第610回:国葬が終わり、「分断」が残る。の巻(雨宮処凛)

 あなたは「自分はここに住み続けられるだろうか」と不安になることはないだろうか。

 あるいは飲食店や病院などに行った時、「自分が何をしている誰かバレたら大変なことになるのではないか」と思ったりしないだろうか。

 もしくは普通に生活している中で、見知らぬ人からあからさまに睨まれたり敵意をぶつけられることはないだろうか。

 突然こんなことを書いたのは、国葬を通じて、改めてこの国の「分断」について考えさせられたからである。

 国葬を前にして、8年8ヶ月にわたる安倍政権の「業績」という言葉をよく耳にするようになった。そこではさまざまな言葉が語られていたが、安倍政権が残したもっとも大きなもの、それは「分断」だと私は思っている。

 安倍元首相が自らに異論を唱える者を率先して「こんな人たち」と口にし、時にSNSで誰かを名指しで批判する。総理大臣のそのような作法によって、人を「敵」と「味方」に線引きするやり方は、今や当たり前のものとなった。

 その果てに、私は冒頭に書いたような不安を日常的に感じるようになった。特にSNS社会となり、敵味方を単純に色分けすることがこの数年で顕著になった。また、右派に「敵認定」されている私のSNSはしょっちゅう炎上するようになり、それによって多くのものを失ってきた。本当は、こういうことはネット媒体では書きたくない。具体的なことは「週刊金曜日」10月7日号に書いたので、そちらを読んでほしい。

 さて、このような状況が続いていた中で、安倍元首相銃撃事件が起きたわけである。

 統一教会の名前がまだ伏せられ、「特定の団体」とされていた事件直後、SNSには心ないデマや決めつけの言葉が溢れた。

 いずれも、安倍政権を批判してきたリベラル派の言動が事件を招いたというような内容のものだ。政権批判をしてきた著名人の顔が次々とネットで拡散され、私は背筋がスッと寒くなったのを覚えている。

 その後、逮捕された山上容疑者と統一教会をめぐる問題が明らかになり、一時のデマや決めつけは鳴りを潜めた。が、あの時拡散された言葉たちは、安倍政権的なものが深めてきた「分断」を象徴するようなものだったと今、思う。

 そうしてすぐに国葬が強行されることが勝手に決められた。それは「分断」をより一層深めるものであるのは誰の目にも明らかだった。世論調査をするたびに国葬に反対する人々は増え続け、とうとう直前には7割以上が反対という調査結果も出た。それなのに強行される国葬に、多くの人が反対の声を上げた。

 が、私はこの動きから距離をとっていた。

 一度だけ、知り合いがやっているデモに一参加者として少し顔を出した程度で、それ以外は、反対運動の呼びかけ人に誘われても、スピーチを依頼されてもすべて断っていた。

 もちろん、私自身、国葬には反対だ。しかし、どうしたって感情的になりがちなこの問題は、慎重に慎重に言葉を尽くして語らないと、分断を取り返しのつかないものにしてしまう気がした。20年以上前、右翼団体に所属していた身としての直感もあった。とにかく汚い言葉の応酬になり、分断を決定づけられてしまうことだけは避けたかった。

 距離をとっていたことに対し、「炎上を恐れてネトウヨに屈するのか」という人もいるだろう。しかし、女である私から見えているこの世界は、冒頭のような心配を毎日しなければならない世界なのだ。いつの間にか、そうなっていたのだ。

 一方で、一部の左派の間で飛び交う言葉に引いていた。死去の一報を受け、「ざまぁみろ」などその死を喜んだり茶化したりする言葉。たまたま見かけたデモでは、安倍元首相の死を「嬉しい」などと拡声器で口にして笑う人もいた。少なくとも、私はそういう人たちと一緒にされたくない。また、その手の発言は右派の思う壺だとも思う。人の死を喜ぶ血も涙もない左翼というストーリーはどれほど都合がいいだろう。

 とにかく、そんなようなことが重なって、自分が前面に立つ気にはどうしてもなれなかった。

 さて、ここまで散々「分断」が決定的になることへの恐れを書いてきたが、それには理由がある。私自身、ここ数年のこの国で、最も深刻な問題が分断だと思っているからだ。

 例えば、これを読んでいる人には映画『主戦場』を観た人も多いと思う。慰安婦論争を扱ったドキュメンタリー映画だ。これを観た時、いわゆる右派とリベラルは、同じ国で生きながらもまったく違う世界に住んでいて、まったく違うストーリーを生きていることに驚愕した。以来、その差はどんどん開き、お互いが「言葉の通じないモンスター」化し続けているのではないだろうか。

