第243回:悼 早野透さん(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

早野さんとのご縁は…

 早野透さんが亡くなったのは、11月5日だった。もう2週間以上も経ってしまった。でも、なんだかそんな気がしない。いつものスタジオの隅のソファで、みんなの番組収録を腕組みしながら見ていて、頷いたり笑ったりしているような気がする。

 ぼくが早野さんと知り合ったのは、2011年のことである。
 当時、朝日ニュースターというBSテレビ局に「愛川欽也 パックインジャーナル」という番組があった。これは毎週土曜日の午前11時~午後1時の生放送で、その週のニュースから重要なことを取り上げて、5人の出演者が愛川さんの司会でそれぞれに話をする、という討論番組であった。
 ぼくはなぜか、そのうちのひとりとして、月に1、2度ほど呼ばれて参加していた。番組のプロデューサーが、ぼくが「マガジン9」に当時連載していた「時々お散歩日記」というコラムで毎回のように原発について書いていたことに目をつけてくれたのが発端だった。なにしろ、2011年といえば福島原発事故が起きた年。ぼくはとてもテレビに出るようなタイプじゃないけれど、原発についてなら伝えたいことはたくさんあった。そこで引き受けることになったのだった。
 その番組に、早野さんも出ていた。
 「早野透」といえば、多少メディアに関心のある人間なら知らぬ者はいないという、超大物政治記者だった。著書もたくさんあり、何冊かはぼくも読んでいた。そんな有名人だから、ぼくは親しく話すには、やや気後れしていた。
 やがて様々な事情があって愛川さんの番組は終わったのだが、終了を惜しむ視聴者の声も大きく、出演者の何人かが話し合って小さな市民ネット放送局を作った。そして紆余曲折があって、現在の「デモクラシータイムス」が誕生した。その中核になったのが9名の同人であった。早野さんもぼくも、その同人に加わった。
 これが、ぼくと早野さんの縁である。

神楽坂の居酒屋で

 最初はスタジオもない「タモリ倶楽部」のような、流浪のネットTV局だった。荻原博子さんの事務所を使わせてもらったり、升味佐江子さんの弁護士事務所の片隅から放送したりしていたのだが、やがて、早野さんのご尽力で小さなスタジオが確保でき、そこから定期的な放送が可能になった。すべて、早野さんのおかげである。
 そして、収録が終わると、出演者たちで神楽坂の超格安な居酒屋へ繰り出し、番組の反省会と称していろんな話に花を咲かせた。早野さんからもたくさんの話を伺った。それはぼくの知らない政界の裏話や、早野さんがもっとも親しく接していた政治家、田中角栄の人物像だったりした。
 その話に聞き入って、思わず時間の過ぎるのを忘れ、店員さんの「もう看板ですよ~」の声に促されるほどだった。
 こうしてぼくも、早野さんと親しくなった。

 ぼくは出版社出身だから、作家や教授、研究者、ジャーナリストなどの知り合いはかなり多いのだが、政治の世界にはとんと疎い。それでも、今でも保坂展人さんや福島瑞穂さん、辻元清美さんなどとは親交がある。実は、早野さんは彼らからもほんとうに慕われていた政治記者だったのだ。
 早野さんは、東大時代に丸山真男教授に学び、後に自民党総裁となった谷垣禎一氏とは東大山岳部での友人だったという。そして朝日新聞記者となり、田中角栄氏と差しで話せる唯一の新聞記者として名を馳せたのだ。自民党担当ではあったが、実は当時の社会党党首の土井たか子さんととても仲が良く、そのつながりで福島さんや辻元さん保坂さんなどを影日向に応援し続けたのだ。
 辻元さんが衆院選で落選した時には、早野さんは「うちに部屋を用意しておくから、東京での居場所に使ってくれていいよ」とまで言っていたほどだった。落選で気落ちしていた辻元さん、ほんとうに涙ぐむほど嬉しそうだった。むろん、それは早野さんの奥様の計らいがあってのこと。それほど、家族で付き合っていたのである。

