「個人の尊厳」が4回も出てくる新法
日本には現在、2,000本余りの法律が存在していますが、法律の条文の中でめったに使われることがない用語に「個人の尊厳」があります。明治29(1896)年に制定された民法をはじめ、じつは13本しかありません(若干、意味が異なりますが、憲法第13条と同じ「個人の尊重」になると2本だけです)。
今日(22日)はたまたま、参議院議員通常選挙の公示日ですが、「個人の尊厳」を用いる14番目の法律である、AV出演被害防止・救済法が公布されています。あす(23日)、施行されます。
AV出演被害防止・救済法では、その題名と法律の本則(第1条から第22条まで)に「個人の尊厳」が4回も登場し、その数では憲政史上、最も多い法律であることが特徴です。正式な題名は、「性をめぐる個人の尊厳が重んぜられる社会の形成に資するために性行為映像制作物への出演に係る被害の防止を図り及び出演者の救済に資するための出演契約等に関する特則等に関する法律」といい、ここで1回出てきます。続いて、第1条〔目的〕、第3条第1項〔実施及び解釈の基本原則〕、第17条第1項〔相談体制の整備〕の中で、あわせて3回出現し、合計4回となります。
AV出演者の保護に関して、法律上は対象年齢、性別を分けていませんが、成年年齢が2022年4月1日、18歳に引き下げられることにより、18歳、19歳の者が未成年者取消権(未成年であることを理由に、契約を取り消せる権利)が行使できなくなる事情を踏まえ、主として若年女性を念頭に置いて(のこれまでの被害実態を踏まえて)立法化が進められたことは事実です。AV出演に関し、「個人の尊厳」が軽んじられ、踏みにじられている厳しい状況があるからこそ、立案の協議に臨んだ6党(自民、公明、立憲、維新、共産、国民)の議員が願いを込めて、繰り返し登場させたことがうかがえます。
○AV出演被害防止・救済法 全条文はこちら
誰が、この制度を伝え、広げていくのか?
AV出演被害救済・防止法の概要をまとめると、
②AV作品の撮影は、契約書の交付の1カ月後でなければ始められず、その公表は全撮影が終了した日から4カ月後(以降)でなければならないこと。
③撮影時には、出演契約で定められた性行為の姿態であっても、その全部(または一部)を拒絶することができ、この場合、制作公表者に損害が生じても賠償責任を負わないこと。
④出演者が契約の無効を主張したり、取消し、解除を行える事由が定められていること。
⑤出演者の自由意思に基づく「任意解除」を、公表後1年間可能としたこと。施行後2年以内、つまり2024年6月2322日までになされた契約は、2年間、解除可能(さらに、その特例として、2025年6月2322日までになされた契約も、2026年12月2322日まで解除可能。公表が2025年12月23日以降の場合は、1年間解除可能)(※)。
⑥人格権に基づき、契約解除後の差止請求の手続きが定められ、ネットプロバイダに対しても免責事由を定めて、出演者にとっての侵害情報の削除が速やかに行われるよう(2日)、特則を設けていること。
⑦制作公表者などに対する違反行為(虚偽説明、威迫など)に対して、罰則が設けられていること。
⑧国、自治体の相談体制の強化を明記したこと。
※赤字部分:2022年8月3日訂正
ということになります。
私がこのAV出演被害防止・救済法(案)の条文を、通しで初めて読んだのは5月下旬でした。明確に定められた立法目的と、契約関係から離脱するための救済手段が緻密に盛り込まれ、「これ以上の被害者を生まない」という意味で、使える法律であるとは思いました。
何といっても、⑤の任意(自由)解除が明文化されたことは大きく、たとえ公表後も1年間は、気が転じた場合には、解除し、差止請求を行えるなど、すぐにストップをかけることができます。効力の強い武器です。
もっとも、出演者個人の被害を防止し、救済する法律でありながら、内容の難しさは否めません。国、自治体による制度の周知は、早々に始まっていくでしょうが、契約の「無効」「解除」「取消し」という用語がまず難しい(違いが分かりづらい)のです。
