第39回:常磐炭田ツアー報告「一山一家を合言葉にして」(渡辺一枝)

 8月30、31日の1泊2日で、「常磐炭田ツアー」を行いました。ことの発端は、6月に実施した「被災地ツアー」の2日目の晩のことです。いわき市湯本の「古滝屋」が宿泊先でしたが、こちら方面に私が来る時にはいつもお世話になっている宿で、御当主の里見喜生さんとは顔馴染みです。被災地ツアーのガイドは、いつもの今野寿美雄さんです。夕食が済んで里見さんも今野さんも、まだ少し飲み足りない、私は少し話し足りないといったことから3人でまた、宿のロビーのブックカフェコーナーで語らい合ったのです。
 何の話からだったでしょう、今野さんが「ハワイアンズのダンサー達の踊りを見た時、涙が出てきたよ」と言い、それを聞いた里見さんも「僕も感動して泣けてきましたよ」と言ったのです。2人の言葉に私は驚き、そしてまた自分のものの見方考え方に大きな疑問が湧いたのでした。
 20代の頃の私は、福島県と茨城県にまたがる常磐炭田が閉鎖されて「常磐ハワイアンセンター」ができたことをニュースで知りました。しかし、「石炭産業が廃れてレジャー施設ができた」という認識しか持たず、そして興味も湧きませんでした。興味がなかったので知らずにいましたが、その後センターは施設設備の改良新設を繰り返しながら、名称も「スパリゾートハワイアンズ」と変更されていました。
 東日本大震災後は一時休館しましたが、半年後の2011年9月から営業を再開していました。再開するまでにはその動向が小さなニュースにもなって、私はそれも目にしていました。休館中はダンサー達があちこちに公演に行き支援を訴えていること、再開の折には、ダンサーになる道を選んだ高校生のことが話題にもなりました。そうしたニュースにも私は特別の感慨も抱かず、むしろ核災害の酷さから目を逸らさせるもののようにさえ思い込んでいたのです。
 今野さんと里見さんの言葉にそんな自分を振り返り、常磐炭田の歴史やハワイアンズのことをもっと知りたいと思いました。エネルギー源が石炭から原子力に替わってきた歴史を、知識として頭で知るのではなく足元から体で感じたいと思ったのです。エネルギー政策の問題、またエネルギーだけでなく食糧も人手も、東京は福島から多くを供給されてきたことにも思い至り、原発問題を考えるなら常磐炭田から考えたいとも思ったのです。
 それで2人の言葉を聞いた私が常磐炭田ツアーをしたいと言うと、2人とも即座に快諾してくださったのです。その場ですぐに3人のスケジュールを調整、8月30、31日と決まったのでした。そして里見さんからは、参加者に事前の宿題が出されました。映画『フラガール』を見てくることというのが、その宿題でした。

◎常磐炭田ツアー

 興味・関心がありそうな友人たちに声をかけると希望者はすぐに集まり、この日を迎えたのでした。友人たちにツアーのお誘いの連絡を入れながら、私は宿題の映画『フラガール』をネットで検索し、パソコンで鑑賞しました。炭鉱の町の人々暮らしや炭鉱が廃れていく中で常磐ハワイアンセンターが造られていく歴史や、演技とはいえダンサーたちの訓練の様を興味深く観ました。

