第50回:「子ども脱被ばく裁判」傍聴記「子どもたちの命は、子どもたちのものです」(渡辺一枝)

 2月1日、「子ども脱被ばく裁判」の内の「子ども人権裁判」の判決が言い渡されました。
 「子ども脱被ばく裁判」は以前のコラムでもお伝えしたように、「子ども人権裁判(行政訴訟)」と「親子裁判(国家賠償請求訴訟)」を合わせて審議されてきましたが、弁護団が求めていた二つの裁判の分離が叶って、「子ども人権裁判」の判決が言い渡されたのです。「ふくしま集団疎開裁判」から始まった「子ども脱被ばく裁判」の、ここまでの経緯を記します。

経緯

ふくしま集団疎開裁判

 福島第一原発事故から3ヶ月後の2011年6月24日に、福島県郡山市の子ども14人が、年間被ばく線量1ミリシーベルト以下の環境での教育を求めて「ふくしま集団疎開裁判」を提訴。福島地方裁判所郡山支部は同年12月16日にこれを却下したが、原告らは27日に仙台高裁に異議を申し立てた。仙台高裁は2013年4月24日にこれを却下したが、その時の判決文は奇妙なものだった。
 「1ミリシーベルトを超えた、あるいは超えることが確実に予測できる地域において教育活動を行なった場合、抗告人たちが健康を損なわれる危険性は明らかだが、国や地方公共団体がその費用によって集団疎開措置を行わない限り事態を打開できず、他に実効手段がない。学校だけでなく郡山市内で生活する限り低線量被ばくは避けられない。被ばくを回避するためには転居する他はない。転居に支障は認められないし、転居先の公的教育機関で教育を受けることは妨げもない」というものだった。
 つまり自主避難すれば済むではないかというのだ。郡山市内は低線量被ばくは避けられない地域だが、自主避難して避難先で教育を受ければいいではないかという判決だった。

二つの訴えを併合して提訴

 仙台高裁が申し立てを棄却した、この「ふくしま集団疎開裁判」を発展させる形で、「子ども人権裁判」と「親子裁判」の二つを併合して2014年8月29日に福島地方裁判所に提訴されたのが「子ども脱被ばく裁判」である。
 行政訴訟の「子ども人権裁判」は、福島県内の公立の小・中学生が原告で、県内の自治体(福島市、川俣町、伊達市、田村市、郡山市、会津若松市、いわき市)に対して、「被ばくの心配のない安全な環境下で教育を受ける権利が保障されていることの確認」を求めるものだ。
 一方「親子裁判」は3・11当時福島県内に居住していた親子が原告で、「原発事故後子どもたちに被ばくを避ける措置を怠り、無用な被ばくをさせた責任」を国と福島県に認めさせる国家賠償請求訴訟だ。「①SPEEDIやモニタリング結果など必要な情報を隠蔽した②子どもたちに安定ヨウ素剤を服用させなかった③それまでの一般公衆の被ばく限度の20倍もの年間20ミリシーベルト基準で学校を再開した④事故当初、子ども達を集団疎開させるべきだったのにさせなかった⑤御用学者を使って虚偽の安全を宣伝して、子どもたちに無用な被ばくをさせ、いつ健康被害が生じるかもしれないという精神的苦痛を与えた」ことに対しての損害賠償を求めている。
 行政訴訟と国家賠償請求訴訟と、請求内容や被告が異なる二つの裁判を併合して提訴という前代未聞の裁判だが、「被ばく」を争点にしている点では共通している。
 こうして二つを併合した形で「子ども脱被ばく裁判」として審議されてきた裁判の1審、2021年3月1日に福島地裁で遠藤東路裁判長は、いずれも棄却・却下という不当な判決を下した。原告らは仙台高裁に控訴した。

