第30回:福島の今を知るツアー報告&飯舘村へ(後編)そこには、本当の民主主義があった(渡辺一枝)

 前回に続き、5月に福島を訪れたときの報告、後編です。5月5日の教会関係の方達をご案内してのツアーを終えて、その晩は飯坂温泉に宿泊。翌日午前中に福島市新井に菅野哲(ひろし)さんをお訪ねし、その後で裏磐梯へほんの小さな旅をして心身リフレッシュして帰りました。

菅野哲さん訪問

 朝、飯坂温泉を出て菅野哲さんのお宅へと向かう。幸い五月晴れの上天気! 飯坂温泉から哲さんのご自宅へ向かう道路はフルーツラインと呼ばれるが、名前の通り道の両側には果樹園が連なっている。すでに開花は終わった時期だが、花の季節はどんなにか心弾む道だろうかと思う。

 飯舘村の人が被災前の村の生活を語るのを聞くとき、誰の口からも、自身の暮らしだけでなく村に対する誇りや愛情のような気持ちが溢れているのを、これまで私は強く感じてきた。だからなおのこと、原発事故とその後の行政の対応に対しての彼らの憤りや悔しさを感じてもきた。
 今回は、被災前の飯舘村のことをもっと知りたくて、哲さんから話を聞かせてもらおうと訪ねたのだった。

「までぇ」に生きる

 哲さんは2020年に『〈全村避難〉を生きる 生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故』(言叢社)を上梓した。これは本文350ページ、巻末に東電に対して闘ったADR(裁判外紛争解決手続)の申立準備書面28ページが資料として載っている大部の本だ。そこには哲さん自身の個人史を含めて村の歴史や暮らし、原発事故がもたらした被害、避難生活と村の今後について思うことが書かれていた。そして哲さんはこの本で、著者名に冠して「飯舘村民」と記している。私は、丹念に書き起こされた内容にはもちろんのこと、この「飯舘村民 菅野哲」と著者名を記した心意気に、強く打たれてもいた。
 「久しぶりです」の挨拶の後で私が、「飯舘村はまでい(丁寧)な村として…」と言いかけたら、即座に哲さんは「“までい”じゃないんです。“までぇ”です。私ら子どもの頃から茶碗に米粒を残したりすると『までぇに食わなきゃダメだぞ』とか、使った道具を出しっぱなしにしてると『までぇに片付けろ』と叱られたもんです」と言った。村では、「までいな村」という言葉を公式に表明しているが、そういえば村の人たちの言い方は、「ま・で・い」と1音1音を発音した3音節ではなく、2音節だったなぁと思い当たる。これは些細なことのようだが、大事なことだと思う。そしてこのことでなお鮮明に、哲さんの村民としての誇りや村を愛する心意気に触れたようにも感じた。哲さんは更に言葉をつなげて「今でも村民は、子どもたちには『までぇに使え』とか『までぇにしなきゃダメだぞ』というように、暮らしの中に『までぇ』の精神が活きてます」と言った。またそれは、冷涼な山間地という環境の中で協力しあって丁寧に暮らさないと生きられなかったからだとも言った。

合併の歴史の末に飯舘村は誕生した

 飯舘村の歴史は合併と併合の歴史だったといえるだろう。明治時代に飯樋村と比曽村が合併して飯曽村に、大倉村と佐須村が合併して大須村になった。その後、飯曽村が石橋村を編入し、大須村と新舘村が合併して大舘村になった。そして1956(昭和31)年に大舘村と飯曽村が合併して飯舘村になった。
 哲さんは1948(昭和23)年、戦後開拓入植者の長男として大舘村佐須(現在の飯舘村)で生まれた。村に電気が通じたのは1963(昭和38)年、翌年の東京オリンピックを見るためだったから、子どもの頃はランプの生活だったと言う。小中学校は村内の学校だったが、高校は県立相馬高校に行った。2年生を終える時に自動車事故に遭い、脳内出血で意識不明に陥るが奇跡的に一命を取り留めた。だがこの事故で大学進学を諦め、1967(昭和42)年高校を卒業すると、家業を継ぐことにして帰郷し、農業に従事した。

