第41回:トークの会 「福島の声を聞こう!」vol.41報告(後編)「庭の木がなくなって、自分の根っこが引き抜かれた感じだ」(渡辺一枝)

 「福島の声を聞こう!」第一部では福島県の浪江町から静岡県富士市に避難した堀川文夫さんが、時折、お連れ合いの貴子さんの発言をまじえながら、自分史と絡めて浪江での被災前の生活、3・11当時、避難行と避難先での今の暮らしを語ってくださいました。今回は、第二部の様子をお伝えします。堀川さんの自宅解体と敷地の樹木が伐採されるまでの記録映像が流れ、堀川さんと映像を撮影・編集した写真家の中筋純さんとの対談を行いました。

●堀川文夫さん
 我が家の解体の動画を見ていただく前に。
 この家は昭和42(1967)年に、父と母が建てた家だった。私は当時小学校5〜6年生だった。毎日学校帰りに建築現場に寄って、手伝いをさせられた。基礎を掘ったところに、近くの川から毎日一輪車に2台分砂利を運ぶのが私の役目だった。毎日、必ずやった。それから廊下、床の材料を糠袋で磨くのも、毎日の仕事だった。
 父は大工の棟梁と一緒に、建築材料の木曽の檜、秋田杉、青森のヒバなどを仕入れるために、全国を回った。棟梁と一緒に全国から仕入れて建てた、貧乏百姓の三男坊だった父の一世一代の家だった。
 私にとっても、毎日毎日手伝いに通って建った家だった。だから解体することには、非常に強い抵抗感があったが、先ほど(第一部で)話した事情でやむなく解体申請書にサインをした。そして我が家の「看取り」を中筋さんにお願いし、映像記録に収めていただいた。こうして作品を残して頂いたことで私の心は少し暖かく癒された。

●「fine(フィーネ) 2-2-A-219」映写
 会場設置のスクリーンに映された中筋純さんの映像作品を鑑賞した(こちらからご覧になれます)。

●中筋純さん
 この映像で、更地になったところに最後に打ち込まれる杭、あれは墓標のように思える。解体が富岡町の方から進んできて、富岡町の各所にあのような杭があって、墓標が並んでいるように思えた。2013年からずっと、月に1回とか2回浪江町に通っていて、僕の人生の中では同じ地にそのように通うことはなかなかないので、すっかり見慣れた風景になっていた。それが突然解体が進んで、なんというか、墓標のようなものが並んでしまった。「ああ、原発事故って、なかなか終わらないな。6年、7年経って、またじわじわと新しい取り組みが出てきて、とうとうその波が浪江の方にやって来た」と感じた。それで、堀川さんから解体の様子を撮ってほしいとお話があった時、ぜひやらせてもらいますと返事をした。
 解体は1ヶ月くらいかかるが、どういう手法で撮れば良いのか考えた。堀川さんが現場の人と連絡を取り合って情報を伝えてくれ、それを聞いて予定を立てた。一日工事現場に居ても作業中は現場に近寄れないので、作業員が弁当を食べている間に現場を撮っていたが、しばらくするうちに作業員たちと友達になった。そしていろいろな場所にカメラを仕込ませてもらった。
 そんなふうにして撮影していたが、僕は元々スチールの写真家だ。スチール写真は常に視点をいろいろなところに向けて、新しいポーズはないかと目が動いているのだが、今回の作業は家に対する堀川夫妻の思い出や、先代の思い、材料になった木などと歴史が重厚だ。その歴史をもろに圧縮した短い作品にするために、一点をずっと見つめるという手法をとってみようと考え、計算尺を構えてそこでずっと一点を見つめる微速度というやり方で臨んでみた。本来なら堀川さんのセリフなどを入れてドキュメンタリー仕立てにするやり方もあったが、ここは家の神様といったものに無言のサイレントの状態で何かを語らせるという手法にして、この作品ができた。
 ちょうど2月だった。梅の蕾が膨らんでくる、それからポツポツ花が咲き始める、その経過を見ながら、1ヶ月ちょっと自宅と浪江を行き来し、時には車中泊をしたり今野寿美雄さんと一緒に浪江の駅前のカラオケスナックで朝まで飲んだり。そのご縁でスナックのママがアパートを使っていいよと言って鍵を渡してくれて、お陰で屋根のあるところで眠りながら撮影できた。そこは水道も電気も無かったが、そういうところへ身を置くことで、自分の感性の窓が開く感じがあった。
 今も浪江の撮影に行く時には、大平山という請戸の共同墓地で車中泊する。なんで墓場に泊まるのかと言われるが、あそこで眠る人たちは原発の苦しみを一番に味わった。生きていたのに原発事故のために捜索を打ち切られた。そういう人たちの霊に護られながら、ちゃんと記録しておけよと言われているような気がして、毎回そこに行って床を敷いて寝る頃に、警察官が職務質問にやってくる。もう定番のようになっている。
 堀川さんの家の解体を撮影したら、今度は今野さんからも頼まれ、今野さんの自宅の解体の撮影もした。その1年後に今度は浪江小学校の解体もということになったが、さすがに小学校の解体は僕一人では、と思い、本来は断ろうと思いながら「浪江駅前のマンションの屋上に定点カメラを置けるならできるかもしれないが、これはマンションオーナーが絶対に許可しないだろう」と言うと堀川さんが、「あそこの社長は俺の塾の卒業生だ」と言って掛け合い、その日のうちにOKが出た。それで昨年はその撮影に3ヶ月ほどかかった。一点をずっと注視するという今までにやったことのない撮影のスタイルで、そのことによって炙り出されてくる原発事故の不条理を、人の直接的な言葉ではなく物言わぬものに憑依させて表現する。これは実は堀川家の撮影でも活かせた。
 堀川さんの自宅は庭付きの家の解体だったが、国のいう「解体」は家屋のみで、庭木や庭石は対象外になる。税金の問題もあるから土地を処分するには、庭の木や石を除かないといけない。それで堀川さんはついに庭木を処分することを決めた。庭には、その木陰で憩う家族の団欒の場であったような、家の守り神でもあるような大きな楓の木があった。その楓を伐採しなければならなくなった。それで、今度は楓にまつわる映像を一本つくった。嬉しいことに(中筋さんが主宰する)「もやい展」のアーティスト仲間が絵を描いたり彫刻家が木彫を作ったりして、楓にまつわる作品ができていった。
 物言わぬものが発する何かは、聞き耳をたて心をピュアにしてこちらが雑念のない状態でないと、なかなか入ってこない。だがそういうのを感じ取って何か表現するというのは、あれからもう11年も経って、その当時のことが全く記憶にない子どもたちが、将来知っていくためのきっかけになるのではないかと思っている。

