朝鮮総連の活動家である両親との葛藤を描いたデビュー作『ディア・ピョンヤン』から16年。ヤン ヨンヒ監督の最新作『スープとイデオロギー』が公開中です。夫を見送り、一人暮らしになった母親は、娘が連れてきた新しい家族を、長年作り続けてきた自慢のスープでもてなす。一方、その口からは、若き日の壮絶な経験──韓国現代史最大のタブーともいわれる「済州4・3事件※」の記憶が語られ始めていた……。11年ぶりのドキュメンタリー映画となった本作について、監督にお話をうかがいました。
※済州4・3事件…朝鮮半島南部が第二次大戦後の米軍統治下にあった1948年、南部の済州島で、圧政に抵抗する島民らが武装蜂起。軍政当局、また同年に成立した韓国政府はこれを徹底的に弾圧し、最終的に犠牲になった島民の数は3万人以上ともいわれる。その後も独裁政権下では事件の存在に触れることそのものがタブーとされ、80年代末からの民主化の過程でようやく真相究明の動きが始まった。
母親が、口にできなかった「本音」を語り始めた
──今回の映画『スープとイデオロギー』は、ヤン監督のドキュメンタリー映画としては2009年の『愛しきソナ』以来の作品となりますが、いつごろから撮影を始められたのですか。
ヤン カメラを回し始めたのは、今から10年くらい前です。『愛しきソナ』を完成させた2009年に父親が亡くなって、母親が一人暮らしになったんですね。
あの世代の人って、連れ合いが亡くなって生まれて初めて一人暮らしを経験する人が多いと思うのですが、うちの母もそうだったんです。家族の世話をするのが生きがいで趣味もあまりない人だし、一日中ぼーっとテレビを見ているようなことにならないかと心配になって。私は東京暮らしですが、義務感のようなところもあって、時々母に会いに大阪に帰るようにしていました。
そうしたら、夜、母の横に布団を敷いて並んで寝ているときに、母がいろんな話──それも、前は口にしなかったような本音を、たくさん聞かせてくれるようになったんです。
映画『スープとイデオロギー』より、ヤン監督のお母さん。(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi
──たとえば、どんなお話でしょう。
ヤン 母は日本生まれの在日コリアンですが、私の兄にあたる3人の息子たち、さらには自分の妹や弟、両親も帰国事業※で北朝鮮に行かせて、自分一人だけが日本に残ったという人です。いわば、「北」に家族ごと渡してしまった、向こうで生まれた孫たちも含めて、家族みんなを「人質」に取られたような感じなんですね。だから、以前は「北」に対して批判的なことは絶対に言わず、いつも擁護するような言い方しかしませんでした。
でも、父も亡くなって一人になり、自分はあと何年生きるんだろう、一人残していく娘──私のことですが──にどんな話を聞かせておくかみたいなことも考えるようになったのかもしれません。兄たちを行かせるときにどれほど泣いたか、どんなに悲しかったかということ、あと兄たちを訪ねて北朝鮮に行ったときに思ったことなども、ぽつぽつと話してくれるようになりました。以前なら絶対に口にしなかった朝鮮総連への不満を、個人名まで出して語っていたこともあります。
そうやって語られる「本音」の中に、今回の映画に出てくる「4・3」の話もあったんですね。
※帰国事業……1959年から20年以上にわたって続いた、在日コリアンとその家族の北朝鮮への集団移住事業のこと。北朝鮮は当時、「地上の楽園」と喧伝されており、日本で民族差別や貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが「帰国」した。
──韓国・済州島での「4・3」事件は、当局の弾圧により、3万人以上の島民の命が奪われたとされる大事件ですが、それまでご両親から話を聞かれたことはなかったのでしょうか。
ヤン 父が済州島の出身ということで、『ディア・ピョンヤン』を見た方から、「お父さんは4・3をご存じなんですか」と聞かれたことがあります。でも、父は4・3より前の1942年、15歳のときに日本に渡ってきているので、4・3はまったく体験していません。親戚や友達で犠牲になった人はいないの? とも聞いてみたんですが、「いないはずはないけど、はっきりは分からん」という返事でした。「済州島出身なら必ず周りの誰かしらが4・3に関わっている」ともいわれますから、父の周囲でも誰かは犠牲になっているはず。でも、戦後に朝鮮総連幹部になった父は、韓国には一切入れないままでしたから、確かめようもなかったんですね。