●1日目 スパリゾートハワイアンズ

 8月30日10時半、東京から6名、仙台から1名、松本から1名、総勢8人が古滝屋のロビーに集合しました。2日前に今野さんからは欠席の連絡が入っていました。なんとコロナに感染、隔離生活のためにソロキャンプ中とのことでした。ロビーで里見さんの出迎えを受け、初対面の人同士も多かったので、それぞれ自己紹介をしました。私はこのツアーの少し前に入手していた西田勝さんの論文のコピーを、皆さんにお配りしました。
 元法政大学教授だった西田さんは、退職後は「西田勝・平和研究室」を主宰され、文芸評論家そして平和運動家として活動されてきました。昨年夏に享年92歳で亡くなりましたが、私は「西田勝・平和研究室」のイベントに何度か参加して、お連れ合いの澄子さんとも友人関係にありました。澄子さんにこのツアーのことを話すと「30年くらい前に西田が『足尾鉱毒問題から原発を考える』という内容の論文を書き、学生を連れて足尾銅山に行ったことがあります」と伝えられ、その論文が載ったご著書『グローカル的思考』(法政大学出版局)が送られてきていました。それを読むと、まさに私が常磐炭田から原発を考えたいと思っていたことと重なって思えたのです。それで、西田さんのその論文コピーを皆さんに配ったのでした。
 自己紹介を済ませた後でフロントに荷物を預けて、手荷物だけ持って宿のマイクロバスで、いざ「スパリゾートハワイアンズ」へ出発。古滝屋でアルバイトをしている大学生さんが、私たちの世話係として同行してくださいましたが、ごめんなさい。お名前失念しています。ツアー1日目は、先ずはここで館内施設を楽しみ、ダンサーたちの踊りを鑑賞することから始まりました。
 スパリゾートハワイアンズはとても大きな施設で、私は個人では絶対に来ないだろうなと思う場所でしたが、こうしてツアーだから訪ねることができてよかったと思いました。その中にある大プールは、夏休み最後の日でもあって親子連れでいっぱいでした。大プールは水中滑り台のようなコーナーがあったり、流れる水になっていたりで、子どもばかりでなく大人も浮き輪に身を預けてのんびり流れに身を任せている人も多かったです。泳ぐためのプールというより水に浸かるためのプールのようでした。
 ダンサーたちのステージが始まるまでの間は自由行動で、その間に昼食を取ることになっていました。館内の熱気に当てられながら、ツアー仲間の3人でメインの建物から渡り廊下を渡った「江戸情話 与一」コーナーの蕎麦屋さんでお昼を食べました。「ここは全てが江戸風」と謳っているコーナーで、行ってはみませんでしたが世界最大の大露天風呂があるそうです。大プールの喧騒もあまり届かずこの蕎麦屋が唯一静かな場所でしたから、ステージが始まるまでの時間をここでゆっくりお喋りしながら過ごしました。顔見知りではあったけれど、それまで個人的な話をしたことがなかった方達とゆっくり話ができて、距離が一気に縮まったように思えて、良かったです。
 ダンサーたちの踊りが始まる時間が迫り、ビーチシアターの席につきました。舞台の袖に位置したバンドの演奏が始まると、ダンサーたちが登場して踊りが披露されていきました。
 演目ごとにダンサーは少人数になったり大勢になったり、また衣装も替えたりで、飽きないように工夫されていました。その動きは、日頃しっかりと鍛錬されているものだと感じました。でも見ていて涙が出ることはなく、それはもしかしたら私の目にフィルターがかかっていたからかもしれません。私の友人の一人に、古代フラを踊る人がいます。ハワイで学び修行してきた彼女から、フラは祈りなのだと聞いたことがあります。教室を持って教えながら、反原発や平和集会などで、その踊りを通して意思表示をする彼女です。どちらが良いということではなく、興行としてのフラと祈りとしてのフラの違いなのでしょう。
 そしてこれは翌日のことなのですが、炭鉱の遺構を見た後の私は、「これらを見た後の今、もう一度フラガールの踊りを見たい! きっと昨日とは違った目で鑑賞することができるだろう」と思ったのでした。

●2日目

 朝食後ロビーに集合。
 集まった私たちに里見さんが、たくさんの書類が入ったバッグを2つも持った人を紹介してくださいました。これから常磐炭田の遺構を案内してくださる、「いわきヘリテージ・ツーリズム協議会」の熊澤幹夫さんでした。熊澤さん、里見さん、アルバイト学生さんと一緒に古滝屋さんのマイクロバスで出発。

*いわき市石炭・化石館ほるる
 最初に行ったのは「いわき市石炭・化石館 ほるる」。館内には石炭や他の鉱石、化石などが展示されているそうですが、中には入らず、館外の展示物について説明を受けました。入口には片寄平蔵の胸像があって、私には興味深かったです。このツアーを企画した後で私は、にわか勉強で常磐炭田の歴史を紐解きました。その最初に出てきたのが、片寄平蔵の名でした。「安政3(1856)年、白水村弥勒沢で石炭層を発見」と書かれていました。
 ほるるの館外には、「杜六坑園坑口(常磐炭鉱湯本坑第6坑人車坑の坑口)」が保存されていました。きれいな形で保存されていましたが、それは、ここが戦後の昭和22(1947)年に天皇が労働者慰問のために行幸した場所だからで、ということは、かつてはこの敷地自体が鉱山であったということなのでしょう。敷地の外れには蒸気機関車のD51(デゴイチ)の姿がありました。子どもの頃から機関車が大好きだった私は、高校生の頃はまだD51が青梅線で貨車を牽引していましたから、学校をサボってはよく眺めに行ったものでした。また北八ヶ岳など山行の折にC61(シロクイチ)に乗ったりすると、もうそれだけで山行の目的を半分果たしたような気分になったものでした。
 熊澤さんがD 51の向こうに高く立つ3本の木を指して「何の木かわかりますか?」と問いかけ、答えを待たずに続けて言いました。「メタセコイヤです。あの木が枯れて大地に埋もれて朽ち、やがて石炭になる。そうやって石炭は大地の下に眠っているのです」。小学生の頃の教室で石炭当番になった私がその言葉を知っていたら、当番は嫌々やる仕事ではなくもっと誇りが持てただろうなと思いました。