裁判分離

 仙台高裁でも当初は「子ども人権裁判」「親子裁判」を併合して審議してきたが、弁護団は二つの裁判を分離するよう求めた。子ども人権裁判の原告は2011年当時に県内の公立小・中学生だった子どもたちだが、中学を卒業すると原告資格がなくなってしまう。2023年には原告は2名だけとなり、その2人も3月には中学を卒業するので、原告がいなくなって裁判自体が失効する前に二つの裁判を分離して、子ども人権裁判の判決を何としても2023年3月までに出してほしいと考えたのだ。一方、親子裁判は、内堀雅雄氏(副知事、以下いずれも原発事故当時)、荒竹宏之氏(福島県生活環境部次長)、鈴木元氏(ヨウ素剤検討委員)、坂東久美子氏(文科省生涯学習局長)、遠藤俊博氏(福島県教育長)の5氏を証人申請して、継続審議とすることを求めた。
 仙台高裁の第4回控訴審(2022年9月12日)において、石栗正子裁判長は二つの裁判の分離を認め、行政訴訟(子ども人権裁判)は審議を終了し、2023年2月1日に判決言い渡しと指定。国家賠償請求訴訟(親子裁判)は2022年11月14日に期日を指定し、その時に証人の採否を決めると告知した。
 原告はもとより弁護団も、私たち支援者も、裁判が分離されることで、原告がいなくなることにより裁判そのものが立ち消えにならず、裁判所が何らかの結論を出す姿勢を示したことに胸を撫で下ろした。また親子裁判で申請した証人についても、裁判長が全員を認めないつもりならこの日に申請却下を言い渡すだろうから、そうならなかったということは5人全員でなくても一部でも証人は採用されるだろうと希望を持った。

第5回控訴審(親子裁判)

 まず昨年11月、国家賠償請求訴訟の親子裁判が第5回控訴審を迎えた。この日は初めに、原告の意見陳述があった。原告は郡山市から福岡に子どもと避難しているお母さんで、3・11当時、生後40日の我が子を抱いて、続く余震と目に見えない放射能にただただ不安だったという。保養の効用を知り、子どもを安心して安全に育てるために避難を決意し福岡へ行き、そこで暮らしている。
 「母子での暮らしは慌ただしいものの、我が子が健康にすくすく育っていくことが何よりも幸せだった。子どものために避難したとはいえ、生まれ故郷に帰りたい思いは今もある。しかしいまだに福島は、安心して暮らせる状況にない。
 もし、2011年当時、福島県や東電、国が正しい情報を迅速に知らせていれば、多くの人が無用な被ばくを受けることはなかったはずだ。この責任はいったい誰が取るのか。将来を生きていく子どもたちが健康に生きていけるよう、大人が正しい判断をし、行動していってほしい」
 傍聴席には、陳述する母親の背中を一心に見守る小学6年生の息子さんの姿があった。石栗裁判長は、時折は書類に目を落としながらも、陳述する原告の姿をじっと見遣っていた。そして、原告の意見陳述が終わると石栗裁判長は、原告代理人の方を向いて言った。
 「裁判所としては、お書きになっている立証趣旨は理解しますが、5人の証人尋問が必要だとは考えておりません」
 傍聴席からは「え〜っ」とざわめきが起きた。弁護団長の井戸弁護士がすかさず立ち上がり「前回裁判分離して、わざわざ今日の期日を設けたのは、何人かはわからないが証人を採用するお考えがあろうと期待していた。前回から今日までに、お考えが変わったのか」と質すと、裁判長は「前回の時点で審理を終えなければ、行政訴訟の判決を年度内に言い渡すことはできないので分離した。あの時点で証拠調べを必要と考えていたのではない」と答えた。
 柳原弁護士も「証人たちが出した結果について、我々は問題視している。結果を出すに至る過程を知るために証人から話を聞きたい」と迫ったが、裁判長の答えは「立証趣旨は理解しているが、5人の認証調べが必要とは考えていない」の一点張りだった。
 「証人尋問が必要なことは理解するが、尋問が必要だとは思わない」というのだ。理解に苦しむ言葉だった。

