第640回:「金を返せ」。福島から避難してきた子どもが投げつけられた言葉。の巻(雨宮処凛)

 ネットフリックスで配信されている『THE DAYS』、あなたはもう観ただろうか。

 12年前の福島第一原発事故を描いたドラマだ。

 東電の吉田所長を演じるのは役所広司氏。臨場感溢れる映像に、手に汗握りながら一気に観終えたのだが、久々に「中央制御室」や「原子炉建屋」「ベント」といった言葉を耳にして、原発事故が自分の中で遠くなっていたことに改めて気付かされた。

 何しろ、あれから12年である。

 だけど12年前の記憶はやたらと鮮明だ。

 地震が起きた時のこと。テレビで津波を見て言葉を失った瞬間。原発事故への底知れぬ恐怖と不安。近所のスーパーやコンビニから消えた食料。そうして震災から1ヶ月後に行った「原発やめろデモ!!!!!」。そこで福島から避難してきた人が掲げていた「俺の双葉町を返せ!」というプラカード。ちょうどそれを見た時、デモのサウンドカーから流れていた歌の「悲しくて 悲しくて とてもやりきれない」という歌詞。その歌に、デモ隊のみんながおいおいと声をあげて泣いたこと。そうして1万5000人が集まったこのデモをきっかけに、全国各地に脱原発デモが広がったこと。

 この国に生きるほとんどすべての人が同じ不安の中にいて、多くの人がどうにか原発を止めようという思いで動いていた日々。官邸前には毎週のように数万人規模の人が集まり、それはいつからか「紫陽花革命」と呼ばれていた。3・11以降のこのような動きは海外メディアから「日本は市民デモ元年を迎えた」などと言われ、デモの現場では「原発がメルトダウンして、民主主義が再稼働した」なんて言われたりした。数万人規模のデモがあちこちで起きるようになり、そこは「権力の真空地帯」とも呼ばれた。そうして気がつけば、首都圏反原発連合のメンバーが当時の野田首相と面会したりしていた。

 今振り返ると、大震災と原発事故という「最悪」を目の当たりにして、怒りや使命感に基づいたエネルギーがあらゆる場所に充ち満ちるような1、2年を過ごしたように思う。あの時、放射能という脅威を前にして、私たちは誰もが等しく当事者だった。

 あれから、12年。あの時ほどの得体の知れないパワーが渦巻く光景を、私はしばらく目にしていない。ちょうど干支が一回りする年月を経て、私たちを「覚醒」させた未曾有の大災害は遠い過去になりつつある。この国は今も原子力緊急事態宣言下にあるというのに。

 そんな原発事故について、改めて「忘れてはいけない」と思わされる言葉に出会った。

 それは6月20日、東京高裁101号法廷で行われた「福島原発被害東京訴訟」の控訴審。原発事故により、東京に避難してきた人々が国と東電を訴えた裁判だ。一審では国と東電の責任が認められたものの、原告・被告双方が控訴。その控訴審がそろそろ結審ということで傍聴に行ったのだ。

 この日行われたのは、原告による意見陳述。

 法廷の真ん中に立ったのは、20歳のM君だ。

 私は彼を小学生の頃から知っている。原発事故により東京に避難してきた女性たちと仲良くなり、家を行き来するようになったのだが、お母さんに連れられてよくうちに遊びに来てくれたのがM君だったのだ。M君はうちの2匹の猫(今は亡きぱぴとつくし)と触れ合い、誰にでもすぐにデレデレになるつくしの方ではなく、ちょっと陰のあるぱぴを気に入ってくれて、ぱぴに関する作文を書いてくれたこともあった。そんなM君の意見陳述を聞いているうちに、涙が止まらなくなった。

 8歳で原発事故に遭い、家族5人で避難したこと。それきり家に帰れなくなるなんて想像もしなかったこと。避難してひと月も経たない4月、東京の学校に転入したこと。ランドセルも教科書もない彼を、みんながあたたかく迎えてくれたこと。

 しかし、ある日突然いじめが始まってしまう。きっかけは、「お金」。

 「全く身に覚えもないのに、急に僕がお金をとったと泥棒扱いされ、『金を返せ』と責め立てられました。そもそも普通の小学3年生は、学校に財布など持って行きません。お金など盗めるはずもないのに、どんなに否定しても理解してもらえず、訳もわからないまま、どんどん僕の立場は転落していきました」

 そうして、図工で作った作品に悪口を書き込まれる、休み時間に罵声を浴びせられる、足に鉛筆を刺されるなどが始まる。

 あとになってわかったのは、「僕へのいじめが始まる直前の週末に、東電が避難者への100万円の賠償金の仮払いを発表し、それが報道されていた」ことだった。

 「級友らが言っていた『金を返せ』は、賠償金のことだったのだと初めて合点がいきました。『可哀想な避難者』だった僕は、その日から『100万円もらったズルい奴』に変わったのです」

 「おそらくはクラスメイトの家族が、賠償金の原資が自分たちの払う電気代や税金だと話していたのではないでしょうか」

 しかし、区域外避難のM君一家は、そもそも賠償金の仮払いの対象外なのである。

 その後、M君は転校。が、転校先でも理不尽な差別に晒され、塾でもひどいいじめを受ける。腐ったジュースに消しゴムのカスを入れたものを飲めと言われたり、暴力を振るわれたり。

 「蔑まれ、笑われながら階段から突き落とされた時、『もうこのまま生きることを手放してしまいたい』という思いが頭をよぎりました。今、死ねば一矢報いることができる。ならば、もう抵抗はやめようと。それでも、体は反射的に身を守ろうとしていました。結局僕は、死ぬこともできないまま、ただ地獄のような日々を生き続けました」

 そして、私立中学への入学を機に自分の経歴をすべて隠すと、嘘のようにいじめはなくなったという。

 「僕が原発事故に遭って一番つらかったのは、放射能が降って来たことではなく、人々が分断されて平和に暮らせなくされてしまったことです。僕が死ぬほど苦しんだいじめも、結局は大人たちの分断の一部でした」

 M君の話を聞きながら、涙が溢れて止まらなかった。福島から避難してきて、さまざまな差別や偏見に晒されていることは耳にしていた。だけど、死を思うほどに追い詰められていたなんて。

 原発事故から、12年。

 今も故郷に帰れないままの人がいる。差別を恐れて避難者であることを隠し通して生きている人がいる。そしていじめがM君に与えた傷は、今も彼の心に残っている。

 意見陳述の最後、M君は言った。

 「僕が福島で生まれたことを、震えずに話せるような社会に戻してください。裁判官のみなさん、どうか、僕らの傷つけられた人権を回復し、この理不尽と苦しみから僕たちを救い出してください」

 しかし、そんなM君らの思いを踏みにじるように、国は現在、GX(グリーントランスフォーメーション)などと謎の言葉をぶち上げて、原発の新規建設や運転期間の延長、再稼働を柱とする原発回帰政策に舵を切っている真っ最中だ。

 ちなみに3・11の事故を受けて脱原発を決めたドイツでは、今年4月、最後まで稼働していた原発3基が停止。12年かけて脱原発を本当に成し遂げたのだ。

 しかし、レベル7の事故の当事国である日本は原発回帰。

 原発事故は、終わっていない。まだまだそう言い続けなければならない。M君の意見陳述を聞いて、改めて、思った。

 福島原発被害東京訴訟、次回期日は7月27日、午後4時から東京高裁101号法廷である(傍聴券抽選の可能性があるので15時半には裁判所前へ)。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。