そんな話をしていたときに、母に「オモニ(お母さん)は日本生まれやから関係ないなあ」って言ったら、最初は「そやそや」ってとぼけてたんですよ。でも、父が酔っ払って故郷の話を始めたときなんかに「オモニは済州島に行ったことないの?」って聞くと、「ちょっとだけな」って言ったりすることがあって。聞き返したら「ああ、やっぱり忘れた」とか「もう聞かんとき」とか言うんですけど……母は何も関係なくはないのかなと思いつつ、はっきりとは聞けないままでいました。
「国籍とか関係なく、好きな人と一緒におったらええねん」
──それが、お父様が亡くなられた後、そういう話も出てくるようになった……。
ヤン あるとき母が「アボジ(お父さん)が死んだから言うけどな、オモニには昔婚約者がおってん」と言い出したんです。「何十年前の話やねん、いまさら関係ないやん」とか突っ込みながら聞いていたら、「本当は18歳のときに、済州島で結婚してたかも分からんねんで。そうしたらあんたはおれへんかったなあ」。母は笑ってましたけど、こっちは「どういうこと?」ってびっくりして固まりました。それまで、母は大阪の生まれで、ずっと日本で育ったと聞いてましたから。
どういうことなん? って聞いたら、たしかに生まれたのは日本だけど、空襲がひどくなってきたときに、日本人みたいに疎開する田舎もないから、代わりに親戚のいる済州島に疎開したんや、と。当時、済州島は大阪から直行の船便も出ていたので、同じように疎開した在日コリアンがたくさんいたようなんです。
それで母も15歳で命からがら済州島に逃げて、戦争が終わった後もそこにとどまった。貧しい島ではあったけれど、周りの人たちはすごくよくしてくれたし、何より日本で受けたような民族差別がない。18歳くらいのときには医師の青年に見初められて婚約することになって、もうここで一生暮らしてもいいかなと思っていたところで、4・3が起こったそうなんです。
医師として武装グループに協力していた母の婚約者も殺されて。母もこのまま済州島にいたら危ないというので、そのときたまたま用事があって日本に戻っていた自分の母親──私の祖母ですね──の手配で、弟や妹を連れて大阪に逃げたんだ、と聞きました。
映画『スープとイデオロギー』より、4・3事件の様子を伝えるアニメーション。(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi
──そうしたお母様の証言を、カメラで記録されていったわけですか。
ヤン 途中から、母が話してくれそうなときにはカメラをスタンバイさせたりはしていました。ただ、何十年も蓋をしていた記憶ですから、そんなに一気に出てくるわけではありません。ちょっと喋っては「嫌や、もうやめとくわ」とか「もう忘れた」と言って黙ることもよくありました。つらい記憶をつついて話させているわけですからあまり無理強いはできないし、撮ってはやめ、撮ってはやめという感じで、ぶつ切りの素材だけがたまっていくという状況だったんです。
その時点では、これだと長編映画にするには素材として足りないし、短編映画ならできるかな、くらいに考えていました。そんなときに、私の前に一人の「変な日本人」が現れたわけです。
──映画にも登場する監督のお連れ合い、荒井カオルさんですね。
ヤン 出会って3カ月くらいのときに、彼がプロポーズみたいなことを言い出して、しかも「とにかくお母さんに挨拶に行きたい」と。私は、実験的に一緒に暮らしてみるのはいいとしても、結婚となるとまためんどくさいし(笑)、「別に挨拶なんていいんじゃないの」と思っていたんですけど……。
でも、荒井は「どうしても」と言うし、挨拶してくれたら母も安心はするだろうし……と考えたところで、「ちょっと待てよ」と思ったんですね。というのは、父も母も、昔からずっと私には「結婚相手に日本人はあかん」と言っていたからです。
──『ディア・ピョンヤン』にもそういう場面が出てきていました。