子ども人権裁判判決

ミニ集会・アピール行進

 そして2023年2月1日、いよいよ「子ども人権裁判」の判決が出る日。弁護団と支援者たちは仙台市内の肴町公園に11時半に集合してミニ集会を持ち、そこから市内をアピール行進して裁判所前まで歩いた。「子どもを被ばくから守ろう!家族も!自分も!」「子ども 脱・被ばく裁判」「子どもたちを被ばくから守ろう!」「国は被ばくを強要するな」「仙台高裁は十分な審議を尽くして」……メッセージが記された横断幕や幟、プラカードなどを手に、また何人かは鬼のお面をつけて。鬼の面は2日後に迫った節分に因んでだが、それだけではなくさらに深い意味がある。
 原発事故から半年後の9月19日、東京・明治公園で開かれた「9・19さようなら原発集会」で、福島県三春町在住の武藤類子さんは、公園を埋め尽くした参加者に向かって呼びかけた。多くの人の心に深く刻まれた、その日の類子さんのメッセージに因ってもいるのだ。
 「みなさん、こんにちは。福島から参りました。今日は、福島県内から、また、避難先から何台ものバスを連ねて、たくさんの仲間と一緒に参りました。はじめて集会やデモに参加する人もたくさんいます。福島で起きた原発事故の悲しみを伝えよう、私たちこそが『原発いらない』の声を上げようと、声をかけあい誘いあって、この集会にやってきました。
 (中略)
 3・11原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降り注ぎ、私たちはヒバクシャとなりました。大混乱のなかで、私たちにはさまざまなことが起こりました。すばやく張りめぐらされた安全キャンペーンと不安のはざまで、引き裂かれていく人と人とのつながり、地域で、職場で、学校で、家庭の中で、どれだけの人々が悩み悲しんだことでしょう。
 (中略)
 そして、今、半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは、真実は隠されるのだ。国は国民を守らないのだ。(中略)福島県民はいま、怒りと悲しみのなかから静かに立ち上がっています。(中略)そして、原発はもういらないと声をあげています。
 私たちはいま、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。
 私たち福島県民は、故郷を離れる者も、福島の地にとどまり生きる者も、苦悩と責任と希望をわかちあい、支えあって生きていこうと思っています。私たちとつながってください。
 (中略)いまつないでいる、その手のぬくもりを日本中に、世界中に広げていきましょう。
 私たち一人ひとりの背負っていかなくてはならない荷物が途方もなく重く、道のりがどんなに過酷であっても、目をそらさずに支えあい、軽やかにほがらかに生きのびていきましょう」
 あのメッセージから10年あまり。肴町公園からのアピール行進で私たちは、「静かに怒りを燃やす東北の鬼」になって、仙台高裁までを歩いた。裁判は午後3時開廷なので、1時からの1時間ほど「戦災復興記念館」で決起集会を持った。

決起集会

 集会は、原告代表の今野寿美雄さんの司会で進められた。

*柳原敏夫弁護士
 一審の福島地裁で私たちは証拠を100回分提出し証人尋問も行ってきた。福島地裁はそれに対して、きちんと応答せざるを得ないだろうと思っていた。ところが蓋を開けたら我々の主張に対して一言も触れていない。被ばくの危険性については色々見解はあるが、県や自治体は自分たちのすることは法律の中で自由裁量の範囲内であれば違法ではないと言う。
 原発事故が起きるまでは、こんな大きな事故は想定されておらず、これに対する具体的な救済法は何もなかった。法の穴になっていた。穴の部分は無法なので憲法や国際法などの上位規範で埋めるしかない。原発事故が起きたって、生存権や安全な環境で教育を受ける権利は切れ目なく続くのだ。子どもや大人に、そのような人権が保障されて然るべきで、それが「法の穴(原発事故後の救済策がない)」を埋める基準だった。
 ところが福島地裁判決は、避難させようがさせまいが、学校の安全基準を20倍に引き上げようが、SPEEDIの情報を出そうが出すまいが、行政庁の判断で良しとした判決だった。私たちの主張に応答することから逃げた。応答せずに法の穴があっても行政庁が自由にやって良いという前代未聞のザルの様な判決だった。それで私たちは控訴した。
 国際人権法に照らしてもおかしいと思い控訴すると、仙台高裁の石栗裁判長は我々の主張をもっと聞きたいということで、我々は書類を提出した。
 人権裁判は原告2名が卒業してしまうと失効になるので、なんとか今年度中に判決が欲しく、親子裁判は証人申請しているのできちんと審理をして欲しい。それで我々は裁判分離を申し立てた。一方で、石栗裁判長は来年度で定年退職となるので、自分の在任中に判決を書きたかったのだろう。裁判分離が認められたが、これは非常に画期的なことだった。支援者たちの「おハガキ作戦」(「子ども人権裁判」の公正な判決と「親子裁判」の証人尋問の実現を求めるメッセージを石栗裁判長に送ろうという運動)が大きな力になった。ところが、分離は認められたが証人尋問は全て却下で落胆した。
 石栗裁判長の心証は、寄せては返す波のようでどちらに転ぶかわからない。この事件は過去に前例のない、法律が穴だらけの無法状態に対して正しい救済を求める裁判なのだ。本来なら、(国会議員の)山本太郎さんが言うように「こんな裁判しなくても、国がきちんと子どもや被災者たちを救済すべき」なのだ。それをさぼったために起きた。
 こういう裁判は歴史の審判を受ける瞬間だと思う。歴史は私たち市民の無数の営みが作る。だから最後は、私たちの審判が真の意味の審判になる。その審判に晒されるために今日の判決はある。だからもちろん良い判決が出るに越したことはないが、仮に酷い判決だったとしても、これは私たちが、歴史が、裁くために出された材料にすぎない。我々は当たり前のことを主張しているが、その当然のことに対して裁判所が中身を精査してどう裁きを下すかだ。だが結局は、それは裁判所が裁かれる瞬間になるのだ。私たちが裁くつもりで、3時からの法廷に臨みたい。