出演契約の項目をはじめ、細かく厳格に定めたこの新法の内容を、誰が、いつ、どのような方法で周知し、広げていくかということが課題です。任意解除の例でいえば、出演契約を解除した後は、契約の当事者としていわゆる原状回復義務を負い、出演料は返還しなければならなくなりますが、返還の義務は解除後に初めて発生することに特に注意が必要で、「出演料を全額返還できなければ、契約を解除できない」という誤解を生まないことが不可欠です(このような誤解があれば、契約解除を戸惑ってしまうでしょう)。
解除の差止請求の仕組みなど、商品、サービスの通常の売買とは違う制度体系を分かりやすく説明していくことが必要です。高校ではこの4月から、新しく必履修科目となった「公共」や、「家庭科」など契約上のトラブル、消費生活相談の実態を取り上げる授業が始まっていますが、今回のAV出演被害救済・防止法の内容がどこまで詳しく教育現場で扱われるのか、疑問がないとはいえません。
さらに、政治・行政はもちろん、社会全体として向き合わなければならないのは、AV出演被害がなぜ起きているのか、という背景論です。芸能界への羨望意識へのつけ込みであったり、失職などによる貧困であったり、パートナーの暴力によって自立が困難になったり、事情は様々でしょうが、背景論にちゃんと向き合わなければ、同じような被害者を生むリスク自体は減りません。法第18条が、「貧困、性犯罪、性暴力等の問題の根本的な解決」をうたっているとおり、被害者支援のための施策は常時、何重にも機能している必要があると考えます。内閣府「性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター」は、全国共通ダイヤルとして#8891(はやくワンストップ、という語呂)を設けていますが(※男女共同参画局HP参照)、普及はまだまだこれからです。ほとんどの人が、この番号を知らないと思います。相談対応には地域差があり、110番、119番のように、24時間365日対応にはなっていません。
2年以内の「見直し」をめざして
AV出演被害防止・救済法は、これで完成形となったわけではなく、施行後2年以内(2024年6月23日まで)に、国会で検討の上、必要な見直しが行われることになっています。法律上は、①AV作品の公表期間の制限(いわゆる「忘れられる権利」の明記)や、②無効とする出演契約の条項の範囲に「性交」そのものを加える(性行為のうち「性交」を禁ずる)ことの検討が、すでに確認されています。②を立法化する場合には、AV出演被害防止・救済法の中では体系的な矛盾が出てしまうので、別に法律を定めることになります。
「こんなに面倒な契約をさせられ、手続に時間がかかるだけで、すぐに出演料が貰えないなら、もうAVなんて出ない」と翻意する人が出てくれば、それは別の意味で新法の抑止力が及んでいることにもなりますが、その適用を逸脱する形で、新たな被害(の連鎖)を生んでは元も子もありません。新法の施行に前後して、性的嫌がらせ、性暴力、性犯罪に直接、間接に関係するニュースがなお続いている状況にもあり、見直しの際には、何が根本的に解決につながるのか、あらゆる可能性を探るべきです。
もしかすれば見直しの前に衆議院の解散があるかもしれませんが、今回改選される参議院議員は全員、議員の職務として関わることになります。AV出演被害の「被害」とは何かをどう捉えるかで、法律の射程が明らかに変わってきます。今回の選挙でも「個人の尊厳」に光を当て、「被害」の実態を知り、心を寄せ合わせる議員が一人でも多く誕生することを願っています。あらゆる面で「個人の尊厳」が全うされている社会であれば、このような新法を制定する必要はなかったわけですが、これからの議員には、今このタイミングで、このような法的枠組みを必要とする人がいるということを根元から捉え、さらに頑丈な制度へとつなげる責任があります。
最後に、議員が常に念頭に置くべきは「スピード感」です。一般的には「1年=48週」ですが、会期制を採る日本の国会では「1年=30週」程度の活動期間しかありません。とくに参院選が行われる年は、臨時国会が夏、秋の二度召集されるために日程が「飛び飛び」になりがちです。2年というと随分先の事に思われがちですが、あっという間に来てしまうでしょう。国会で議論している姿をみせることで、関心を新たに呼び、世論が喚起されることがあるので、先に触れた各党実務者協議の枠組みをこれからも維持し、活動を続けてもらいたいと思います。今回の立法の意義を無にしないためにも、議論は急ぐに越したことはありません。皆で、法の運用、国会の議論を見守りましょう。