本日、第209回国会(臨時会)が召集されました。会期は8月5日までの3日間です。会期が極端に短いのも従来の慣例に則っており、通常選挙(7月10日)を経て新たな会議体となった参議院の人事(議長、副議長など)を決めることを主目的に召集されたといっても過言ではありません。
会期最終日の衆議院本会議で、故・安倍晋三氏に対する弔詞の贈呈(議長)の後、甘利明衆議院議員(自民)による追悼演説が行われるという話がありましたが、追悼演説の件は与党・野党双方から「異論」が噴出して、中止・延期となりました。これは結果として、良かったと思います。①総理経験者に対する追悼演説は、他党の総理経験者が行うとする慣例があるにもかかわらず(例えば、故・小渕恵三氏に対する追悼演説は、2000年5月30日の衆議院本会議で社民党の村山富市元総理が行っています)、甘利氏はそもそも総理経験者ではないこと、②甘利氏の7月20日付のメールマガジンの中で、「会長不在」となった自民党安倍派の状況を指して、「『当面』というより『当分』集団指導制をとらざるを得ない。誰一人、現状では全体を仕切るだけの力もカリスマ性もない」と述べたことが同派の反発を招いたこと、がその理由、背景です。②については、指摘の内容はまったく同意できるものですが、その挑発的で、上から目線の物言いが党内の怒りを買ったことが決定的となり、中止・延期論に拍車をかけました。
甘利氏は、7月30日の「国会トークフロントライン」(TBS)の出演の際、「(追悼演説は)静かな環境の中で行うべき」と発言しており、自らすでに、事態の沈静化を図る側に回ったかのように見えます。ここで「静かな環境」というのは、一つのキーワードです。本会議で弔詞、追悼演説が議題に上がると、多くの場合、遺族(関係者)が傍聴席に入るので(今回実施されていれば、間違いなく昭恵夫人の姿があったはずです)、そんな中で、出席議員の誰かが壇上の甘利氏に対して不用意、不規則な発言をしたり、議場から露骨に退席する仕草を見せれば、静寂と緊張が一瞬にうちに破れ、議院の(さらなる)品位低下が問われることになったでしょう。また、本会議の直前に行われる自民党(衆議院会派)の代議士会でも、誰かしら甘利氏に対して一言、二言発するであろうことは容易に想像がつきます。結果として「静かでない環境」に行き着いてしまう、のです。追悼演説の件は、弔詞の贈呈と切り離して、今秋、二度目の臨時会で仕切り直しです。私は、野田佳彦元総理が最適任と考えます。
国葬を行うには、実体・手続の両面で「法律上の根拠」が必要
岸田総理は7月14日の会見で、「秋に、安倍元総理の国葬を行う」ことを公式に表明しました。この会見では、国葬の法的根拠として、内閣法制局に入れ知恵されたことを認めつつ、「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」を内閣府の所掌事務として定める内閣府設置法第4条第3項第33号を挙げました。7月22日の閣議では、国葬を9月27日、日本武道館で行うことを決定し、翌週28日には、各省幹部から構成される「国葬実行幹事会」の初会合を官邸で開いています。以上が、この間の、安倍氏国葬に関する政府内の動きです。
内閣府設置法第4条第3項第33号の「国の儀式」には、国が費用の全額を支出して行う「葬儀式」も含まれると解することができるかもしれません。しかし、すでに方々から指摘されているように、故・安倍晋三氏がなぜその対象となるのかという根拠までは、内閣府設置法からは明らかになりません。この点、天皇が崩御した場合であれば「大喪の礼」が行われますが、これは皇室典範という国の法律において明確に定められています(第25条)。また、内閣総理大臣は国の元首でもなく(政府見解は元首と認めていません)、「在任期間がナンバーワンだから」という理由だけで、当然のように国葬の対象とすることは困難です。まして、儀式として国の予算が使われる以上、内閣府設置法+閣議決定の抱き合わせで実施するのは憲法第83条(民主的な財政処理の原則)、第85条(国庫の支出)に照らしても、大いに問題が湧いてきます。
私は、国葬に関する新規の法律(国葬法)を制定する必要があるという立場を取ります。①国葬の対象に関する要件(実体要件)、②国葬の決定、実施に関する要件(手続要件)をそれぞれ、明確に定めることが目的です。例えば、①としては、総理の在任期間がおおむね5年であること、②としては、遺族の同意を得ることや、内閣が実施を決定し、日程等を官報に掲載すること、が考えられます。時の政府の恣意的な判断を招かないよう、予め法律に実施の要件(実体面、手続面)を書き込んでおくのです。「安倍氏の国葬に反対」と言う以前に、国葬法という明確な実施法なくして国葬が語られること自体、すでに失当ではないでしょうか。将来的に、国葬はしばしば行われることになるでしょうが、根拠法を欠く現状のままでは、3例目以降も同じような混乱が続くことは避けられません。こうした観点で、国葬法の制定、施行を待って、落ち着いた政治状況の下で段取りを始めるべきです。共同通信社が7月31日に配信した記事で、世論調査の結果、国葬の実施に反対する意見が「53%」と、半数を超えたことが話題となっていますが、明らかに、自民党支持者を含むいわゆる保守層に反対意見が広がっている証左です。先の追悼演説と同じく、「落ち着いた環境の下で事を決し、静粛に挙行すべきである」とする、素朴な市民感情をじわじわと傷つけているのが自民党であり、岸田内閣であると言わざるを得ません。準備をいったん止めるべきです。
宗教被害を無くすための宣言(国会決議)を求める
国会は、安倍氏銃撃・殺害事件の被疑者である山上徹也を裁く場とはなりえません。ただし、事件の背景である旧統一教会をめぐる諸問題に対しては、その被害の実相に迫り、救済のためのルールづくり、宗務行政(文化庁)や消費者保護行政の点検、見直しなど、取り組むべきことは多々あります。いま、その取組み不作為の政治責任が問われているのです。
慣例に拠るとはいえ、3日間という会期はあまりに短かすぎますが、過大な額の寄附の要求などの宗教被害(その二世・三世に及ぶ被害もあります)を無くすために、改めて、宗教法人に対して一層のコンプライアンスの徹底を求める内容の国会決議(衆・参)を行うべきではないでしょうか。法的拘束力はなくても、相当なメッセージとして受け止められるはずです。いみじくも(意外にも)、7月11日に旧統一教会の幹部会見の中で「コンプライアンス」という語が出てきている以上、国会が用いても問題はない(宗教干渉にはならない)と考えます。現在までのところ、選挙疲れと事件の衝撃の大きさのために、与野党ともにそこまで頭が回っていない印象を受けますが、一定の具体的なメッセージは発すべきでしょう(少なくとも、提案はあって然るべきです)。主として自民党の議員(国・地方)や系列の首長が、旧統一教会(側)とどういう関わり合いがあったのかという追及も重要ですが、そればかり熱心になるのではなく、今後、国として同種の被害を繰り返さないために、被害を実効的に救済するためにどういう施策が必要なのかという点も、党派を超えて十分に合意形成を進めるべきです。
他にも、コロナ禍(第7波)、物価高への対応など、調査、審議を継続すべき案件は山積みです。みな、言いたいことが溜まりに溜まっていますが、「安倍政治」の総括、反省も不可欠です。内憂外患の最中にあって、国会活動のオン・オフを政局的に考えている余裕などなく、通年会期制(的運用)を導入し、懸案事項に向き合うべきです。議員には「無駄に長い夏休み」は不要です。