村の職員になる

 1969(昭和44)年、飯舘村役場の職員となり農業委員会に配属された。そこでは県と連携して、戦後開拓者の耕作地を国有財産から耕作者に売り渡すための業務を担当した。また、畜産振興を進め牧草地造成事業に関わった。畜産振興公社を作り、繁殖・肥育を始め「飯舘ブランド牛」としてやっていった。
 この頃は米、葉タバコ、養蚕が農家の収入源だったが、養蚕に続いて葉タバコも斜陽化し、次には国の減反政策が始まると水田では飼料米をつくるようになった。国の農業政策が変わってきた中で、村では何をやっていくかが考慮され、高原野菜と花卉栽培に取り組んでいった。高原野菜の中でも、インゲン豆は高齢者の賃稼ぎになった。丁寧に長さなども揃えて出荷するので評判が良かったし、高原大根も市場で高値で取引された。水田の転作で良かったのはブロッコリーだが、これは太陽が昇る前に収穫する必要があり、また氷を詰めた箱に入れないと運べなかった。そうしないとすぐに黄色くなってしまうからだ。花卉栽培も、高原特有の気候で昼夜の温度差が花の色を鮮やかにするので市場で評判が良かった。畜産で出た牛糞と山林の落ち葉で堆肥を作り、化学肥料ではなく自然の堆肥で栽培する野菜は味も良く、飯舘村は高原野菜の産地としての評判を高めていった。
 哲さんは1978(昭和53)年に総務課に配属となり、条例や規則を徹底して学び、整理し、改正していった。4年後に総務課の税務係に、更に7年後の1989(平成元)年に住民課住民係に、1991(平成3)年に建設課建設係に配属、その3年後に企画課振興係長になった。

人の心を一つにしよう

 1956年に大舘村・飯曽村が合併して飯舘村になった後も、村民の中には旧村意識が残っていた。その軋轢を無くすにはどうすれば良いかが模索され、飯舘村民として心がまとまるように、まず中学校を一つにしようということになった。旧大舘村に在った草野中学校と旧飯曽村に在った飯樋中学校をそれぞれ廃校にして飯舘中学校として1校にまとめ、教育現場で飯舘村の卒業生という形で次世代の若者から一つにしようとなった。それは飯舘村になって第4代目の斉藤長見(おさみ)村長の時のことだ。そして1988(昭和63)年に草野中学校と飯樋中学校は廃校となり、飯舘中学校が開校された。
 飯舘村の真ん中に、中学校をはじめとする公共ゾーンを作ろうという試みも始まり、1994(平成6)年には同じエリア内に役場の新庁舎が建設された。その場所は北が合併前の大舘村、南が飯曽村のちょうど真ん中あたり。斉藤村長は1987(昭和62)年から2期、8年務めたが、その間に剰余金を積み立てて足りない分は起債して借金し、役場建設にかかる5億円を調達したのだった。
 またこの年には特別養護老人ホームも造られたが、企画課にいた哲さんはこれに設計段階から関わってきた。当時は認知症の入居者に対しては隔離施設に収容するということが、全国的に普通に行われていた。飯舘村の場合も当初に業者が示した設計図は 、10床の認知症の入居者向けの病床が他の棟とは別棟にあるようなものだった。それを見て哲さんは「これではダメだ。まるで収監所ではないか。認知症の人にも人格はあるんだぞ」と言って、相互の棟を廊下で繋ぎ交流できるように設計変更させた。相互に交流することで、認知症の人たちは、昔のことをイキイキと思い出して笑ったり話し始めたりしたという。