*荒木田岳(たける)さん(親子裁判原告)
 私たちは「三権分立」と習ってきたが、今私たちが置かれている状況を考えると、日本には三権分立は無い状態ではないか(今野さんが荒木田さんに何か耳打ち。荒木田さんはそれを受けて)隣で「三権連立」と言う人もいるが(会場から笑)。
 原発事故の後に国会で、右も左も全会一致で「子ども被災者支援法」ができたが、行政府が実施計画を作ることをずっとサボり続けて、結局は法律は絵に描いた餅になってしまった。国会が立法府としての役目を担っていない。法律のほとんどは政府提案だ。行政府が提案したものが、法律になる。で、前回立法府が全会一致して作った法律を行政府がサボった。それを裁判に訴えたらどうなるか。裁判所は、それは行政裁量の中のことだから行政がやってくれれば良いいう判決を私たちはずっと聞かされてきている。そうすると、立法、司法、行政という三権分立はどこにあるのかという話だ。
 今日の判決、また今後の親子裁判がどうなるかは、日本の三権分立がどういう状態にあるのかを如実に示すような、リトマス試験紙のような裁判になる。そういう状況の中で私たちがどういう動きをすべきか考えていかなければいけない。置かれた状況は厳しい。

*佐藤美香さん(親子裁判原告)
 たくさんの方々、この寒い中をありがとうございます。
 2014年8月29日に福島地裁へ提訴した日から8年8ヶ月経ちました。この日、私の次男も自分の口で「ママ、伝えたいことがある。学校を休みたい」と言って休んで法廷に出て、自分の言葉で彼は立派に大勢の大人の前で話しました。彼が言った言葉は「福島産の物を食べるのは怖いです。友達がたくさん福島から居なくなり、とても寂しいです」。彼は大人に訴えるように言いました。
 この日は彼が8歳の誕生日を迎える日でした。大勢の方々に「君は今日、忘れられない誕生日を迎えたね」と言われた彼も、おかげさまで16歳になりました。しかし小学5年生で病気を患い、今は通信制の高校に通っています。病気はまだ克服していませんが、彼は夢に向かって頑張っています。彼が中学を卒業するときに、私に手紙をくれました。
 「お母さんは、どんなに辛いことや苦しいことがあっても笑ってきた。僕は今病気をしているけれど、頑張るお母さんの背中を見て、勇気をもらっている。これからもまた迷惑をかけるかもしれないけれど、もう少し見守ってください」と書いてありました。
 この裁判では、普通のお父さんお母さんが子どもたちを守るために立ち上がって、何もわからないところから原告になりました。私も自分の子どもだけでなく子ども達みんなを大切に守っていく社会になってもらえるように、声を上げることができる人が声をあげていかなければいけないと思い、原告になりました。私は難病を抱えていますが、勝手に大丈夫みたいな気持ちでやってきましたし、今現在もそうです。私は体は不自由ですが、心は元気です。そして声も元気なので、いつもみんなに元気だと言われますが、震災後から貧血で、今も貧血ですが、この裁判の判決を見守るために昨日は鉄剤を点滴して、元気一杯で今日は臨んでいます。
 子どもは宝です。子どもたちの命は、子どもたちのものです。自分の命は自分のものです。子どもたちを守るのは大人の責任です。
 今までこうして闘ってこられたのは弁護士の先生、ここに居る、そして今日ここにいらっしゃれない多くの支援者の方々、そして温かく見守ってくださる2人の共同代表、そして心折れながらも頑張ってくれた原告の方、仲間のおかげです。皆様に温かい励ましとエールで支えられてきました。本当に心から感謝しています。
 国や県は子どもたちに本当に謝ってほしいし、この裁判が公平に審議されることを願っています。今日は勝利を願いながら来ました。本当に、皆さんに支えられて、私は来ました。
 ありがとうございます。またよろしくお願いします。

