第263回:それでもぼくは新聞を…(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 あーあ…と、がっかりしてしまう記事。
 各紙に載っていたが、朝日新聞(5月4日付)を引用しよう。

報道の自由 日本は68位
主要7カ国で最下位

 国際NGO 「国境なき記者団」(本部パリ)は3日、2023年の「報道の自由度ランキング」を発表した。調査対象の180ヵ国・地域のうち日本は68位(昨年71位)で、昨年よりは順位を上げたものの、主要7カ国(G7)の中で依然、最下位だった。
 日本の状況について、「メディアの自由と多元主義の原則を支持している」としたものの、政治的圧力やジェンダー不平等により、「ジャーナリストは政府に説明責任を負わせるという役割を十分に発揮できていない」と批判した。(略)
 ロシアは昨年より九つ順位を落として179位、最下位の180位は北朝鮮だった。

 日本は68位、悲しくなるよね。
 でも、ぼくが悲しく思ったのは記事の内容ではない。それ以上に残念だったのは、このサラリとした書き方だった。政府発表をそのまま書き写すように、「国境なき記者団」の発表文をただ垂れ流しただけだ。発表文をそのまま流すのが報道だと飼い馴らされてしまった記者の鈍感さ。せめて、末尾でもいいから「我々は報道機関として、この指摘を反省し、政府の説明責任を厳しく追及していかなければならない」とでも、付け加えておくべきではなかったか。
 むろん、同日の他の紙面で、この記事を受けてなにがしかの検証や意見等が書かれているならば問題はない。けれど、この日の紙面を目を皿のようにして探したが、残念ながら「報道の自由度」に関する記事はこれだけだった。
 別に朝日だけではない。ぼくは紙の新聞3紙とデジタル版1紙の計4紙を購読しているけれど、他紙も同じことだった(ぼくの見落としだったのかもしれない。もしそうなら、どなたか教えてほしい)。
 「それなら新聞なんかとるのを止めたらいいじゃないか」と言われるかもしれないが、いや、それは違う、とぼくは思う。
 実際、最近は「新聞なんか止めて久しい」とか、「あんなものにカネを払う人の気が知れない」「新聞は偏っている」「ウソばっかりつく新聞は要らない」「ネットで情報はいくらでも取れる」などという意見が多い。マスメディア批判が当たり前のようになり、SNS上では「マスゴミ」という言い方が定番になってしまった(ぼくはこの言葉を使わない)。さらには、「今でも新聞にしがみついているのは老人ばかり」といった老人批判まで飛び出す始末だ。
 でも、カネのかからないネット情報だけを見て、それで「情報通」になったと思うなら、それは錯覚だ。タダより高い物はない。ネット情報のみを信じ込んで他人を批判し、それに疑義を呈する人を「情弱」だとバカにする。だけど、どちらが「情弱」か?

ファクト・チェックというシステム

 こんなたとえ話はどうか。
 5日、能登半島で震度6強の地震が起きた。震源域近くにあるはずの原発はどうなっているかと心配になる。確か「しが原発」だったよね。で、それをツイートしようとキイを叩いていたら、「滋賀原発」と変換された。
 よく見もせずにそのまま流した。そうすると「滋賀原発」がネット上で独り歩きする。いつの間にか、滋賀県に原発があったような…。
 むろん、そんな原発はない。新聞社なら、こんな間違いをすればすぐに、デスクが「バカヤロ、滋賀に原発なんかねえぞ」と怒鳴るだろう。校閲記者がきちんと「志賀原発」と直してくれるだろうから、紙面に載ることはない。そして校閲記者は「お前は無知だなあ。『しが』と打ち込むからこんな誤変換するんだ。あれはな、『しか』という地名なんだよ」と教えてくれたりするだろう。
 つまり、記者が「志賀」を、「しか」ではなく「しが」だと思い込むから起きるミスなのだ。それを、新聞社のチェック・システムが救ってくれるというわけだ。そうやって、若い記者は学んでいく。
 以上は、ぼくの作り話で、事実ではない。しかし、このような形のチェックがあるから、記事の事実関係は担保されている。むろん、それでもチェックミスや漏れが起き、誤った記事が載ることはある。けれども、それが事実と異なると判明すれば、すぐに「訂正記事」が載せられる。新聞ではそういうシステムが、曲がりなりにも確保されているのだ。紙面をよく見れば、「訂正とお詫び」がけっこう載っていることが分かる。人間のやることなのだから、間違いはある。
 だが、SNS上にあがった「滋賀原発」は、そのまま出回る。誤りに気付いても後の祭り。訂正しても元ツイートは残ったまま。かくして「誤情報」(デマも含めて)は、SNS空間を駆け巡る。
 ぼくが新聞をそれなりに情報源として活用しているのは、このシステムがまだそれなりに機能していると思うからだ。

「感想」のどこが悪い?

