第20回:透明な存在、ネットカフェ生活15年の男性から見た社会(小林美穂子)

 まだ6月だというのに35℃超えを記録した猛暑日、私は西多摩のある市を目指していた。体を壊して失職し、生活保護の申請を決意した河合さん(仮名)に会うために。彼から扶養照会に関する相談を受けていた。
 河合さんは若い時分に結婚をし、子どもが生まれてすぐに離婚をした。元妻はすでに再婚しているだろうし、子どもは自分の存在を知らずに母親の再婚相手を父親だと信じて生きてきたかもしれない。その子どもの人生を邪魔するようなことはしたくない。
 ご事情を聞く限り、親族に男性を支援する見込みは無く、そして扶養照会が河合さん本人含め、親族すべてを苦しめることは容易に想像がついた。扶養照会されるなら生活保護申請はできないという河合さんに付き添い、生活保護の申請同行をすることに。
 実際に会うと、河合さんは携帯ショップやおしゃれなレストランで働いていそうな方だった。「年齢より若く見られます」と本人もおっしゃるように、40代にはとても見えない。礼儀正しく、今風でおしゃれ、コミュニケーションも巧みなこの人が、過去に15年以上をネットカフェで過ごしたとは、とても想像しにくい。
 路上生活者と異なり、ネットカフェ生活者の生活困窮度合いは、幾重にも隠されていて外からは見えない。
 その日私達は生活保護の申請をし、地区担当のケースワーカーから「扶養照会は省略します」と明言してもらい手続きは終了。後日、改めてお話を伺うことにした。

居場所のない子ども時代

 河合さんは東京近郊の町で生まれた。
 親は離婚をしており、河合さんが物心ついた時には父親の再婚相手が育ての親となっていた。新しいきょうだいも増えたが、河合さんにとって、家はあまり居心地の良い場所ではなかった。
 厳格な父親は酒に酔うと河合さんに暴言を吐いた。
 地元の高校を中退し、18歳で結婚するが結婚生活は2年で破綻。再び実家に戻る。
 実家へ戻ったものの、父親との折り合いは悪く、また、肩身も狭く、居場所がなかった。1年半後にパチンコ屋の正社員となり実家を出て寮暮らしを始める。そこで、働いてお金を貯め、ついに自分の部屋を借りた。
 「だけど若かったんですよね。友達呼ぶこととか考えちゃって、自分の給料と見合わない7万円の部屋を借りてしまって、すぐに払えなくなりました。」
 そして、24歳くらいの頃にネットカフェ生活が始まる。

ウィンドウズXPが置いてあった時代から

 「当時、ネットカフェはまだなくて『漫喫』と呼ばれる漫画喫茶でした。一応個室にはなっていて、リクライニングシートがあって、背後はカーテンで仕切られていました。寝泊まりするというよりは、自分の荷物を置く場所という位置づけだったので、8時間ではなく24時間利用していました。今みたいにパッケージなどない時代です。
 パソコンは一応あったんですけど、ウィンドウズXPで起動も遅い。自分はその頃はパソコンも使えなくて、キーボードの上に漫画本を置いて読んでいると、(本がキーを押して)ピーピー音がして『なんだろう?』と慌てたりしてました。段々とパソコンにも慣れて、人差し指でなにかを調べるくらいは使えるようになっていきました」

 カーテンの仕切りしかない空間に安全性などない。いびき、歯ぎしりは筒抜け。漫画喫茶内での盗難も相次いでいたので、財布はチェーンでつなぎ、体から離れないようにしていた。それでも、寝ていると夢うつつの中で、ポケットのあたりを誰かにさぐられている、そんな感触はよくあったという。

友達がいたから生きていられた

 自分の部屋を失い、漫画喫茶生活となった河合さんの心を支えたのは、地元の友人たちの存在だった。友人たちは、河合さんに住所がないことも、実家に居場所がなくて帰れないことも知っていた。漫画喫茶、時にはカプセルホテル、それも難しい時は野宿をしていた河合さんに、友人ら7、8人が付き合ってくれたこともある。「オールしようぜ」と公園に集まって遊ぶ友人たちを眺めながら河合さんは寝ていた。
 「あの頃が一番楽しかったです。友達とのつながりがあったから生きていられた。家がなくても家族と切れていても、友達がいた。それがとても大きかったです」
 遠い日の夜を思い出して嬉しそうに話す河合さんの表情はしかし、徐々に曇りだす。