*水戸喜世子さん(子ども脱被ばく裁判の会共同代表)
 危険なところで学校教育をしないって、当たり前のことだ。私たちは、学校は安全なところだと思っている。私が子どもを育てている時も、学校に行っていれば安全だと思っていた。学校は安全なところだと、みんな思っている。
 ところが学校の中が年間被ばく線量20ミリシーベルトなんて、とんでもないことになっていて、しかも20ミリシーベルトという基準は法律でもなんでもない。通常は、学校環境衛生基準という決まりがあって、水が安全であるかとか、騒音は大丈夫かなどと本当に厳しく点検や検査が入って学校の安全が守られている。私はそのことをこの裁判を通して改めて知ったが、原発事故が起きても、放射能に関する決まりがない、そこの規則がチカっと抜けている。
 それを作らなきゃいけないのに、無いまま裁量権で来てしまっている。本来、教育委員会には、学校をどう運営するかの裁量権はあるが、被ばくの安全基準を決める裁量権などない。そのことを知ったら、ますます腹が立ってきた。本当に私たちは、いいようにされている。
 今日はどんな判決が出ようと、事実は事実としてあるのだから、私たちは言っていかなきゃいけない。安全なところで、放射能の被害がないところで子どもたちが教育を受けられているか学校がちゃんと確かめて、守らせるようにしていかなきゃいけない。学校に言っていく力をつける。そういう世論にする。一人だけでは言っていけない。そういう世論に私たちはまだしていないと思う。支援者としての私たちの思いが、世論として当たり前にならなきゃいけない。
 子ども人権裁判はそういう意味で、支援者たちが裁判長に手紙(「おハガキ作戦」のこと)を書いた。裁判長に直接思いを届けられる事を、影響を与えられる事を支援者たちが知った本当に貴重な裁判で、私はこの裁判に関わることが出来て良かったと思っている。私たちは、この裁判をやってくることで、放射能や内部被ばくの危険性や、本当にたくさんのことを学んできた。もっともっと勉強しなければいけない。子ども人権裁判が終わっても、やることはたくさんあると思っている。これからも頑張っていきましょう。

*京都訴訟原告団から応援メッセージ
 共同代表の片岡輝美さんが代読。

*歌「雨に立つ人」
 シンガーソングライターの生田卍さんがこの裁判のために作った歌を披露。

仙台高裁101号法廷

 高裁の一般傍聴席79席は埋め尽くされた。裁判所職員から、傍聴人に注意事項が伝えられた。いつも通りの携帯など消音しておくようにとか、録音、撮影は禁止とかの他に、開廷前にテレビ撮影があるので、裁判官が入廷しても傍聴人は起立しないようにと指示があった。
 3時きっかり石栗裁判長他2名の裁判官が入廷、後ろから「撮影を始めます」の声がかかり、廷内は誰もが無言で物音ひとつしない静まり返ったまま時が過ぎた。途中「あと30秒です」と撮影クルーの声がかかり、30秒後に「撮影終了です」の声がかかった。この間2分だった。同時に後方に立っていた報道記者たちが記者席に座り裁判が始まった。
 書記が「令和3年第9号 安全な場所で教育を受ける権利の確認請求控訴事件」と読み上げると、石栗正子裁判長が口を開いた。
 「控訴人番号4-2の控訴人及び同13-1の控訴人について、原判決を取り消す。本件訴えを却下する。その余の控訴人らの控訴をいずれも棄却する。
 控訴人番号4-2の控訴人と被控訴人福島市及び控訴人番号13-1の控訴人と被控訴人いわき市との間では、いずれも訴訟費用は第1、2審を通じ、それぞれ控訴人番号4-2の控訴人及び同13-1の控訴人の負担とし、その余の控訴人らの控訴費用はその余の控訴人らの負担とする」
 裁判長は、判決の主文だけ述べて席を立った。この間わずか1分足らず。
 井戸弁護士はすぐに立ち上がって出ていこうとする裁判官らを止めて「理由を言っていただきたい」と迫り、傍聴席からも共同代表の水戸喜世子さんが「理由を述べなさい」と叫んだが、石栗裁判官以下2名はそれを無視して退廷した。傍聴席からは「人でなし!」などの声が上がり、憤りが渦巻いたまま、法廷は閉じられた。

