんは「部落問題を知ってほしい」という気持ちを持っています。だからこそ出てくれた。映画は残るものなので、この映画に出たことによって差別される可能性もないわけではありません。それでも協力してくれたことに本当に感謝しています。
顔も氏名も隠して差別意識を語る女性
――対照的に、唯一顔を隠して取材に答えていたのが、近隣の部落住民に対する差別感情を口にする「関西在住の60代の女性」でした。どのように取材をオファーされたのですか。
満若 差別する側の話も聞きたいとずっと思っていて、探していくなかで出会った方です。シンプルに「差別意識を聞かせてください」と頼みました。
――部落への強い差別意識をもちながら、普段は親しく近所付き合いをしている様子だったのがショックでした。
満若 むしろ“あるある”話ではないでしょうか。同和教育をしている学校の先生が、普段は「差別はいけません」と学校で教えているのに、いざ自分の子どもが部落の人と結婚することになったら反対する、みたいな話はよく聞きます。普段は交流をしていても、自分の身内になることに対しては抵抗を感じる。それは別に部落問題に限らず、いろいろなマイノリティ、障がいや国籍、民族など、あらゆる種類の差別問題に共通していることだと思います。
――結婚しようとしていた相手の親に、「現住所を変えるなら心から祝福できる」と言われたという若い男性の話も象徴的です。
満若 それは、さっきも言ったように部落問題というのが論理的な裏付けのない、言ってみれば「気分」によるものだからです。根拠がないので引っ越せばいいという考え方も出てくるんでしょうね。
『私のはなし 部落のはなし』より(c)『私のはなし 部落のはなし』製作委員会
歴史として学び、デマを独り歩きさせない
――どうしていまも部落問題はなくならないのでしょうか。
満若 日本には家柄や血筋、職業などで人を判断するようなカルチャーがあります。今でも小室圭さんの司法試験の結果が話題になるように、やっぱりみんな皇室の話とか好きなんですよね。たとえば菅前総理が首相に就任したときにも「秋田の農家の長男として生まれ、地縁も血縁もない政治の世界に飛び込み…」とか出自についての話がでてくる。こういうことは直接的には部落問題とは関係ないかもしれないけど、つながっています。そうした家柄とか血筋みたいなものから脱していかないと部落問題の解決は難しいのではないでしょうか。
――「寝た子を起こすな」という考え方もあって、部落問題は触れにくいテーマでもあります。ネットには真偽のわからない情報がある一方、この映画のようにきちんと学ぶ機会が少なくて初めて知ったこともありました。
満若 僕は、まずは日本の歴史としてちゃんと部落問題を知ったほうがいいと思っているんです。ちゃんと歴史を知ったうえで、そこから人権問題としてどう関わっていくのかという話が出てくる。
そもそも部落問題は見えにくいものです。そのぶん語りにくいし、TVや映画にもしづらい。たとえば、いま部落と呼ばれる地域を撮影しても、昔のようにバラックが並んでいるわけでもなく、一見ほかの場所と変わりませんから映像にならない。だけど、映画でも語られているように部落問題が消えたわけではありません。
「それはもう言わなくていいこと」として語られなくなると、むしろ人の興味をひきやすいデマやネガティブな情報ばかりが独り歩きして、逆に差別意識が増えてしまう側面もあると僕は思っています。そういう意味では、語り方や語られ方の多様性というものがすごく大事で、多様性があるからこそ「こっちではこう言っていたけど、こっちでは違うんだな」という発見もできます。
この映画のなかで50年前の撮影フィルムを復元しに行く場面があるのですが、現像所の技術者の人からも部落についての話を聞きました。濃淡はあっても、僕自身も含めて日本で暮らすだれもが部落問題と無関係ではない。この映画で描けたのは部落問題という大きな物語のごく一部でしかなくて、もっといろいろな語りが出てきてほしいと思っています。
(構成/中村未絵)
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公式サイト https://buraku-hanashi.jp/
東京・ユーロスペース、京都・京都シネマ、京都みなみ会館、大阪・第七藝術劇場、シネマート心斎橋にて公開中。ほか全国順次公開予定
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満若勇咲(みつわか・ゆうさく)1986年生まれ。05年大阪芸術大学入学。映画監督の原一男が指導する記録映像コースでドキュメンタリー制作を学ぶ。在学中にドキュメンタリー映画『にくのひと』を制作、その後封印。映像制作・技術会社ハイクロス シネマトグラフィに参加後、TVドキュメンタリーの撮影を担当。19年よりフリーランスとして活動。ドキュメンタリー批評雑誌「f/22」の編集長を務めている。