*みろく沢炭鉱資料館
 常磐炭田は福島県富岡町から茨城県日立市までの広範囲に広がっていて、各地にそれぞれ固有の名で呼ばれる炭鉱がありました。弥勒沢炭鉱もそうした一つで、資料館は山中にありました。山神様を祀る小さな祠があり、ほんの少し開けたあたりに人家と資料館がありました。人家の前には石炭を運び出すときの箱車と車の巻き上げ機があり、熊澤さんが電流のスイッチを入れて動かして見せてくれました。
 資料館の内部にはたくさんの品物や写真などが隙間なく、いわば雑多に展示してありました。でも展示されているどの一つも、とても貴重な資料に思えました。入ってすぐの所に、何本ものツルハシが立て並べてありました。熊澤さんが「手に取ってみていいですよ」と言い、1本を手に取ると重みが肩に響きました。どれもが埃を被った手入れされないままのようなツルハシでしたが、鉄の部分がそれぞれ形が少し違っていて、それらの変化からは作業がしやすくなるように改良されていった跡が見て取れました。
 所狭しと、たくさんのものが展示されていました。荷上げ用の滑車、背負い籠、カンテラ、ヘッドランプ、ヘルメット、天秤棒、石油ランプなどなどの他に、1斗ます、5升ます、5合ますなど各種のます、米櫃やタライ、洗濯板、コンロなどの生活用品も多々ありました。
 何枚か展示されていた写真の中には坑内で働く坑夫たちの写真もあり、男性ばかりでなく女性坑夫たちを写したものもありました。坑内の気温は40度を超えるほど高温だったとか。写真からも過酷な労働であったことが伝わってきました。
 立て看板や電話機、賃金計算表やポスターも。イラスト入りのポスターは、「S42no4ガス炭じん爆発防止運動 散水で炭じんをおさえよう!」とありました。昭和42(1967)年に張り出された4枚目のポスターだったのでしょう。
 募集要項のポスターには、こう書かれていました。

1. 年令満18歳~45歳までの男子
1. 寮設備 食費1食40円(内10円は会社補助)
1. 銓衡場所及申込所 公共職業安定所
1. 銓衡日 昭和30年5月7日
1. 期間 6ヶ月以上
1. 福利厚生 失業保険、健康保険
1. その他詳細は公共職業安定所にて案内書をご覧ください。
福島県常磐市藤原斑堂 新矢ノ倉炭鉱 常磐線湯本駅下車 電話(常磐)658番

 こんな募集要項から、当時の社会状況や暮らしを思い浮かべました。
 ここは弥勒沢炭鉱の元労働者で地元の郷土史家、故・渡邊為雄さんが個人で作った資料館なのです。資料館を出て、建物の前で熊澤さんは、建物の屋根を指し示して「珍しい形の屋根でしょう? ここは鶏舎だったのです」と言いました。ノコギリの歯のように斜めにギザギザがある屋根型でした。
 昭和38(1963)年3月に弥勒沢炭鉱は閉山となり、渡邊さんは20年間の炭鉱生活を閉じて、養鶏業に転じました。その傍ら、昭和40(1965)年頃から昔の写真や鉱具など炭鉱に関係する資料の収集をはじめたそうです。そして平成元(1989)年にそれらを展示する資料館を開館したのだそうです。熊澤さんは、また私たちに問いました。「屋根は黒いですね。なんで出来てるかわかりますか?」。トタン板でもないしスレート板でもないし、誰も答えられませんでした。「紙です。この辺の気候は温暖で雪は降らないのです。紙にコールタールを塗っておけば、十分屋根として利用できたのです」。
 建物も含めて収集物の全ても大切に保全されますようにと、祈る思いで資料館を後にしました。