人材育成が上手だった斉藤長見村長

 また、村の官製事業として「村おこしセミナー」がスタートしていたが、ここでは20、30代の人たちがセミナーの名前を含め進め方や運営方針を決めていった。そして1986(昭和61)年に「夢創塾」ができ、さまざまな活動をしていった。最初にやったのは「新春ホラ吹き大会」で、塾のメンバーや公募で集まった村民が「ホラ」という形で村の夢を語った。
 私はこの「ホラ吹き大会」のことを、以前にやはり飯舘村に住む菅野榮子さんから聞いたことがあった。榮子さんは、農業者年金には男しか入れないのは変だ、農業に従事している女も農業者年金に入れるようにすると「ホラ」を吹いたそうだ。その頃の農業者年金は制度的に男性しか入れないものだったという。だが榮子さんのホラを聞いて村長は「そういう制度を立ち上げっかな」と言い、女性の農業者年金も制度化されたそうだ。
 また、この時発表されたホラの一つから、村長公約で「若妻の翼」として農家の若い「嫁」たちの海外研修が実現した。これは農作業が一番忙しい刈入れ時の9月に、「嫁」たちを海外研修に出すというものだったから家庭内での葛藤も生じ、帰国してからは「嫁が不良になって帰ってきた」などと揶揄されもしたという。だが結果的には海外研修を経験した女性たちが積極的に村を活気づけ、村おこしの大きな力になった。
 このことについても私は、飯舘村出身で現在は福島市で「椏久里珈琲」を営む市澤美由紀さんから聞いていた。彼女は「若妻の翼」の第1号でフランス・西ドイツへ行ってきたと言った。10日間の旅で、個人負担は10万円だったそうだ。これは、男は頑固でなかなか変われないが、男中心の社会を変えるには嫁さんを海外研修に出そうという発想から生まれた事業で、1989年から5年間続いたという。家父長制が色濃い当時の農村部で「嫁を外に出す」というのは、全国からも注目される画期的な事業だった。
 斉藤村長は、人材育成の手腕に長けた人だった。職員らに「勉強しろ、勉強するには人のネットワークを作れ。そのためには中にいてはダメだ。外に行ってこい、外国に行って、目で見てこい」というのが口癖だった。毎年予算をつけて、職員を海外研修に出した。哲さんは、これに真っ先に手を挙げてフランスとドイツに行き、19人のツアーで欧州のグリーンツーリズムの視察に行った。その頃のネットワークは、今も活きていると哲さんは言った。こうした画期的な村政について、また後に述べる新庁舎や学校などの施設建設などについて取材を受けることも多い斉藤村長だったが、その度に哲さんら職員を指して「こいつらがやったことだよ」と答えて、決して自分の手柄話にはしない人だった。
斉藤村長は、前教育長の息子で酪農をやっていた菅野典雄氏を公民館長に採用したが、これも人材育成の一つだった。そしてこの後典雄氏が、1996(平成8)年から村長となった。