 そんな社会の分断が進むとどうなるか。

 「自分たちの大切な仲間」と「どうなってもいいそれ以外」という線引きが当たり前になるだろう。

 というか、安倍政権下での森友学園、加計学園、そして「桜を見る会」などのもろもろは、そんな社会を凝縮した上で先取りしたような問題だったわけだが、線引きが当たり前になると、「どうなってもいいそれ以外」の命は軽くなる。少なくとも、積極的に助けようだとか支援しようという発想はなくなるのではないだろうか。

 その上で、この国は30年かけて格差社会となってきた経緯がある。そのような社会は、あまりにも簡単に自分と違う階層の人間を「得体の知れないモンスター化」する。16年、貧困の現場にいて、私はそのことを痛感している。

 年越し派遣村の時にこの国に当たり前にあった「同情」は、14年経ち消えてなくなった。「日本もそういう社会になったのだ」ということを、多くの人が諦めとともに受け入れたからだ。そうして人々がホームレス化することを誰もが「自己責任」と突き放すようになった。そういう社会になると、公助が機能不全を起こしても誰もそのことを問題視しない。「自業自得」の人間が死のうがどうしようが知ったことじゃないからだ。

 そう考えると、生活保護がバッシングされ続け、高齢者が「お荷物扱い」されてきた理由もわかる。また、自民党の政治家たちが高齢者に対して「いつまで生きる気だ」と言ったり、性的マイノリティの人への差別発言を繰り返しても議員の立場でい続けている理由も見えてくる。

 考えてみれば、もうずーっと前から「公的ケアの対象になる人」たちは、「ズルして楽して得して怠けている」という誤解だらけのレッテルを貼られてきた。景気の低迷の中、「病気も障害もなく高齢者でもなければ自己責任で死ぬまで競争に勝ち続いてください、それが無理なら野垂れ死で」というメッセージを浴び続けている多くの人にとって、それらの人々が「特権」に見えてしまう末期的症状だ。衰退が進み、少ないパイを奪い合うような社会で分断が続くことは、社会のシステムを破壊していくことにつながっていくと思うのだ。

 そしてこの分断社会はすでに、顔出しで声を上げ続けてきた私にとって、安心して生きられる場所ではなくなっている。声を上げ始めた16年前とはまったく違った地平に私たちは住んでいる。

 周りを見渡せば、環境も大きく変わった。

 少し前、何かトラブルが起きたりしても「一緒に闘ってくれる/くれそうな」出版社や編集者はたくさんいたのに、ネットの炎上がリアルで様々な実害を引き起こすようになったこの数年で、気がつけば絶滅寸前となっている。その上、長い出版不況で、物言う多くの媒体も消滅もくしは消滅寸前。最後のトドメのように、この2、3年、少なくない編集者から「とにかく炎上しないように」ばかりを言われるようになった。そして実際何かあっても、誰も助けてくれないのだ。

 それが私から見えている世界だ。

 そうして気がつけば、メディアからは政権を批判するような人々の姿がどんどん消えている。特にテレビ業界は凄まじい(8月以降は統一教会問題で頑張る番組もあるが)。

 だからこそ、なんとか分断を乗り越える方法がないものかと思っている。そしてそれを、自分たちやもっと若い世代で考えたいとも思っている。何しろ私たちは、下手したら今まで生きた年数と同じくらいの長さをこれからこの国で生きていかないといけないのだ。

 一方、同世代や下の世代には、すでに日本に見切りをつけ始めている人もいる。私の周りにも、子どもを海外に留学させ、仕事も海外でと考えている人は少なくない。自らが海外移住を考えている人もいる。

 しかし、そうできるのは経済力があったりツテがあったり語学ができたり、とにかく海外でも生きていける才能がある人たちだ。

 翻って、高卒でフリーランス、英語もからきしできない私は、どれほど「日本から出ていけ」と罵声を浴びせられても、この国で生きていくしかない。

 そんなエリートでもなんでもない人間が、自分が「おかしい」と思ったことに声を上げ続けられる社会。それが今、大きく損なわれているからこそ、こんなことを書いた。

 もちろん、「国葬反対」の声を上げることは大切だし、それぞれの立場でできることをやっていた人たちは最大限にリスペクトしている。

 ただ、私たちにはこの分断を乗り越えるための方策を考える責任もあるのではないかと、銃撃事件以降、思い始めている。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。