*内郷中央選炭工場・水中貯炭場
 選炭工場のコンクリート造の建物が残っていました。コンクリート製の大きな漏斗状のものが中央にある建物で、これは石炭から余分な部分を取り除く作業を、初めて機械化した工場です。それまでは手で選別していたのを水で余分なものを洗い流すようにしたのだそうですが、これはアイディアは良かったものの、稼働してすぐに使われなくなったようです。洗って余分なものを落とした石炭を貨車に積んで運び出すわけですが、水分が十分に切れない石炭を運ぶのですから、沿線の住民から洗濯物が汚れて困るというような苦情が相次ぎ操業停止したそうです。運ぶ間に水分が切れると考えたのでしょうが、読みが浅かったのでしょう。
 水中貯炭場は、石炭が自然発火しないように、搬出までの間水中で保管していた倉庫です。

*扇風機上屋
 常磐炭田は斜めに掘り進む斜鉱でした。坑口は二つあり、左側の口は「本卸(ほんおろし)」といって石炭や資材の搬出入口、右側の口は「連卸(つれおろし)」と呼び坑夫の出入りのための口でした。今はどちらの口も塞がれていて中には入れません。その坑口の上の方には赤い煉瓦の建物がありました。「扇風機上屋」です。坑内の空気を入れ替えるために巨大な扇風機が2台設置されていたそうです。この煉瓦造りの建物は、今はもう内部には草が繁り外壁には蔓草が張っていましたが、美しい建築物でした。坑道はほぼ20度の角度で斜めだったため、地上に立つ建物の壁の接合部は煉瓦をその角度に合わせて三角形に切ったものが使われていて、それがとても素敵な造形美をなしていたのです。名もない煉瓦職人の仕事だったのかもしれませんが、私には、近頃著名な建築家の成した建築物よりも何十倍も美しく思えました。

*炭住と金坂商店街
 道筋には炭住跡地も何ヵ所かありましたが、多くは団地のように建て直されていました。けれどもかつての「5軒長屋」と呼ばれた木造平屋住宅が、2ヶ所残っていました。文字通りの長屋で、トイレは別棟の共同便所で木造のポットントイレでした。5軒長屋は草生して朽ち果てそうな姿で残っていましたが、一ヶ所の方は一戸だけ、今も人が住んでいるのです。
 50年以上前に閉山された炭鉱で、かつて働いていた人なのか、その人の話を聞いてみたいと叶わぬことを思う私でした。
 バスを止めてみんなも降りたところで熊澤さんが、「ここは金坂の銀座通りと呼ばれた商店街でした」と示した通りは、両側に住宅が並び商店の影もなく、真夏の陽光の下で白々と眩しい舗装道路でした。でも昭和30年代のここは、人混みでまっすぐに歩くことができなかったほど栄えていたそうです。炭鉱は24時間稼働しているから、商店街は昼も夜もなかったと言います。売り出しセールには東京から大物歌手がやってきて、歌謡ショーが開かれることもままあったそうです。

*相撲場
 炭鉱には山神社が祀られていますが、内郷山神社には相撲場がありました。娯楽の少なかった時代、相撲は力自慢の労働者たちの楽しみであったでしょう。弓場もあったそうです。現存する相撲場は山の斜面の中の、ただ平らな草地です。かつては屋根付きの土俵があったそうです。土俵があった草地の三方を幾段かのコンクリートの階段が囲んでいて、まるでローマのコロシアムの小型版のようでした。階段状の所が観客席なのです。相撲が行われた時にはきっと、家族総出で力自慢の“父ちゃん”に声援を送ったことでしょう。
 今はもう、ここで相撲をすることもないでしょうが、音楽会や演劇などに使えるのではないかと思いました。

*ズリ山
 採掘した石炭に混じっている捨て石の集積場のことで、ボタ山とも言います。ボタは漢字で書けば「硬」で、捨て石をトロッコなどで運んで長年積み上げていくと、円錐状の山ができます。捨て石の中には石炭が混ざっていることもあり、それを拾い集めて家庭の燃料に使うこともありました。ただしこの山は崩れやすく、ボタ拾いは危険な仕事でもありました。
 円錐状のまま放置しておくと崩れやすく危険なので、上部を削って台形にして、さらに草木を植えているズリ山もありました。

