第53回:「子ども脱被ばく裁判」傍聴記「『この国には良識と正義が脈々と息づいている』ということを示していただきたい」(渡辺一枝)

 3月27日(月)は、仙台高等裁判所での「子ども脱被ばく裁判」親子裁判(子どもたちの被ばくに対する国家賠償請求訴訟)控訴審の第6回口頭弁論期日でした。開廷前の13時から仙台弁護士会館で学習会が持たれ、「子ども人権裁判(県内の自治体に対して、『子どもたちが被ばくの心配のない安全な環境下で教育を受ける権利が保障されていることの確認』を求めた行政訴訟。今年2月1日に仙台高裁で判決が出た)判決の読み解き」と「第6回控訴審の争点について」の2件の説明が弁護団の井戸謙一弁護士からありました。その後裁判所前に移動して「公正な審理と判決を!」「司法の矜持はないのか!」「努力目標で福島の子どもを守れるのか!」などのプラカードを裁判所に向けて持ってスタンディング。
 裁判は15時開廷。抽選なしで全員が傍聴できました。閉廷後は、また弁護士会館に戻って記者会見と報告集会が持たれ、17時頃閉会しました。

 まず、勉強会でのお話の内容を以下にまとめます。

「子ども人権裁判判決の読み解き」

 子ども人権裁判では、「①セシウム137、134による土壌汚染濃度が合算で1㎡あたり1万ベクレルを超えない地域、②セシウム137による土壌汚染が事故直後において1㎡あたり37000ベクレルを上回らない地域、③半径1km以内に1年間の外部被ばくが0.3ミリシーベルトを超える地点がない地域での教育を実施せよ」と求めるとともに、原告(子どもたち)には①〜③の地域で教育を受ける権利があることの確認を求めてきた。これに対して、仙台高裁は2月1日、「安全な場所における教育の実施」の具体的内容が無限定で、実現すべき結果が具体的に特定されていないから不適法だと結論づけ、請求を却下した。
 また、教育活動の差し止めについては、被ばく問題について被告らに原告の安全確保義務があることは認めたものの、これは努力義務であって、これを根拠に教育活動の差し止めを求めることはできない、差し止めを求めるためには人格権侵害の恐れが必要だが、そこまでの恐れがあるとは言えないからと、請求を却下した。
 被ばくによる健康被害は晩発性であること、低線量被ばくの健康被害について国際的なコンセンサスが形成されていないことから、人格権侵害の具体的危険性を認定するのは困難である。裁判所はそのことを利用して、「人格権侵害の具体的危険が示されていない」とした。我々はそれを判断基準にできないよう、他の公害物質と比較した判断基準を提示したが、裁判所はこれに触れなかった。
 私たちの計算では、年間被ばく量年1ミリシーベルトというもともとの基準でさえ、学校環境衛生基準による他の公害物質の規制内容と比較すると、健康被害が出る危険性が350倍にもなる。現状の年間20ミリシーベルトでは、7000倍もの危険性があることになる。だとすれば、それは教育活動を差し止める理由にならないのか? ならないのであれば、放射性物質については学校環境衛生基準の何倍の危険性まで許容されるのか、またその理由について司法の考え方を示すべきであった。
 裁判所は被告自治体には裁量権がなく、子どもらの人格権侵害はないとしたが、原告らの訴えに対する司法の回答はもらわねばならない。
 福島第一原発事故以降、住民の被ばく限度を20ミリシーベルト /年という通常の規制基準の20倍もの数値にするという措置や、住民を避難させずに縛り付ける政策、また汚染土の拡散や汚染水の海洋放出など、法律を無視した措置や矛盾した法律の施行が強引に進められてきた。近代国家として当然のことである「法の支配」の回復が必要である。「被ばくは可能な限り避けるべきである」という常識の復活が必要である。この裁判は、そのための礎になりうる。このままでは、福島の被ばく政策は原子力推進勢力によって、今後の世界の原発事故対応のモデルケースにされてしまう。

「第6回控訴審の争点について」

 今回は、準備書面11、および準備書面12について意見陳述し、無用な被ばくを受けることのない権利について、また住民の自己決定権が侵害された点について述べる予定だ。
 新たな証拠によって、事故直後に情報が隠蔽されたことがわかってきた。3月13日午前中には緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の情報を県は把握していたのに県民に知らせず、それ以降も公表しなかった。文科省も同じくSPPEDIの情報によって極めて広範囲に放射能汚染が広がっていることを掴んでいたのに、公表したら大変だと判断して公表しなかった。放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれることを防ぐための安定ヨウ素剤も配布しなかった。このように、情報の隠蔽によって、無用な被ばくを避ける権利が奪われたことが、今回の1点目の争点だ。
 2点目に、事故時の住民の自己決定権が奪われたことについて述べる。自己決定権は人権の決定的根幹的権利であり、災害時にも人は救助を待っているだけの受け身的な存在ではない。被ばくさせられようとしている局面においては、情報を迅速に正確に知らされる必要がある。自己決定権についてはこれまで明確に主張してこなかったが、世界人権宣言でも第一に取り上げているように、人権の根幹をなすものだ。被ばくを避けるために必要な情報を隠蔽し、高濃度の汚染地に留まることを強制したのは、自己決定権の剥奪である。