「闘いの相手は司法」

 「司法は再び子どもを守らず」の手持ち幡を掲げて裁判所前に立った原告代表の今野寿美雄さんは、「司法は再び子どもを守りませんでした。最後の原告2名がこの春中学を卒業することで、原告がいなくなり、子ども人権裁判はこれで終わりです。私たちが闘っている相手は被告の国や東電ですが、私はこの頃、それよりも闘いの相手は裁判所、司法ではないかと思っています。不当な判決で本当に悔しいですが、支援者で講談師の神田香織さんの言葉のように『呆れ果てても諦めない』で、進んでいきましょう。大人には子どもを守る責任があります。これまでのご支援に感謝を申し上げると共に、これからも支えてくださるようお願いします」と言った。悔し涙が目尻に光っていた。
 原告の荒木田さんも「不当判決」の幡を掲げて、「主文しか読み上げない判決でした。理由をこそ聞きたいのに一言もありませんでした。理由のない判決でした」。
 美香さんは「悔しいですが、負けたとは思わない、これからも闘い続ける」と。

記者会見・報告集会

 再度「戦災復興記念館」に於いて、記者会見地報告集会を持った。
 弁護団が揃うまでの間、荒木田さんが関連事項について話した。

*荒木田岳さん
 (福島県)伊達市梁川地区にバイオマス発電所が作られている。群馬県の産業廃棄物業者がやっているが、産廃業者はバイオマスとは何の関係もない。廃建材6割、廃プラスチック4割で燃やす焼却炉だ。焼却炉を作るのに「バイオマス発電のボイラー」と称している。だから法的には焼却炉の規制がかからない。住民はみんな反対している。市議会も反対しているが、建設は進められている。それに反対する裁判が福島地裁で負けて、いま仙台高裁の石栗裁判長で、2月14日の判決を待つばかりだ。どういう判決が出るだろう。
 要するに今、日本の社会は焼却炉をバイオマス発電のボイラーと言い換えて、何の疑問も挟めない。裁判をやると勝てない。一体どうなっているのだろう。法的な規制はあっても、それは法律ではなくて努力目標のガイドラインであって、仲間内の同業者の間でしか通用しない、他の社会では通用しないような理屈で物事が進んでいる。
 こういう社会になってしまっているということを、私たちは考えなければいけない。それくらい危機感を持った方が良い。本当に恐ろしい事態が同時並行で多発的に起こっている。だから皆さんもいろんなことに目を向けて、ウォッチしていただけたらと思っている。