*一山一家
 ツアー参加者は映画『フラガール』を観ておく事が事前の宿題になっていました。
 炭鉱が斜陽産業化してきた時代の話を、映画は語ります。寂れていく町の町おこしに、炭鉱の社長は新たな事業としてハワイアンセンターを立ち上げようとします。この街を常夏の楽園にしようというプロジェクトです。人員整理や賃金カットなどで労働者たちはいきりたっていて、ハワイアンセンター立ち上げ計画にも敵意を抱き、冷たい視線です。
 ハワイをテーマにしたプロジェクトの目玉はフラダンスショー。東京から講師を呼んでフラダンスのダンサーを育てる教室を作ります。ダンスを習ってダンサーになりたい少女の親は、娘が腰を振って踊るなどとんでもないと憤り、挙句は勘当とばかりに家を追い出す始末です。でも踊ることに喜びを見出した娘たちは厳しい練習にも耐えていきます。日本にいながらハワイ気分を味わえるようにしたいと、社長はセンターの建物内に椰子の木を植えることを思いつきますが、南方の植物ですから冬の寒さには持ち堪えられません。暖房の設備がないハワイアンセンターを温めたくて、ストーブを貸してほしいと人々に頼み歩きます。その頃には協力する人たちも現れてきていて、火鉢や石油ストーブが持ち込まれ、椰子の木も無事に育ち、ダンサーたちも失敗を重ねながらも上手になっていき、やがてめでたく常磐ハワイアンセンターは開幕の日を迎えました。というようなストーリーの映画でした。
 映画が封切られた頃評判になってはいましたが、私は全く興味が湧かず観ていませんでした。今回宿題になったのでネットで検索してパソコン画面で観ましたが、社会的背景なども描かれていて興味深く鑑賞しました。笑いを誘う場面もありましたが、「コメディ映画」と銘打たれていた点が、ちょっと解せませんでした。
 ツアー終了時に、熊澤さんが言いました。
 「映画フラガールは、実話です。炭鉱が廃れて行った時、炭鉱で働く人々が職場を失うことを回避しようと『一山一家』を合言葉にして、やってきたのです。常磐炭田と一口に言ってもそこここに小さな鉱山(ヤマ)があってそれぞれの名称がありました。それぞれのヤマでは米が買えない家があったらみんなで少しずつ出し合ったり、修学旅行のお金が払えない子には少しゆとりのある人たちが出してやったりしてきました。映画で椰子の木を守るためにみんながストーブを出し合ったというのも、あれは本当の話なんです。映画は全部、実話に基づいているのです。みんなで『一山一家』で、やってきたんです」
 坑夫ではありませんでしたが、炭鉱会社の社員だった熊澤さんの、体験から出た言葉でした。
 里見さんも言いました。
 「寮で共同生活のダンサーたちからは、食費も部屋代も取りませんでした。中学を出たら働いて少しでも親に楽をさせたいと言ってダンサーを希望してくる女の子たちには、高校を出ることが大事だと言って、学費を出してやりながら高校に通わせ、下校後や休日にダンスを教えていました。ここでも本当に、一山一家の暮らしでした」
 里見さんの亡くなったお父さんもまた、先祖から続いた旅館業を受け継ぎながら、町の発展や地元の人たちの暮らしが向上するようにと尽力されてきた人だといわれています。またこの地域の地質や歴史についても造詣が深く、そうした観点からも地元を大事にしてきた人だったのでしょう。

●ツアーを終えて

 思いつきのように決めた常磐炭田ツアーでした。そしてツアーは、自分からは進んで観ようとしなかった映画の鑑賞から始まりました。また、自分からは決して行こうとは思わなかったレジャー施設訪問から始まった、ツアーの第1日目でした。けれども炭鉱遺構を案内していただきながら、ジワジワとあの映画の持つ意味やスパリゾートハワイアンズ(旧称常磐ハワイアンセンター)の存在の大きさが感じられるようになってきていました。ツアーを終えた後の私は、もう一度あのビーチシアターで、虚心にダンサーたちの踊りを見たいと願っています。また再度、炭鉱遺構を訪ねるツアーを組みたいと思っています。
 今回のツアーを終えて熊澤さんと里見さんにお礼と共に「また来たいです」というとお二人とも歓迎してくださいました。そして熊澤さんからは「今度は草の茂っていない季節においでなさい。そうすればもっとよく見られる場所もありますよ」と助言もいただきました。来年、また計画しようと思います。やっぱり私は、頭ではなく脚で物事を理解していく人間でした。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。