仙台高等裁判所101号法廷 15時~

 法廷では、弁護団の意見陳述の後で、原告の一人、長谷川克己さんが意見陳述をしました。

控訴人意見陳述

 「私は、福島原発事故から5ヶ月後に福島県郡山市から静岡県富士宮市に避難をした原告の長谷川克己と申します。事故前は、介護事業に運営する会社に創業から勤め、取締役として多忙ながらも充実した日々を送っていました。
 私は当時、原発問題にまったく無知であり、また、漠然とではありますが政府を信用しておりましたので、『原発が爆発した』という話を聞いた時も、『すぐに政府が救済策を打ち出すであろう。何らかの具体的指示が出るであろう』と思って、仕事を続けました。
 しかし、政府は、『落ち着いて行動するように。直ちに健康被害はありません』と、繰り返すだけで、一向にその気配がありません。『直ちに健康被害はありません』、この言葉を裏返せば、『後々、被害があるかもしれない』ということでもあり、恐ろしいことを言うと感じました。
 また3月15日あたりから郡山周辺にも高濃度の放射性物質が飛来していたことなど知る由もなく、甲状腺がん予防のための安定ヨウ素剤があることも知らないままでした。
 それでも、郡山市内では日常よりも非常に放射線量が高くなっていることはニュースや新聞などで知ることができ、ゆえに子どもや妊婦を中心に県外に避難する人が出ていることを知りましたが、4月頃になると政府はそれまで、被ばく放射線量の安全基準値を年間1ミリシーベルトまでにしていたのを、年間20ミリシーベルトまで引き上げ、学校を再開していく、地元産の食品を食べて応援していくという流れを推進していることも知りました。
 私は、政府が経済を守るために放射能の防護レベルを引き上げていくと言うのであれば、一方で、この地から避難すべきか迷っている人たちに対しても、適切に情報を伝え、その環境を整えていくべきではないのかと思いましたが、その努力はまったく感じられませんでした。
 そして、悩み抜いた挙句、『このままでは子どもを守れない』との思いに至り震災からちょうど5ヶ月になる日、妊娠中であった妻と幼稚園児であった当時5歳の長男を連れて、ふるさと郡山を『自主避難』という形であとにしました。
 政府も地元行政も『我々は経済を守ります。従えない人はご自由に』とでも言わんばかりの対応で何も責任を取らず、結局は自分たちで決め、人目を忍ぶようにこっそりと出ていかなくてはならないのかという口惜しさ、これではまるで夜逃げではないかとの情けなさが募りました。
 妻の両親が我が家から100mほど離れたところに住んでいたので、避難当日、最後の別れにもう一度、実家に寄り挨拶をしていくことにしました。
 ひと通りの挨拶を終え、両親が玄関先で見守る中、いざ、車を走らせようとした時、普段はおとなしい5歳の長男が、それまで落ち着いていたのに急に何を察したのか、『ばあば、さよなら!』『じいじ、さよなら!』『さよなら!さよなら!』と、何度も何度も絶叫しパニックのような状態になりました。
 私も、冷静を装っていた気持ちの糸が切れて、『何でこんなことになったのか。悔しい』という思いが湧き上がりました。『このままでは絶対終わらせない。この理不尽に必ずけじめをつけてみせる』と強く心に刻みました。
 そうしなければ、この子だけでなく、みんな田舎町で平凡に暮らしていたのに、福島がこんなことになっているのに、誰も責任を負わないなんてあり得ない、そう思いました。
 もちろん、今を生きる大人である私には、このことに対しての大きな責任があります。無知であり続けたこと、何もしてこなかったことなど、『子どもや孫に対して責任をもった生き方をして来なかった責任』です。
 ただ、事故後、暫く経った頃、当時の野田首相が『一億総責任論』のようなことを言い出しましたが、それは違うと思いました。
 少なくとも子どもたちには、まったく責任はないのではないかと思いました。また、『私にも責任はあるが、政治家であるあなた方には、もっと大きな責任があるはずだ。政府や原子力政策を推進してきた人たち、原子力推進の一端を担ってきた地元行政には、何百倍、何千倍の責任があるはずではないか。それを【想定外の事故だった】などと自己保全の前置きをしながら、一億総責任のように一緒くたに括ることは、ずるいし間違っている』という思いでした。
 あれから12回目の3月が来ました。今もまだ、子どもたちには放射線被ばくによる健康被害が出てくるかもしれないとの不安は拭いきれません。そのような親が私だけではないことも知っています。ゆえに私の中には、『自分がこの世を去るまでに未来に対しての道筋をつけるべき』という感情が今も強くあります。
 同様にこの国の政府、地方行政に対しても、この原発事故に対して、それぞれが分相応に、為(な)すべきであったこと、為せなかったことを明らかにし、取るべき責任をとり、未来への正しい対策を整えていくべきであろうという強い思いがあります。
 そして、それを裁く司法に対しても、『果たすべき責任』、『正しい姿』を、今を生きる子どもたち、民衆、そして後世の人たちの前に明らかにし、『この国には良識と正義が脈々と息づいている』ということを示していただきたいと強く望みます」

 長谷川さんの陳述には、傍聴席から拍手が沸き起こりました。石栗裁判長は、それを制することはしませんでした。
 閉廷後は弁護士会館に戻って記者会見、報告集会がもたれました。
 最後に「子ども脱被ばく裁判勝利のために」とシンガーソングライターの生田卍さんが自作の歌「雨に立つ人」を、ギター演奏しながら歌って、閉会しました。

*次回の期日は、7月31日(月)です。

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。