*井戸謙一弁護士
 一審に続いて大変残念な結果だった。
 裁判所には以前に、どんな判決であっても、その要旨を原告・傍聴者に向けて述べて欲しいと伝えていた。すると要旨はメディア向けにできているということだったので、要旨を読み上げると思っていたのに、主文を読み上げるだけだった。裁判所がよく熟考した上で判断したならきっちりと理由を述べる筈だ。判決の内容も裁判の在り方もあのような結果で非常に残念だ。原告の前で理由を述べるのを恐れたのかもしれない。
 私たちが求めているのは安全確保義務に基づく履行請求だ。一審はそう捉えないで、私たちが「今の学校教育では健康被害を生ずる」と主張していると曲解した。そして健康被害を生ずる具体的な危険は証明されていないと言って請求を棄却したのだ。それは間違いだということを控訴審では強く主張した。安全確保義務の履行請求をしているのだから、履行義務があるかどうかをきっちりと判断してくれと。したがってそれについての判断をせざるを得ないだろうと思っていた。放射性物質の規制基準は、学校環境衛生基準で挙げられている他の公害物質に比べて非常に緩い。年20ミリシーベルトでは7000倍も緩いことになる。健康被害が7000倍も多発する基準だ。そんな基準であって良い筈がない。
 今、放射性物質についての学校環境衛生基準は無いが、他の公害物質と同じレベルで基準を判断するべきだ。それなりの判断が出るのではないかと期待していたが、判決は「放射性物質については学校環境衛生基準が定められていないが、同様に適切な環境の維持に努めるべきだ」ということまでは認めた。だが「放射性物質についても他の公害物質と同じレベルの規制をすべき」という主張に対して、司法としてどのレベルで規制すべきかという判断をしなかった。安全確保義務はあるが、これは努力義務だという。なぜ努力義務かというと基準に具体的な定めがなく、そこから履行すべき具体的な内容を導き出せないからだ。結局一審と同じように、具体的健康被害が生じると証明できる場合には原告の主張する「安全な環境で教育を受ける権利があることの確認」を請求することができるが、単に安全確保の履行義務としてそのような請求はできないという理屈だった。
 安全確保義務の具体的な限度を導き出すためには、現在の状況が、あるべき基準からどれくらい乖離しているかを知ることが当然必要だ。どれくらい乖離しているかを認定して、その上で安全確保するためにどういう具体的な義務が導き出されるかという判断が必要だ。現在の福島県内の学校環境は、空間線量でいうと1ミリシーベルト前後、土壌汚染は1平方メートルあたり4万ベクレルというところもある。これは、放射線管理区域の基準を超えている。それを認めるのかどうか。それを基準内に収めるために、どういう方法があるのか、そこから具体的な原理が導き出される筈だが、その認定をしないで努力目標に過ぎない、具体的な線量基準を導き出せないということで逃げられてしまった。そういう判決だった。逃げられないように控訴審で主張してきたつもりだったが、非常に残念なことだ。
 この裁判では、放射性物質も他の公害物質と同じレベルで規制して、同じレベルで子どもたちの安全と健康を図るべきであるという我々の主張を伝えて、まともな司法の判断が欲しかったのだが、それが出なかった。非常に残念でならない。
 こういう結果になってしまったが、多くの人にこの裁判を知っていただいた。また、この裁判を広めていっていただいて、放射性物質の特別扱いを、なんとしても無くさせる運動を今後も続けなければいけないという気持ちを、新たにしているところだ。

*他の弁護士たちから
 弁護団長の他に柳原弁護士、古川弁護士、光前弁護士、崔弁護士らからの発言を、下記にまとめて記載する。
 「なんのために学校環境衛生基準があるのか。現状維持のために理屈をこねたとしか思えない。誰も病気になっていないからいいでしょ、というような話だ」
 「原告団では行政区内、学校周辺を測定して線量の数値を示したが、それは学校内の数値ではないから問題ないなどという。校内は除染をしているものの、学校周辺や通学路の危険は見て見ぬふりだ」
 「我々の主張に正面から反論していない。理由を示さずに結論を繰り返すだけだった。裁判の本質は理由を挙げて説明することなのに、それがなかった」

*質疑応答
 この後参加していた報道陣から、またネットで繋がっている記者から寄せられた質問に弁護団が答え、活発に応答があったが、難聴者の私には後方からの言葉が聞き取れず、メモが取れなかった。

原告代表挨拶

 集会の最後に原告代表の今野寿美雄さんが挨拶をした。
 「残念な結果ではありますが、『呆れ果てても諦めない』神田香織さんの精神を受け継いで、親子裁判を頑張っていきましょう。みなさん、子どもを守るために声をあげ続ける、これが一番大事だと思います。
 裁判所が三権分立していない、三権連立の状態なので、裁判所と闘っていきたいと思います。みなさん、よろしくお願いします!」

 「親子裁判」控訴審の第6回期日は、3月27日(月)午後3時~仙台高裁です。私もまた傍聴に行き、石栗裁判長の顔をしっかりと見据えてくるつもりです。
 どうぞこの裁判に目を注いでくださるよう、お願いいたします。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。