第30回:出所後の行き場がない。刑余者のやり直しを阻む社会的制裁(小林美穂子)

 去年の話になるが、刑務所から満期出所したAさんの福祉事務所同行をした。
 当時、コロナ禍の余韻で生活困窮して家を失う人の相談が相次いでいた。つくろい東京ファンドのシェルターは常に満室。特にこの1、2年は出口のない仮放免者や、私達につながった途端に精根尽き果てて身動きが取れなくなってしまう方が多かったため、シェルターの長期利用が常態化して、なかなか空きが出ない。
 入所者がシェルターからアパートへ転宅し、ようやく空きが出たと思ったそばから埋まり、また長い間、回転しなくなってしまう。
 コロナ禍の初期は、まだ元気な方が多かった。しかし、最近の相談者はみな疲れ切っているし、福祉につながれば万事解決! などという例は一件もないほどに複雑化している。
 そんな理由でつくろいシェルターでも、あらたな入所希望者を受け入れることができず、Aさんの場合も福祉事務所に一時滞在場所を探してもらうことになった。

自立支援センターに断られる

 相談者が若くて就労意欲も強いことから「自立支援センター」の入所も視野に入れることになった。相談者も説明を聞いて納得、同意したので、相談係は「問い合わせてきます」と席を立った。しかし、なかなか戻ってこない。
 しばらくして戻ってきた相談係は、申し訳なさそうに「自立支援センターは受け入れが難しいそうです」と私達に告げた。自立支援センターを断られるってどういうことだろう。
 「なぜですか?」と聞くと、「地域とのお約束」との答えが返ってきた。だいたいの事情を想像できた私は、相談室の小部屋で大憤慨したのだった。
 自立支援センターが満室ということはあり得ない。東京23区内に5カ所あるセンターはあまり人気はなく、最近ではガラ空きで、センターによっては約70人定員のうち十数人しか入所していないセンターもあるほどだからだ。
 「地域とのお約束」とはどういうことか。それにはまず自立支援センターの説明をざっとすることにしよう。

自立支援センターってどんなとこ?

 自立支援センターとは、平成12年(2000年)から東京都と特別区(23区)がはじめた取組みで、住居と仕事に困る方で、就労意欲と能力がある方に対して就職に向けた支援を行う施設だ。
 収容できる定員は約70人。複数人部屋で、家賃や食費は無料。住民票が置けて、就労指導員がつく。センターに滞在できる最大6カ月間で就労してお金を貯め、自力でアパート転宅を果たすのが本来の設計だっただろうが、ことはそんなに単純ではない。 
 人が生活困窮する理由は、単に仕事がないからではなく、成育歴での並々ならぬ苦労や、疾病、障害、孤立など、いろんな理由が重なってその人の肩にのしかかり、足枷になり苦しめている場合が多い。なので、いまだに部屋と就労サポートがあれば万事うまくいくはずだ…なんて考えている行政のお気楽さが羨ましい。行政はお気楽だが、現場の人間は官民問わずして現在の困窮者支援の複雑さを理解しているはずだ。だって、自立支援センターの就労自立率は4割~5割程度と言われ、その中には「住み込み」も「就労自立」に含まれるからだ。その他は、就労に結びつかずに退所するか、途中で失踪する。住み込みで就労自立を果たしたことになっても、その仕事の契約が終われば再び住まいを失ってしまう。
 だから、無事に就労してセンターを出て行ったとしても、数年して再利用することになる場合が多い。東京都内の自立支援センターは一人につき3度まで利用することができる。
 私はこれまで多くのホームレス状態の方々と出会い、生活保護申請にも同行しているが、若い方だとかなりの割合で自立支援センターを経験している。それでも結局、仕事、生活、住まいに困って、私達につながる。
 「生活保護の申請を希望したのに、自立支援センターに回された」という声も少なくない。というより、多い。役所の皆さんは分かっていると思うけど、一応言っとく。
 それって、水際ですよー。

地域住民とのお約束ってなに?

 23区内に5カ所ある自立支援センターは、5年ごとに順番に設置される。つまり、5年経つと閉鎖して、ブロックごとに別の場所に作られるのだ。
 なんでそんなややこしいことするの? と思うでしょう。それには訳がある。
 読者の皆さんも覚えているかもしれないが、かつて東京都港区南青山に児童相談所やDV被害者などを一時保護する母子生活支援施設を設立する計画が、一部住民の猛反対に遭い、ニュースになったことがある。あのニュースの衝撃は未だに記憶に残っている。
 障害者のグループホーム建設でも反対運動が起きる。
 子ども、母子、障害者のための施設ですらそうなのだ。大人のホームレス状態にある人達を支援する自立支援センター設置なんて、そりゃもう毎回住民による大規模な反対運動が起きる。だから都や自治体は、平身低頭住民と話し合いを重ね、住民の意見を聞き、取り入れ、センター設立にこぎつけるわけで、そこに「お約束」というか、条件ができるというわけだ。
 過去にはセンターの窓を閉鎖しろというものもあったらしい。布団や洗濯物を干すな。センター入所者の生活感が出ないようにしてくれ。窓から外を覗くな。などというものだったと聞く。
 「ヘイ、みんな、リメンバー人権!」と、韻を一つも踏んでいないラップを法務省の人権キャラクター「人KENまもる君」と「人KENあゆみちゃん」に歌ってもらいたくもなるが、残念ながら、これがこの国の人権意識の現在地だ。
 お約束は入所者の生活に留まらず、入所者選別の条件もあり、「刑務所からの出所者は入れてくれるな」もあったと聞いたことがある。Aさんはそれに引っかかったのだった。