●『木霊~KODAMA~』映写
 楓に風が渡る様、楓をめぐるある日の文夫さんと貴子さんの姿、伐採されていく楓、アーティストの金原さん、鈴木さん、安藤さんによる楓をめぐる作品などを活写した、中筋純さんの映像作品(こちらからご覧になれます)。

●堀川さん
 中筋さんには何日も、長い時間をかけて撮影していただき感謝しかない。また、今日この会場においでの画家の金原寿浩さん、鈴木邦弘さんもわざわざ浪江の我が家に来て、庭木の楓を描いてくださった。京都に避難している彫刻家の安藤栄作さんも、伐採された楓の木を材にして彫刻作品にして残してくださった。たくさんの方々にこうして頂いた事が本当に嬉しく、「これで家も楓の木もちゃんと成仏できるな、ありがたいな」という思いでいっぱいだ。

●中筋さん
 楓の木もそうだが、浪江の更地になった所では庭木が家の守り神のように立っている。それが解体後の奇妙な風景だ。それは自宅の解体は業者の仕事だが、庭木は持ち主の領分ということだからなのだが、ぼくにはそれら庭の木々が避難して遠くにいる家主の心を繋ぐ役割をしているような気がしていた。そこに根を張って、3・11から一日もたやすことなく街の様子を見てきた証人だ。
 ついこの間、完全に更地になった堀川さんの自宅跡に行って、とても空虚な感じを受けた。

●堀川さん
 楓が伐採されて庭が更地になったときは、家が解体された時よりもなお大きく抜けてしまった感じがした。近所の更地を見て、みんなもやはりそういう気持ちだろうと思った。

●中筋さん
 いろんな人から聞いてきて一番印象的だったのは、「屋敷が残っているときは遠くに避難していても屋敷があるから俺は浪江人だと思っていたのが家が解体されても庭木が残っているときは、庭木があるから俺はまだ浪江の人間だと思っていた」ということだった。ところが庭木が伐採されて、最後の存在が消えてしまった時に果たしてどうなのか、これが決定打という感じだ。

●堀川さん
 そうですね。自分の根っこが引っこ抜かれた感じだ。

●中筋さん
 原発事故があって復興作業が本格化するまでは、無人になって廃れていく街の様子から原発事故の理不尽さが表現できたが、それから町がどんどん更地にされて何も無くなっていくと、リアリティを撮って作品にしてきた者からすると、テーマを探すのが難しくなってくる。逆に言うと、その間をずっと見続け撮影してきたおかげで、原発事故は何もない更地という在り方で存在しているのが見えてくる。そんな時に楓は「まだ被写体は在る。オレを撮れ」と呼んでくれたような気がした。これは間違いない、楓がみんなを呼んだように思える。金原さんも鈴木さんも、安藤さんも。

●堀川さん
 僕は今住んでいる地域の小中一貫校の学校運営協議会の理事をしている。それがうつが晴れたきっかけだが、「浪江では一生懸命やってきたのだから、こっちでもやってほしい」と地元の人が推薦してくれた。それで変な濡れ衣(第一部で話した近隣とのトラブルのこと)が晴れた。
 今は収入も少しは必要なので塾の中学生部は残し、小学生部は無くした。そして子どもの居場所空間として2時から5時まで「松野たのし荘」を設けている。それと他の学習支援のコーディネーターとして、小学校の子どもたちのために週1回ボランティアをしている。
 (渡辺からの「自然豊かな浪江での生活はどんなでしたか」の質問に答えて)
 浪江は自然が豊かな町だった。友人と15名で船を買って、私ともう一人が操縦者で、「あした行ぐべ」などと連絡を取り合って週に3回は出漁していた。秋刀魚以外は、魚は買ったことがなかった。全て自分が釣ってきた。生きてバタバタしているのを捌いて食べていた。山では山菜取り、きのことり、季節になると“朝仕事”で、「ちょっと採ってくる」と採りに行く、そういう生活だった。
 仲間はたくさんいた。塾の卒業生もたくさんいた。それが、みんな無くなった。原発事故は、全てを奪っていく、そういうものだ。自然災害だと、無くなりはしない。自然災害の場合は、再びまたみんなでなんとか元通りの町を作ろうとするが、原発事故は、そういうわけにはいかない。全部無くなってしまう。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。