ヤン そういう母親がいる、しかもいまだに北朝鮮指導者の肖像画が飾ってあるような家に、あえて「日本人」が「結婚させてください」と言いに行く。母がそこで何を言うのか、嫌みの一つも言うんだろうか。最後に荒井が「やっぱりちょっと無理だよな…」とでも言い出したらもうコメディだよなと思って、彼に「撮らしてもらっていい?」と聞いたんです。彼は私の映画が大好きで、『ディア・ピョンヤン』なんか10回くらい見てるという人なので(笑)、OKしてくれて。
ところが、彼より1日先に大阪の家に着いたら、母がニンニクをいっぱい買ってきて皮むきをしてるんですね。「何してんの」って言ったら、「明日は鶏炊くからな」って。
──映画に出てくる「スープ」ですね。丸ごとの鶏のお腹にニンニクがいっぱい詰められていて、なんともおいしそうでした。
ヤン 「何それ、歓迎モードやんか。日本人やのに、反対ちゃうの」って言ったら「もうそんなん言うてられへんやんか。どんな人か会ってみんとな」って。母にしたら、50過ぎた娘が結婚するということで、相手が何人(なにじん)とか言ってられないくらいありがたいということだったんでしょうね。でも、「昔とえらい話が違うやんか」って突っ込んだら、「ほんまは、何人とか関係なく好きな人と一緒におったらええねん」。いや、もっと早く言うてやそれ、という感じでした(笑)。
次の日、母は本当に朝早くから一生懸命鶏を炊いてるし、いつもTシャツ姿の荒井がスーツを着てきてびっくりさせられるし。こういう画がもっと撮れたら面白いなと思って、改めて荒井に「長編映画にしたいから、撮っていい?」とお願いしたんです。「映画ができた後、私たちが別れたとしても公開はするからね」とか言いながら(笑)。
だから、荒井が現れなかったらこの映画はできていないと思います。
映画『スープとイデオロギー』より、荒井さんと一緒に買い物に行くお母さん。(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi
この映画は、家族ドキュメンタリーの最終章
──前作の『かぞくのくに』は劇映画でしたが、その後のインタビューで「もうドキュメンタリーは撮らないかもしれない」と話しておられたように記憶しています。それが今回、再びドキュメンタリーを、と決意されたのはなぜでしょうか。
ヤン ドキュメンタリーは制作に時間もかかりますし、特に私の前2作は北朝鮮にいる家族の顔や名前も出しているので、彼らに迷惑をかけることにならないかという心配もすごくありました。他にやりたい劇映画の案もたくさんあるし、家族のドキュメンタリーはもういいかな、と思っていたんです。
ただ、4・3について知れば知るほど、母があれほど韓国を嫌っていた理由が分かるような気がしたんですね。K-POPの歌手を見ても嫌がるというくらい、全然論理的じゃない、生理的ともいえるような嫌悪感。「韓国はほんまに残酷や」なんてことも口にしていました。そんな差別的な人ではないはずなのにとずっと思っていたけれど、その後ろにはやっぱり、4・3の経験があったんじゃないか、と思って。4・3があったから母が「北」を選んだとはいえないにしても、4・3を経験したことが韓国を否定することにつながってはいたんじゃないかと感じました。
『ディア・ピョンヤン』では、済州島の名前を出しながらも4・3にはまったく触れませんでした。それは、4・3の話をし始めたら膨大な説明が必要になってしまうというので敢えてそうしたのですが、今回改めて4・3を描かないと、『ディア・ピョンヤン』が本当の意味で終われないなという気がして。だから、『スープとイデオロギー』は『ディア・ピョンヤン』から続く家族のドキュメンタリーの「最終章」でもあるんです。
これを作ったことで、やっと私たち家族のドキュメンタリーに一応のピリオドが打てた。まあ、人生はこれからも続いていくわけで、ドキュメンタリーに本当の意味でのピリオドなんてないんですけど、私もなんとか次のステップに行けるかな、という気がしています。
──お母様が韓国を否定していた理由が「分かるような気がした」のには、映画の後半に描かれているように、荒井さんと3人で済州島を訪れたことも大きいのでしょうか。
ヤン 母はそのころにはかなりアルツハイマーが進行していて、どこに来ているのかもよく分かっていなかったと思います。ただ、島の各地に残されている4・3での虐殺の跡地を回ったことで、なんて残酷なことが行われたんだろうということを改めて感じました。