刑に服したあとは社会的制裁が待つ社会

 結局、Aさんは簡易宿泊所での保護が決まったが、エアコンもない居住環境は健康にも良くないため、生活保護が決定すると同時にアパート転宅の許可も出た。
 しかしである。保証会社の審査に通らないのだ。壊滅的である。あらゆる手を尽くして部屋探しを手伝ってくださった頼もしい不動産屋が、「ちょっと難しいです」と顔を曇らせた。
 保証会社は入居希望者の名前でネット検索をする。そこで何らかの好ましくない記録が残っていたら、審査は通らない。物件を探しても、探しても、審査に通らなければ、団体で物件を借り上げてサブリースするしかない。しかし、そのニーズに応えていたら、つくろい東京ファンドのような行政の援助も受けない小さな民間団体なんて潰れてしまう。
 考えてもみてほしい。
 日本は法治国家だ。犯罪は法律に則って裁かれ、罪を犯した人は、刑に服したのちに再び社会(シャバ)に戻って来る。家もなく、頼れる家族がいない人も多い。そんな人達が不安を抱えながらもやり直そうとする社会で、社会の側が彼らの目の前でドアを閉める。どこに行ってもバタンと問答無用で閉められる。
 私は皆さんに問いたい。
 彼ら/彼女らはどうしたらいいんですか?
 家も貸さない、仕事も雇わなければ、生活保護以外に生きる道はない。でも、生活保護を利用したところで部屋は借りられない。部屋が借りられなければ、就労も難しい。

反社や貧困ビジネスが救世主な日本

 「家なし、金なし、コネなし、あと、知恵なし、夢なし。この5つが揃ってしまうと、都会で生き延びるためには、もう悪いことをするしかないような気がします」
 塀の中の事情に詳しい友人が話してくれたことである。
 刑務所の中ではよくない情報交換がたくさん交わされる。軽犯罪で服役している人が、そこでの出会いから更に悪くなって再犯を重ねる。でも、最初は誰もが「やり直したい」と思っていて、「また刑務所に戻りたい」と思ってる人などいない筈だとその人は言う。
 だけど、出所したところで社会は彼らを受け入れない。
 家がなく頼る人もおらず、出所後の生活に不安を募らせる服役者に「俺の兄貴が面倒みてくれる」と優しい声をかけてくれるのは反社だったりする。
 出所して路上生活になった人に「部屋あるよ」と声をかけるのは貧困ビジネスだ。

 「公助は反社に負けているし、支援団体は貧困ビジネスに負けている」
 これは生活困窮者支援の最前線を走る同僚・佐々木大志郎が口にした言葉だ。
 支援団体が提供するサービスに不足があるわけではなく、貧困ビジネスのアプローチの仕方が、ネット上でも、路上でも、あまりに巧妙かつ魅力的で生活困窮者の心を掴んでしまう。それが利用者にとって良い結果になることはあまり無いのだが。
 私がかつて、NHKの「こころの時代」で取り上げてもらった直後からしばらくの間、事務所宛に拘置所や刑務所から何通も手紙が届いた。その全部が、「出所後に行き場がない」というものだった。

 私達は誰もがみな自分の身の安全や平和を大事にしている。感情を理性で超えるのも難儀なことだ。
 だけど、特定の誰かを排除し続けたところで、安全や平和はもたらされない。むしろ悪くなる。罪を犯した人の居場所が一生刑務所しかないのだとしたら、この社会はあまりに狭量で貧弱だ。これは自立支援センターや特定の誰かだけの問題ではなく、私達一人ひとりが考えなくてはいけない課題だ。それがとても難しい問題なのは、生活困窮者支援の現場に身を置く私も承知している。しかし、まずは、この世の人すべてに無条件に「人権」があるという大前提から始めたい。
 その人権が尊重されていないと感じる人達を、行政は助ける義務がある。
 ここでも「公助、共助、自助」の順番であるのが基本だと思う。人KENまもる君と人KENあゆみちゃんが泣くぞ。つーか、変なキャラクター要らないから、刑余者の住まいと支援策の拡充を頼む。あと、デジタルタトゥーと忘れられる権利についても議論を進めて欲しい。

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 奇しくもマガジン9で先週アップされた雨宮処凛さんの連載が、刑務所と生活保護についてだった。雨宮さんの記事(「第646回:末期がん、余命わずかで死刑を宣告されたあるロスジェネ〜刑務所と生活保護・貧困ビジネスの後半生。の巻」)と併せて読んでいただけたらと思う。
 

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。