そこには本当の民主主義があった

 1988年から1989年まで「ふるさと創生事業」として国は各自治体に1億円を交付した。
 飯舘村も、上に記した各事業の予算をここから組んでいたが、その残りの交付金で「農村楽園基金」を作ることを村議会で決めた。村内の20行政区に一律100万円を交付し、温泉旅行と酒飲み以外には何に使っても良いとした。各行政区は何度もワークショップを重ね、それぞれの地区が抱える問題について住民が共通の意識を持つようになり、各行政区のコミュニティ活動の意識が高まっていった。さらにそればかりでなく複数の行政区が共同で取り組む事業をも生み出した。また、この頃は全国各地で大規模なゴルフ場建設が進められていたが、飯舘村では6割以上の住民がゴルフ場開発に反対の意思を示して、村の基本方針としてゴルフ場の大規模開発は行わないことを決定した。
 このように飯舘村は、「行政区」を自治のための重要な場所と位置付けていた。各行政区で住民の意思疎通が図られ、村の行政は区長会を開いて検討される。つまり大切な行政決定は行政区の了解を得ることが必須で、こうして「住民参加型」の村政の姿勢ができていった。哲さんの話を聞きながら私は、これが本来の直接民主主義の政治のあり方ではないかと思った。村民の誰もが被災前の暮らしを誇らしげに話してくれていたのは、このような村政が行われていたからだと思い至った。
 また私は、ある時に別の人から、原発事故前の飯舘村では選挙時の投票率がいつでも9割以上であったことを聞いていた。哲さんに確かめたところそれは事実で、97、98%が当たり前だったという。
 21歳の時に村の職員となった哲さんが最初に配属されたのは農業委員会で、次に30歳の時に総務係に配属され条例・規則の改正に取り組んだ。公務員となった時から法令・条例・法規を学んでいったが、この時期には更に徹底して学んだ。また、この時期には議会事務局と選挙管理員会も兼任した。哲さんは各行政区の住民を一人一人訪ねて投票に行くように促し、選挙は立候補者のためでなく有権者のためなのだということ、一人一人が政治の当事者であることを説いていったことを話してくれた。
 だが、高率を誇った投票率も、被災避難後は落ちていった。例えば村議選で言えば、2009(平成21)年には90.9%だったのが、2013(平成25)年には73.03%、2017(平成29)年は63.23%に落ちた。年齢別に見ると高齢者の投票率の方が高い。若年層ほど離村して避難生活を送る人が多いことが、投票率の下がった大きな理由だろう。2021(令和3)年には66.02%とほんの少し上がったが、これは選挙権が18歳からになったことから、前回よりもやや上がったと考えられる。
 1994年に企画課振興係長になった哲さんは、村民の交流と文化活動を促し地域の活性化を図る目的で、この年に設置されたビレッジハウス(村づくりの拠点として住民の交流や文化活動を促し、地域の活性化を図るための施設)の一室を「村のほんやさん」にして営業を始めた。私は以前の「トークの会 福島の声を聞こう!」で、ゲストスピーカーとして元飯舘村の職員だった横山秀人さんに話してもらったことがある。横山さんは、「村のほんやさん」ができたときに、「東京の大学に行っていて本屋さんでアルバイトをした経験があったからと、私が店長に指名されました」と言った。私はその時には知らずにいたが、村のほんやさん開設も、横山さんを書店長に任命したのも、哲さんだったのだ。哲さんが育った佐須には店は一軒しかなく、その店に無いものは草野地区の店まで買いに行ったそうだ。高校生になって、相馬市で初めて本屋さんを見たという。学校の図書館でもたくさんの本を読み、これまでと違う世界を知っていったと言う哲さんだった。