そのとき、人々は「共産主義者だ」といって殺されたわけですが、実際には共産主義が何かも知らなかったんじゃないかという普通の農民や、小さな子どもも大勢殺されているんです。それにそもそも、共産主義者だからって何で殺すねんという話ですよね。イデオロギーが違うだけで人を殺すということへの怒りが、自分の中ですごく強くなりました。それが映画のタイトルにもつながっているんじゃないかと思います。
映画『スープとイデオロギー』より、家族の写真を見つめるお母さん。(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi
──そのタイトル、『スープとイデオロギー』には「思想が違っても、一緒にごはんを食べよう」という思いを込めた、とパンフレットにありましたね。そうありたいと思う一方で、お母様の人生などを見ていると、スープという「日常」はいつも「イデオロギー」──政治とか権力といったものに翻弄されるんだということも強く感じました。
ヤン 日々の生活と政治なんて関係ない、みたいな言い方をする人もいますけど、政治と関係ない生活なんかあり得ない、と思います。たとえば今、私が飲んでるこのコーヒーだって、その値段は結局は政治のあり方によって変わってくるわけで。「スープとイデオロギー」ってまったく相反する、対照的なもののようにも思えますけど、実は両方が溶け合っている中で私たちは日々を生きているんだと思います。
ただ、映画としてはイデオロギーよりもスープが勝つ映画を作りたい、スープが勝たなきゃいけないと思っているんです。スープが負けてしまうと、それはイデオロギー賛美の映画になってしまう。そんなの、つまんないじゃないですか。
『かぞくのくに』に、主人公の母親と対照的な存在として「監視人」が出てくるでしょう。
──帰国事業で北朝鮮に渡った主人公の兄が、病気治療のために十数年ぶりに帰国してくる。その兄に、北朝鮮からずっと同行し、見張り続けている「監視人」ですね。
ヤン 彼は、北朝鮮という「体制」を象徴する存在です。いくら母親が頑張ってお金を貯めて北朝鮮の息子に仕送りをしても、「体制」には刃向かうことができない。家族が「帰るな」と訴えたところで、「体制」の鶴の一声で、息子はどこにでも飛ばされてしまうわけです。
それでも、あの映画では母親を勝たせなくてはならなかった。だからこそ、終盤で母親が、その監視人をさえ包み込む、母親の矜恃とも思えるような行動を取る、そこをしっかりと描きたかったんです。あれは私の母親が、私の兄が帰国したときに取った行動そのままでもあるんですよ。
私も私の家族も、「体制」やシステムの中で生きているし、映画を作ったからといってそれに勝てるわけではありません。別に、映画で社会を変えられるとも思っていない。ただ、それでも空に向かって叫ぶようにして映画を作り続けているのは、自分が変わらないため、自分が自分であり続けるためなんだと思います。映画を作ることが、私にとっては声をあげること、そして自分と闘い続けることでもあるのかもしれません。
(取材・構成/仲藤里美)
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[東京]ユーロスペース、ポレポレ東中野、[大阪]シネマート心斎橋、第七藝術劇場ほか全国順次公開
▼公式サイト
https://soupandideology.jp/
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ヤン ヨンヒ 大阪出身のコリアン2世。米国NYニュースクール大学大学院メディア・スタディーズ修士号取得。高校教師、劇団活動、ラジオパーソナリティ等を経て、1995年より国内及びアジア各国を取材し報道番組やTVドキュメンタリーを制作。監督映画に、父親を主人公に自身の家族を描いたドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』、自身の姪の成長を描いた『愛しきソナ』、劇映画『かぞくのくに』がある。著書にノンフィクション『兄 かぞくのくに』(小学館)など。18年発表の小説『朝鮮大学校物語』が22年6月、角川文庫より発売された。
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