唯一のつながりを格差が引き裂く

 「でも、友達はみんな就職していて、自分も働いているんだけど不安定だし、家もないわけです。若い頃ってみんな楽しい話をしますよね。でも、自分は合わせているだけで、楽しいことなんてない。話し疲れると、『ちょっと買い物行こうぜ』って流れになって、友達は躊躇なくコンビニに行くんですよね。で、ペットボトルの飲み物とかスイーツとか買うんだけど、自分は飲み物買うにしても100円でももったいない。なんなら88円とか、もっと安い飲み物を買ってるわけです。コンビニで買い物なんてできない。その差が惨めになってしまって」
 自分と友達の生活基準の差を惨めに感じるようになり、自分は一体何をやっているのだろうな、どうしようもないなと落ち込むようになって、そこからだんだんと友人たちとも疎遠になった。
 仕事を通じて彼女ができることもあった。しかし、それも続かない。「家に行きたい」と言われても逃げ続けるしかない河合さんに、女性たちは不信感を抱いて離れて行った。

日払いで明細書手渡しの仕事にしかつけない

 時は移ろう。
 2006年には所得格差が広がり、非正規、日雇いなど不安定就労従事者の格差が問題視されるようになり「格差社会」が流行語となった。2007年には「ネットカフェ難民」が流行語になり、やがてスマホが登場し、東日本大震災が起き、下町にはスカイツリーがそびえ立った。2013年には「ブラック企業」が話題となり、労働環境の問題が可視化されるようになったが、その間も、河合さんは派遣や日雇いの仕事をしながら漫画喫茶やネットカフェで生きていた。
 日払い、せめて週払いでお給料をもらえるところじゃないと働けなかった。自転車操業の暮らしだから、月払いでは間が空きすぎて生活できない。しかも明細書が手渡しでないと働けない。郵送してもらう住所がないからだ。選ぶ仕事はかなり限定されてしまう。

家がないことを隠し続ける苦労

 そのような支払いの融通の利く職場内で、似た境遇の人はいませんでしたか? と私が問うと、
 「そうじゃないかなと思う人はよくいました」と河合さんは頷いた。
 「でも、絶対に話はしないです。住所がないことが会社にばれたらマズイので。だから、同僚と仲良くなっても、プライバシーは全く話さないです。働く人が多い職場はみんな噂好きなんですよね」
 バレないように、常に警戒していた。笑顔でいる。明るくふるまう。そうしていると歳上の同僚に「お前、悩みなさそうでいいなー」と言われたりする。
 「俺、家ないんだけどなーなんて、内心思うんですけどね。きつかったですよ。ネットカフェやホームレスの人あるあるなんでしょうけど、体調悪くなっても仕事休めないから市販薬の用法容量なんて守れないですよ。体に悪いの分かってるけど早く治さないといけないんで」
 そして河合さんが続けた言葉に私はハッとした。
 「でも、慣れてしまうんです。ネットカフェ生活や貧困に慣れてしまうと、自分が困っていると思えなくなってしまう」
 炊き出しに並ぶ人たちが判で押したように「自分はまだ大丈夫」という姿が重なった。

生活保護制度への壁

 低価格なネットカフェではいろんなことが起こる。
 受付で大乱闘があったり、隣の部屋の人が救急車で運ばれたり。共用のポットに虫が入れられたりしたこともあるし、ゴキブリはルームメイトのようなもの。そんな環境で生活をしている高齢者のカップルもいるという。
 ネットカフェ生活が15年と長きに及んだ河合さんは、店のゴミ箱を見れば、そこで生活をしている人が多いかどうかが分かると教えてくれた。
 ネットカフェのゴミ箱にカップラーメンや、安価で量が多い紙パック飲料が捨ててあるところはネットカフェ生活者が多いところなのだそうだ。なるほどと頷く。
 生活保護制度を利用しようとは思わなかったのだろうか?
 「ネットで調べればすぐに情報は出てきます。ただ、僕なんかもそうだけど、生活保護は門前払いっていうイメージが強すぎるんです。利用したくないっていうより、どうせ無理でしょって諦めていました。若くて健康だったというのもある。あと、(生活保護は)タブーというか、差別対象になるようなイメージも強かったです」
 ネットカフェにいると、近くの個室で若い女性が電話で話している声が聞こえてくる。
 「生活保護? ムリっしょ。うちらが受けられるわけないよ」。

 2017年に東京都が一度だけ行った調査では、ネットカフェで生活をしている人の数は、都内だけで約4,000人。家がない状態で、選択肢が限られた就労をせざるを得ない若い人たちがそれだけいて、貧困状態から抜け出せないでいるのが分かっているのにもかかわらず、国も都も何もしない。社会も「自己責任」という便利な言葉を盾に見て見ぬふり。そんなこの国は河合さんにはどう見えるのだろう?
 「多くの人たちにとって生活困窮者なんて所詮対岸の火事なんですよ。見て見ぬふりって言い方がいいのか分からないけど、ホームレスの人たちとかも風景と一緒。いないのと同じ。なんならこんなとこにいるんじゃねーよって、死んでも何とも思われないような対象になっているように思える。自分のことじゃないから、そりゃそうなんでしょうけど。ずっと、遠いなって距離を感じていました。貧困を経験していない人たちがとても遠いなって」