「村を残す」とは

 こうして被災前の飯舘村を知れば知るほど、原発事故で村が消されてしまったことを私は惜しむ。原発事故時の村長だった菅野典雄氏の事故後の対応は、非常に拙かったと私は思っている。典雄氏は1996年から事故後の2020(令和2)年まで6期もの長きにわたって村長職にあった。政権に長く留まると、埃やゴミが溜まっていくものだと私は思っている。斉藤長見村長が目をかけて育てた人だったから、初期には村民の意見が反映される村政を進めてきたのだろうとは思うが、事故の頃の様子を思い返せば、村民の意見には全く耳を傾けず、国の言いなりだった。原発事故の前から、そのような傾向はあったのではないかと私は推測しているが、どうなのだろう?
 私は、哲さんに答えにくいことを聞いてみた。「典雄村長はずいぶん長く務められましたが、村の中に途中で降ろそうという空気は生まれなかったのですか?」哲さんは、やはり言いにくそうに「3期目になった頃に、そういう声は上がっていました。でもちょうどその頃、合併問題が持ち上がっていたのです」と、答えが返った。
 1999(平成11)年から全国で、政府主導の市町村合併が進められていった。その流れの中で2003(平成15)年9月、新田川下流の原町市、鹿島町、飯舘村で任意合併協議会を設立した。哲さんは職命を受けてそこに出向した。翌2004(平成16)年2月に小高町が加わり、任意合併協議会は解散して南相馬合併協議会が発足した。4市町村で協議を重ねてきていたが10月の第11回合併協議会で、飯舘村の菅野典雄村長は、突然脱退を表明した。これにより飯舘村は新地町と共に相馬郡に残り、2006(平成18)年、原町市、小高町、鹿島町は合併して南相馬市となった。
 当初は合併の意向を表明していた菅野典雄村長の突然の翻意は、どんな理由があってのことだったのだろう。これによって哲さんは、いわば「梯子を外された」状況に陥ってしまったと言えるのではないか。だが、哲さんはこうも言った。「原発事故が起きた時、避難はあんなふうに遅れてしまったけれど、合併していなかったから全村避難ができたと思ってます」と言った。哲さんの言う通り、遅きに失したが全村避難ができた。もしも合併していたら、同心円で避難指示が出されたあの当時、避難せずに自宅に留まり、被ばくし続けることにも気付かず今もそのままそこで暮らす住民は多数いたことだろう。
 けれどもまた、合併しなかったからこそ村は残ったが、村の名を残したいがために村民の命や健康を蔑ろにする村政が進められていったのではないか。そう思えてならない。榮子さんが、いみじくも言っていた。「人には、自分を変えられる人と変えられない人がいるんだよなぁ」。典雄氏は、その「変えられない」人だったのだろう。
 被災前の村の話を聞きながら私は、哲さんが公務員の鑑のような生き方をされてきたことを強く感じた。配属された部署のそれぞれの時に、そして公務員時代を通して、行政や己の名を残すこと・保身を第一義とせず、公僕として村民の人権を一番大事に仕事をしてきた哲さんだったと思う。そして原発事故のときには既に退職していたが、被災後には避難生活を送る村民の日々を案じ、仮設住宅で暮らす人たちの共同農園作りに奔走し、また村の食文化を残すために「飯舘匠塾」を立ち上げて凍み餅や味噌などの伝統食を次代に繋ぐべく活動している。「村を残す」というのは行政の形を残すことではなく、その地の伝統や文化、人の繋がり、歴史を伝え残していくことなのだと私は思う。

夢と消えた定年後の暮らし

 2009年3月、60歳で定年退職した哲さんは、一農業者として高原野菜の栽培と加工に取り組んでいった。飯舘村の農業の可能性を追求しようと、心意気に燃えていた。
 高原大根、白菜、にんじん、ニンニク、玉ねぎ、長芋、ネギ、大豆、食用菊など、数十種類もの作物を栽培し、作業小屋を兼ねて加工食品の開発・研究を行う建物を建てた。こうした活動にも、公務員時代の人との繋がりが大きな力になった。また野菜の栽培ばかりでなく、息子の代になった時のことを考えて、230本の銀杏の苗木を植えた。育って銀杏が実るまでは10年かかるが、実り始めたら豊かな収穫が得られると思ってのことだった。
 退職後に精魂込めて取り組んできた農業者としての日々だったが、これからというときに原発事故が起きた。
 哲さんは38歳の時に鼻腔に悪性腫瘍ができ手術を受けている。手術で腫瘍部を取り除いたが、主な腫瘍を除去できても、わずかな一部でも取り残せば再発の危険があるため、取り残しの可能性を狭めるために放射線治療を行なった。局所ではあったが何百ミリベクレルもの放射線を鼻腔に浴びせるので、健常な細胞を含めて鼻腔の細胞を壊死させた。傷められた鼻腔は免疫秩序が壊されて浄化作用を失った。そのために今もなお週に一度の消毒のための通院が欠かせない。
 また、哲さんは役場の住民課長だった時にクリアセンター(生活ゴミ焼却場)の管理運営に携わっていたが、この時期に、機械・設備が持つ危険性への知識と配慮がとても重要であることを身にしみて知った。自分の放射線治療の経験と焼却炉管理の職務体験から、原子力産業の脆弱性と放射能が漏れてしまったら汚染は地域に惨劇をもたらすことを学んでいた。
 日本の原発はチェルノブイリ原発事故と同じように過酷事故を起こすことは有り得ると考えてはいたが、まさか自分が生きている間に起きることは無いとも思っていた。だが、事故は起きてしまった。
 