 情報発信が組織から個人へ移った、とよく言われる。確かに、今では誰でもが“情報”を発信できる。けれど、それが事実かどうかは分からない。思い込みの激しい人が、声高に「これが真実だ」と書き連ねることが、いわゆる「陰謀論」に成長して電波空間を跋扈する。しかもそこに、ある種の「ヒーロー」が誕生するから厄介だ。「ひろゆき現象」といわれるヤツだ。彼は論破王などと呼ばれてもて囃されているらしいが、いったいどこが「論破王」なものだろう。
 例えば「それってあなたの感想ですよね」という言い方が流行っている。実際、ぼくのツイートにも、そんな浅薄なリプが付く。なんのこっちゃ、とぼくは思う。感想のどこがいけないのか。
 書評だって映画評だって、まずは「感想」から始まるのだ。読んで(観て)面白かったか否か。そこからしか評は生まれない。感想を基に、では何が面白かったのか、どこがつまらなかったのか、その理由は何か、という具合に考えが進展していって、初めて「評」が成立する。当然じゃないか。どんなに内容の主張が正しくても、文章がひどかったり、演技が最悪だったりすれば、酷評を浴びることになるだろう。
 「あなたの感想」と切り捨てて勝った気分でいるとしても、ひろゆきさん、あなたは勝ってなどいないのですよ。
 感想のどこがいけないの? 物事の端緒を切り捨ててしまえば、議論など始まらない。もっとも、議論など最初からする気もなくて、ただ「勝ったという快感」だけが欲しいのでは相手にならない。

「老人は黙れ!」を利用するのは誰か?

 同じような「切り捨て論法」で、バカなテレビに引っ張りだこになったのが成田悠輔さんという人。
 最近のぼくのツイートに、「年寄りは黙れ」「老人は消えてくれない?」などというリプがやたらと増えた。歳をとるということが、まるで悪であるかのような風潮が世を覆う。こんなひどい国が、いったい世界のどこにあるだろうか?
 これは多分、成田氏の「老人は集団自決してくれ」発言の影響だろう。それに乗っかった一連の人たちの高齢者叩きがある種のお祭りになっている。
 こういう発言が、まったく何のチェックもなくSNS上に躍ることが、ぼくにはとても悲しい。議論するのはいい。しかし、「年寄りは黙れ」VS.「若い連中は無知」では議論など成り立つわけがない。
 だが、実際に世代間の対立を煽っているのは誰か。
 「若者の保守化」が言われて久しい。であれば、それを利用しようとするのは、当然ながら政権側である。
 政権中枢は、今でも老人たちが占めている。岸田首相だってすでに65歳、決して若くはない。老人の範疇だろう。
 そして政府の実権を握っているのは。麻生太郎、二階俊博、菅義偉、細田博之、更にはキングメーカーを気取る森喜朗…。こんな連中が、保守化したと言われる若い層を煽って「世代間対立」を演出する。
 誰が得をするか。結局、権力とそれに伴う利権を掌中にしたい老人たちではないか。
 本来、それに気づいていなければならないのがマスメディアだ。いや、ほんとうは気づいているだろう。だが「国境なき記者団」の指摘にあるように、日本のマスメディアは「政治的圧力やジェンダー不平等などにより政府に説明責任を負わせるという役割」を十分に発揮していないのだ。

取り返せ、真のジャーナリズム魂を!

 政府の動向を厳しくチェックして、個々の政策やその結果の責任を、国民の前に明らかにすること。無いものねだりと言われるかもしれないが、ぼくはやはりそこに期待する。情報源として、新聞はやはり大切なのだ。
 本来なら、テレビにもそれを期待したいのだけれど、悲しいことに、政府に許認可権を握られて萎縮しているのがテレビ報道の現状だ。

 ぼくはだから、まだ少し新聞に期待する。
 期待と失望を繰り返しながら、もうしばらくは新聞をとり続ける。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。