アパート入居、契機は新型コロナ

 2020年春、日本にも新型コロナウイルスの感染拡大が始まった。
 仕事がぱったりと無くなって、ネットカフェ代も捻出できなくなった河合さんは、社会福祉協議会の緊急小口資金と総合支援資金を利用する。そのお金を原資にしてアパート入居を果たし、15年ほど続いたネットカフェ生活がようやく終了した。
 コロナ禍で職探しも厳しさを極める中、倉庫のライン作業の仕事を得た。しかし、長年の無理が祟ったのか、ここにきて遂に体調を悪くしてしまう。
 体調が悪くてもライン作業だから離れることができない。必死に我慢を重ねるものの、どうしても日に何度かトイレに駆け込む。そんなことが続くうちに「その体調ではうちでは厳しいね」と首を切られてしまう。
 困って社会福祉協議会に相談すると、職探しが前提となっている自立支援金と住居確保給付金を勧められたが、その時の体調では自信がなかった。
 生活保護について聞いてみたら、就労支援のスタッフに「いやあ、厳しいと思うよ。それだけネットカフェでやってきたんだから頑張れるでしょう」と言われた。相談の段階では「大変だったね!」と共感してくれていたのが、「生活保護」と言った途端に相手が困惑顔になった。「生活保護は厳しいよー、無理と思うよー。その年じゃねぇ、若いしねぇ、60歳以上じゃないとねー(※事実無根です。生活保護に年齢関係ないです)」と言われ、やはり噂通り難しいのかと不安になった。
 生活保護の相談をしたいと明言しているにもかかわらず、職員は住居確保給付金の延長の書類を持ってきたので、「これと生活保護って一緒に利用できるんですか?」と聞いたら「できない」という。だから生活保護の申請書をくださいと粘ったところ、ようやく持ってきてくれた。それでもまだ扶養照会の懸念が残ったため、申請書を一旦持ち帰り、つくろい東京ファンドに問い合わせをくださったという次第。
 しかし……普通ならそこまで頑張れない。職員に何度も重ねて撥ねつけられたら、大半は諦めてしまうだろう。
 「そこまで粘れたのは、ネットで『収入が最低生活費を下回る場合は生活保護の対象です』って書いてあるのを読んで勇気づけられたというのもあります」
 長い長い歳月を耐え、ようやく河合さんが住居を手に入れた契機となったのが、公助というよりもコロナだったというのが何とも皮肉で情けないが、河合さんは自力でネットカフェ生活を脱出したのである。しかし、15年という月日は戻っては来ない。
 若い時代のほとんどをネットカフェで暮らした河合さんを思うと、福祉制度がもっと使いやすいものであったならと悔しくてならない。

僕みたいな人間はマンガの中の人

 アパートに入り、生活保護を利用しながら療養を続ける河合さんに今のお気持ちを伺うと、「ネットカフェで貧乏の底にいた時も当然キツイんですけど、そこから制度を使って抜けたあとも、貧困は他人事だと思っている人たちとの距離がすごくあるのがキツイです」という言葉が返ってきた。
 生活保護利用をしていることで通院先で屈辱的な目に遭ったのだという。
 「ネットカフェ生活を脱しても差別対象であり続けることが苦しい」
 「生活保護の申請は国民の権利」と国は言っても、世の中はそういう扱いはしてくれない。
 「貧困が他人事な人たちにとって、僕らのようなネットカフェ生活者はマンガの中にいる架空の生き物なんじゃないかなって感じるんです。僕は経験してきた側だから、そのきつさはリアルに分かるんですけど」
 自己責任という言葉が世の中を覆い、貧困が放置される。ネットカフェはどんどん進化して、より便利に、より宿泊しやすい場所となっていき、家を失った人たちがネットカフェに吸い込まれ固定化されていく。そのことも疑問に思うと河合さんは付け加えた。

 そして、今後は、自分と同じような苦しい思いをしている人達の役に立つことがしたいと目を輝かせる。
 河合さんが過ごした気が遠くなるような孤独と過酷な経験が、誰かの辛さを癒すとき、彼の15年分の痛みは少しだけ和らぐだろう。
 社会が貧困を放置することの罪深さ、残酷さを改めて胸に刻んだインタビューとなった。彼が15年間も貧困から抜け出せなかったことの、一体どこが自己責任なのだろうか?
 彼が感じた、「いわゆる普通の生活」を送れている人たちとの距離の遠さは、広がる一方の「格差」そのもの。
 今もネットカフェに固定化された若者たちが何千人もいる。行政はいますぐ動け。

ネットカフェの個室の様子

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。