 私は哲さんが松川の仮設住宅を訪れていた時に初めてお会いしたのだが、その時に仮設住宅の中に開店していたラーメン屋で一緒にお昼を食べた。ラーメンと一緒に事故前に哲さんが作った缶詰の煮豆もいただいた。とても美味しい煮豆だった。そして売店で、もうその2缶で最後という煮豆の缶詰を買って帰った。被災前に哲さんが加工場で作った缶詰だった。またその折に、銀杏の畑にも案内していただいた。私の背丈ほどの銀杏の木が、お行儀よく並んで植えられていた。
 あれから10年が過ぎたこの日の訪問だった。事故後11年経った五月晴れの日、福島市新井のお宅で被災前の話を伺いながら私は、煮豆の味を思い起こし、銀杏畑を思い浮かべた。
 哲さんから話を聞いて、またこれまで聞いてきた榮子さんの話も併せながら私は、被災前の飯舘村は風景や村の佇まいばかりでなく、村の在り様そのものが本当に「美しい村」だったのだと思った。原発事故でその姿が消えてしまったことを心から惜しむ。

裏磐梯へ

レークラインへ

 哲さんのお宅を辞して、国道115号線を行く。事前に今野さんに、「哲さんの話を聞いた後、午後はどこか訪問の予定はありますか? なければ裏磐梯に行ってみますか?」と聞かれ、午後の予定はなかった私は嬉しい提案を受けて、「裏磐梯へ」とお願いをしたのだった。

 自衛隊の演習場を窓の外に見て過ぎ、土湯のサービスエリアでのトイレ休憩の後、長い土湯トンネルを越えた。今野さんは「ここは箕輪スキー場といって今の天皇が皇太子時代にスキーに来たところです」と言う。ふ〜ん、そうなんだとは思うものの私には、今野さんが愛息・颯人くんとドライブ中のあれこれやここにスキーに来た時のことを聞く方がもっと興味深い。今野さんは「バカ息子が」などと言うが、お父さんの筋の通った生き方を見て育つ颯人くんは、まだ少年の面影を濃く残しながら爽やかで素敵な青年に育っている。
 窓の外の新緑の木々が目に優しい。体が緑に染まりそう! 肺の中まで緑に染まりそう! 私の好きなウワミズザクラが、白く穂の花を咲かせていた。猪苗代町に入って国道を外れて福島吾妻裏磐梯線に入り、道はつづら折りに上っていく。窓外に見える樹木は芽吹きの頃で、桜も咲いている。道の外れにはところどころにまだ雪が残り、芽出しの樹木の間にはいま花を咲かせている桜がそこにもここにもある。前方に見える湖は秋元湖で、この湖畔からの道はレークラインと称されているそうだ。
 レークラインの途中には秋元湖、小野川湖、桧原湖の3つの湖が見えるスポットがあるが、明治21年に磐梯山が噴火するまでは、ここには湖は一つも存在せず桧原村などの集落があったそうだ。大規模な水蒸気爆発によって山腹が崩壊し、桧原村方面に大量の土砂が流れ、泥流も起きて集落は全滅したという。そして長瀬川や小野川など裏磐梯地域を流れる河川が堰き止められて桧原湖や小野川湖、五色沼などの湖が形成された。大倉川や中津川が堰き止められて生まれた秋元湖は、3湖の中では水深が最も深く桧原湖に次いで面積も大きく、湖面の標高は736mだという。
 そこに停車して秋元湖を見ているときに、今野さんが言った。「秋元湖は、この反対側に発電所があるんですよ」。それを聞いて私が、「まさかそれは東京電力ではないでしょうね」と問うと、「東京電力です」と即座に返った答えを聞いて私は絶句した。でも、そこを見たいと言うと、帰り道で通ると言われた。