「デモタイ」設立のころ

 一般社団法人として「デモクラシータイムス」を立ち上げる時、ぼくは早野さんと一緒に、公証人役場での登録や銀行口座開設などに携わった。
 しかし、いまだからこっそり言うけれど、早野さんはそういう事務仕事にはまったく向いていない。何が何だか分からないのである。それでも、早野さんがどっしりと控えてくれているだけで、なんとなく事がスムーズに進むのだから、さすがの貫禄であった。

 一度だけ、早野さんに大きな声でたしなめられたことがある。居酒屋でのこと。ぼくがやや田中角栄批判めいたことを言ったとき、「それは違うぞ、耕さん! 角さんには、絶対曲げない信条があった。憲法を守ることが角さんの思想の根底にあったんだよ」と、例の太い声で怒られたのだった。
 早野さんは、とても優しいけれど、譲らぬ一線を持っていた。

マッサージチェアで…

 ぼくは家族の事情で、葬儀には参列できなかった。
 そこで10日にご自宅に伺って、お別れさせていただいた。ご家族だけがいらっしゃるお部屋で、早野さんはほんとうに静かに眠っていた。ぼくらが知っている早野さんと、何も変わらぬお顔だった。
 奥様のお話では、お風呂上がりにマッサージチェアで居眠りしているので、毛布を掛けてあげたという。けっこう慌て者であった早野さんは、多分、自分が死んでいることに気づかなかったに違いない。でもね、そんなに慌てて亡くならなくてもよかったのにと、ぼくはさびしい。
 さびしいけれど、これ以上幸せな亡くなり方もないようにも思える。それでも、さびしいなあ…。

 奥様から、早野さんが眠っている枕元で、いろいろな話を聞かせていただいた。

 ほんとうに、何もできない人でした。何から何まで私に頼り切りでした。ある時、あの人が外出から戻ったとき、たまたま私が用事で出かけていました。するとあの人は、家中を探し回って、それでも私がいないものだから、外の交差点まで出かけて私を待っていたんですよ。そして、私がお買い物から帰ってくると、おーい、かあさん、いったいどこへ行ってたんだぁと、道の真ん中で大声を出すんですから、もう恥ずかしいったら…。
 ほんとうに家の中では何にもできない人でした。だから、お葬式にたくさんの方がお見えになるという報告を受けて、あの人はそんなにすごい仕事をしていたのかしら、なんて改めて思うんです…。

 家庭では、そんな早野さんだった。

同い年だったのに…

 実は、ぼくがかなりショックを受けたのは、別の理由もあった。それは、早野さんとぼくは同い年だったということだ。
 1945年、戦争に敗けた年に生まれた。その意味では、戦後という時代をそのまんま生きてきたのだ。日本という国が戦争から何を学び、そしてどう歩んできたか、それを自分の歴史として肩に背負いながら、ぼくらは生きてきた。
 そういえば、早野さんの葬儀で友人代表として弔辞を読んだ佐高信さんもまた、同じ年の生まれだ。ぼくは秋田、佐高さんは山形だから、戦争の悲惨さを直接感じてはいないが、早野さんは東京神楽坂育ち。そうとうな苦労があったという。
 そんな話ももっと聞きたかった。
 そういえば「神楽坂は花街。きれいなお姉さんたちに、トオルくんトオルくんなんて、ずいぶん可愛がられたもんだよ。可愛い少年だったからなあ…」などと、ちょっと自慢ふうの話も聞かせてもらったな。ん、そんなに可愛かったのかな?

 早野さんは膨大な取材ノートを残している。
 多分それは、戦後成長期日本の重要な資料となるだろう。ぼくがもしもっと若くて気力体力に自信があったなら、ぜひそれをまとめて「ある政治記者のノートから」というような本を作りたいと思う。けれどもう年齢的に無理だ。
 「デモタイ」仲間の山岡淳一郎さんや高瀬毅さんをけしかけようと思っている。

 それにしても、親しい人が先に逝っちまうのは、切ないものだなあ。

早野透さん(画像:デモクラシータイムスより)

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。