懐かしい花に会えた

 レークラインの道を上りきったところに中津川レストランがあり、「ここのレストランでは日本一美味しいという水がメニューにあって、1杯1000円です」と今野さんは言ったけれど、それは飲まなくてもいい。でもレストランから渓谷まで徒歩で繋がる山道があって、私はそこを歩きたかった。今野さんは車を途中の車道に停めてそこで待っていてくれると言うので、私は渓谷への山道を行った。
 歩き出してすぐに、なんて嬉しいこと! まだ花は咲いていないが、ポチッと小さな小さな蕾をつけたゴゼンタチバナが何本も出ているのを見つけた。ああ、何年ぶりだろう! 花は咲いていないけれど輪状の4枚(6枚もある)葉を見た途端、嬉しくて思わず声が出た。急勾配の山道なので気を付けながら、他にも何かないかと視線を林床にやりながら下った。あった! もう時期はとっくに終わって素枯れた花姿だったけれど、ショウジョウバカマが数本あった。ショウジョウバカマはチベットにも咲く。東チベット、カムの山旅を懐かしく思い出した。
 下の渓谷まで行って手で水を掬って飲みたかったが、荷物は今野さんの車の中で手にはスマホを持っただけ、マスクもバッグの中だ。もう数メートルでそこに着くという時にそれに気付いた。そこには10人ほどの人が群れているのが見えたので、マスクを持たない私は踵を返して道を戻った。途中で下の車道に降りる分岐の道をとって、今野さんの車に戻った。ほんの30分ばかりの山道散策だったけれど、たっぷりとフィトンチッドを浴びて、心身に栄養補給できた嬉しい時間だった。

秋元湖ダム

 車に戻ってレークラインを下り切ると、桧原湖畔にレストランや土産物店など店が並んでいた。そこから道を左にとって進むと、程なく眼前に現れたのが秋元湖ダムだった。太いコンクリート製の白いパイプが2本、山上から山裾に樹林を切り裂いて延び、「東京電力 秋元発電所」と表示された建物に繋がっていた。
 秋元湖が属する阿賀野川水系は水量が豊富でしかも急流であることから、明治時代後期から水力発電開発地域として注目されていたという。大正時代に猪苗代水力電気会社が猪苗代湖を利用した水力発電開発に本格的にかかり、1914(大正3)年に当時日本最大級の水力発電所である猪苗代第一発電所を建設し、猪苗代―東京間200kmの長距離高圧送電に成功した。その後猪苗代第二、猪苗代第三・第四発電所が建設されていったという。すでにこの頃から東京の電気は福島に依っていたのだ。
 裏磐梯3湖の豊富な水量が注目されたのは1923(大正12)年で、これ以後、小野川湖、秋元湖の水力発電が計画された。1937(昭和12)年に秋元湖畔に小野川発電所が建設され、小野川湖からトンネルを通じて取水して発電を開始し、その後秋元湖の開発にも着手したが、折から「戦時国家統制」下で1939(昭和14)年に「電力管理法」が施行されて、日本発送電が既存の電力会社を半ば強制的に合併吸収した。そして日本発送電によって秋元発電所工事は進められ、1940(昭和15)年に完成した。秋元発電所は認可出力107,500kWと、当時阿賀野川水系では最大級の出力を誇った。
 戦後、日本発送電は過度経済力集中排除法の対象となり、1951(昭和26)年に「電力事業再編令」によって全国9電力会社へ分割され、猪苗代湖周辺の水力発電所は東京電力に全て移管された。秋元湖の水位調節も東京電力が福島県の委託を受けて行ってきたが、1999年以後は、湖を管理する福島県喜多方建設事務所が直接実施している。
 来る途中で秋元湖を眼下に見ながら反対側にはダムがあると聞き、いまそれを目の当たりにすると、我が身がとても罪深いものに思えてくる。その思いを抱えながら生きよと、改めて自身に言い聞かせた。

野口英世記念館

 磐梯山の東に回り込みながら進んで途中でいくつか滝を見て、道は猪苗代町の田園風景の中を行くようになった。「会津磐梯山は宝の山よ」と民謡に歌われたが、なぜ宝の山と歌われるのかは定かでない。ただ、辿っている道の反対側の山裾の道はゴールドラインと呼ぶそうだ。
 田園風景は消えて街中の道路のように車の往来も少し繁くなってきたと思ったら、今野さんに「一枝さんは野口英世記念館に行ったことがありますか?」と聞かれた。無いと答えたら「すぐそこだから寄りましょう」と言って広い駐車場に車を入れ、車で待っているからゆっくり見学をしてくるよう言ってくれた。「ここまできて見ないで帰る手はないですよ」と言葉を添えて。
 私は恥ずかしいけれど野口英世の業績は知っているつもりだったけれど、彼が猪苗代湖畔のこの地で生まれたことは知らなかった。記念館はコンクリートの建物の資料館と木造茅葺き屋根の生家からなり、生家は雪や雨で傷まないよう屋根の上にもう一つ屋根をかけてあった。幼い日に転げ落ちて火傷を負った囲炉裏も残っていて家屋の造りなどが見てとれ、生活用品なども展示されていて、当時の暮らしが如実に思い浮かべられた。資料館もまた彼の業績がわかる資料はもちろんのこと、そのほか彼が使っていた研究用の道具ばかりでなく生活用具も展示され、また余暇に描いた妻の肖像画や墨の文字、趣味の釣り道具なども展示されており、見ごたえのある資料館だった。

ぽかぽかハウス

 野口英世記念館を出てしばらく車を走らせた後、土津神社と書かれた標識を見てなんと読むのか今野さんに聞くと「はにつ神社」と答えが返った。地名・人名は読み方が難しい。これなど教えられなければ到底読めないと思った。
 主要道路から外れて一般道を進んでいるかと思ったら、畑の中の民家の前で今野さんが車を停めた。停車した家の表には「ぽかぽかハウス」と看板が掲げられていた。「あれ?ここはFoE Japanの?」と聞くと「そう。車があるから誰か来てるんじゃないかな」と今野さんは玄関扉を開けて「こんにちは!」と声をかけた。スタッフの若い男女がいて、すぐに奥から矢野恵理子さんが顔を出した。NGO「FoE Japan」スタッフの矢野さんとは原発事故後に度々催されているFoE Japan主催の集会に参加するようになって知り合った。まさかこの旅で矢野さんに会えると思っていなかった私も、また突然現れた私を見て矢野さんも、互いにビックリの歓声を上げた。
 3・11から11年。まだまだ必要であるにもかかわらず、汚染の心配のない安全な場所で子どもたちがのびのびと過ごせるようにと取り組む保養活動は減ってきている。そうした中で、FoE Japanは今も、ここを拠点にして夏と冬の保養活動に取り組んでいる。この日、スタッフの若者たちは、ここにきて過ごす子どもたちに人気があってよく使われている縫いぐるみの綻びを直したり、設備の点検をしたりしていた。
 矢野さんに室内を案内して貰った。元はペンションだった建物だそうで、2階建てのログハウスだ。フローリングの部屋、畳の部屋と、それぞれ幾室もあって、1階、2階それぞれにトイレとバスルームがある。1階には大きな台所とホールがあり、親子で保養に来る親たちには、この台所が人気の場所だという。ここで一緒に食事の用意をしながらのお喋りが、気持ちを発散させるのにとても役に立っているという。ああ、そうだろうなぁと、そんな様子が想像できた。
 矢野さんやスタッフに別れを告げて、原発事故後に今野さんはじめ他の人たちが避難していたという沼尻温泉や中之沢温泉地区を見て過ぎ、亡くなった登山家の田部井淳子さんの自宅を見て、福島駅へ送られて帰郷した。

 今回もまた、長文をお読みくださって、ありがとうございました。

一枝

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。